All's fair in love and war. ≪なりふり構っちゃいられない≫ 16
圭太が日に焼けた肌を耳まで赤くして俯くものだから、今度はトオルのほうが吹き出してしまった。
「可愛いねー、少年」
「か、可愛くねーすからっ! ぜんっぜん、可愛くねーすから!!」
「いやいや、今のはなかなか初々しくて良い」
一頻り堪能したので満足して頷く。圭太はますます赤い顔だ。恥ずかしいのと、返しに困ったので表情もくるくる入れ替わっている。こういう反応は大人になると逆にできなくなるよなーと、変な位置で感心する。
「言っときますけど、俺、本当にクロのことなんか……」
プライドなんだか何なんだか、ここまでしっぽを晒し切っても圭太はまだ食らいついてきた。が、素面のときならまだしも、いい感じに酔いの回った今はツボを外した笑いに興味はそそられない。
トオルはすっと立ち上がった。向かう先はドリンク類を冷やしている冷蔵庫だ。まだブチブチと言い訳とも屁理屈とも取れるような文句をこぼしている圭太を無視して冷蔵庫の中から新しいビールとコーラの缶を一つずつ取り出す。
コーラのほうは圭太の顔の前に突き出した。「いいんすか?」と遠慮がちの顔と言葉にトオルは苦笑だ。今時の高校生は、なんて言ってるのは誰だ。今時の高校生だって、ちゃんと素直で礼儀をわきまえてる。彼らの事情を複雑に歪ませているのは、今回みたいに大人が大人の事情で彼らをいいように振り回しているせいじゃないかとも思える。
トオルが自分のビールのプルトップに指を掛けたとき、携帯電話の呼び出し音がなった。どちらのものだろうかと一瞬圭太の様子を伺ったが、初期設定のままの着信音なんて高校生的にはありえないのかもしれない。反応もしないので自分のものだとわかる。右手の指はそのままプルトップを引き起こし、左手で尻ポケットから携帯を取り出す。パネルを見る前にまずはひと口呷ってから目を落とした。
美純だ。
「わり、ちょっと電話だ」
圭太に左手で外すことを示すと、店の入口を出た。彼氏彼女の関係であることは知れているとはいえ、30過ぎの男が10代の彼女に吐くセリフを聞かれるのはやはり気恥ずかしい。
「どうした? もう、仕事は終わったのか?」
向こうからの言葉を待たずにトオルから切り出した。耳に、成りかかりの言葉が消えるのが聞こえる。そして言葉を作り直す唇の気配。
「あっれー、今日、出るの早いね。もしかして、もうお店終わり?」
風に揺れる鈴の音のような声が耳に心地良い。美純は問いかけに質問で返してくるのが多いと気付いたのは、付き合い始めてしばらくしてからだ。だから、最近は自分の言葉の一つ先の答えを持っておく癖がついた。
「ああ、今日は思ったより引けが早かった」
「そっかぁ」
電話の向こうの声のトーンが少し低くなったのが気になって訊ねる。
「どうした?」
「んー、実はもう途中まで帰ってきてるんだよね。あと3、40分で着きそうだから、ちょっと寄っていこうかなって思ってて」
「ああ、そうか」
「でも、もう閉めるんじゃ悪いからまたにするね」
口ではそう言いつつも裏腹な気持ちが声から滲んでいる。声色の低空飛行は今にも胴体着陸しそうで、そんなところを不器用でも精一杯に隠そうとしているのがわかるから、尚更可愛くて仕方がない。
言おうとして、言葉に詰まったのは胸の甘苦いのに苦しめられたからだ。唇を湿らせてから同じ言葉をもう一度言い直す。
「いいよ、待ってる」
吐息が紅くなるのが分かった。
「えー、いいよ、いいよ」
「なんで?」
「別に今日じゃなくてもいいし。それに最近はちょっとは慣れてきたから早く終われる日もでてきたんだよ。だから……」
美純の声は尻すぼみに小さくなっていく。本当に嘘が下手だ。
「あのな、俺が会いたいって言ってるの、わかんない? それとも会いたくさせるだけさせといて放置プレイか? それで気持ちよくなれるような性癖は俺にはないぞ」
「…………」
ここで美純に決断を委ねてしまうと彼女は大抵自分から場を降りてしまう。だから、トオルのほうがさっさと手持ちの札をさらして押し切ってしまうのが吉なのだ。
「大丈夫、ゆっくり来いよ。お客もあとひと組残ってるからそんなに慌ててこなくてもいい。走ってコケたとしても、この時間じゃ笑ってくれるようなありがたい通行人は少ないだろうしな」
言いながらくつくつと笑った。
「こ・け・ま・せ・んっ!」
反論はきっといつもみたいにほっぺたをぷくぷくにさせながらだろう。その様子が色付きで想像できるくらいに自然に想像できて、また笑えた。
ひとしきりそうしている間に、ふっと美純のほうの空気が揺れた。
「あれ、でもさっきお店は閉めたって言ってなかった?」
「ああ……」
トオルは一歩分足を踏み出して窓から店内を覗き込んだ。酒場のカウンターにはまったく似合わない背中が見える。借りてきた猫でももうちょっと空気に馴染みそうなものだ。
手持ち無沙汰の圭太はどうやら棚に並んだウィスキーやらスピリッツやらを眺めているらしい。しかし、彼にとっては中身がどれほど違っても大して意味はないだろうから、一本数万円のプレミアムな酒にも感動なんてあるわけがない。全体が一つの風景に過ぎないはずだ。
あんまり長いこと放っておくのも可哀想だなと思い、美純との電話を畳みにかかる。
「たまたま知り合いが来てる。ちょっと一緒に飲んでるんだ」
「あれ、平太さん、来てるの?」
「いいや、違うよ。あいつじゃない」
「えっ、じゃあ、私が行っちゃ悪くない?」
気を使って引こうとした美純を、トオルはちょっと強い口調諌めた。
「俺が来いって言ってんだから変な気を遣うなよ。それにこっちはもうすぐお開きにするつもりだったから」
「そうなの?」
美純のそれは安堵に近い。
「そうだよ。だから待ってる」
「うん」
またあとで、そう締めてから電話を切ろうとして、トオルははたと踏みとどまった。
「……なあ、お前んところにクロエから電話かメールがあったんじゃないか?」
美純がかすかに驚いたのがわかった。
「あった、クロエから電話。なんでわかるの?」
それには答えず、トオルはさらに訊ねた。
「そっか。で、なんて?」
「ううん、バッグ手元に置いてない時だったから取れなくて。でも、一回だけでそのあとメールも留守電にもメッセージがなかったから大したことじゃなかったのかなぁ、って思って。なんで?」
トオルはしばらく無言になった。
頭の中でクロエ行動の意図を推し量ってみる。
年の離れた彼と恋愛する友人を心配して、わざわざ相手の男の品定めに来るくらいの仲だから、このまま別れの挨拶もなく黙って行ってしまうようなことはないだろう。ただ、状況を知らない美純にあえて自分の口から伝えようとしているのなら、今の多忙な彼女を捕まえるにはそれなりに運が必要だ。
「なぁ、美純。クロエにメールしておけよ。これからここに来るってこと」
「ええっ、なんで? それじゃあ、クロエをお店に呼び出してるみたいじゃない?」
こんな時間だよと美純は難色を示したが、トオルは事情は説明せずに意向を押し通そうとした。双方の内情を知る身ではあるが、自分の口からそれを明らかにしてしまうのは筋違いだ。
「いいからっ。来るか来ないかは向こうが決めることだし、もしかしたら大事な用かもしれない。それに、あっちにはお前が今どんなことをやってるかちゃんと説明してないんだろ? お前が忙し過ぎるからすぐにメールの返信もできないの、あの子のほうは知らないんだ。そうしたら、ちょっとくらい無理にでもお前の方からタイミング作ってやらないと。何時連絡してもつながらない返事もないじゃ、クロエの側からしたら感じ悪いとしか取れないぞ」
「うっ……、ん。……」
美純は、翠からの指示でトオル以外の人間には自身の現状を明かさないよう釘を刺されているらしい。そして、それが商業的な意味での戦略だと頭では理解していても、友人に秘密を作っていることを引け目に感じずにはいられないのが美純という娘なのだ。だから、こういう言い方をすると効果があるのは知っている。
それが双方のためを思っての根回しであっても――自分の彼女の弱みを突くのはいい気がしない。
「じゃあ、待ってるから。……それと、お前、なにか食べたいものでもあるか?」
せめて後味の悪さを薄めようと訊いてみたのだが、美純からは「へーき。ご飯はもう食べてきたし」と断られた。口直しの機会を逸したまま電話を切ると、トオルは一つ大きく深呼吸して気持ちを入れ替えてから再び店の中へ戻った。
「悪いな、ずっとほっといて」
「いえ……」
トオルが席に戻りつつ詫びると、振り返った圭太はなんとなく気まずい顔をした。
「あの……電話、四方からですよね? すいません、聞くつもりはなかったんすけど……」
座りかけた動作が一瞬だけ固まった。
声は抑えて喋っていたつもりだったが、考えてみれば他には音らしい音もなく、車ですらほとんど走っていないのだ。聞こえていてもおかしくはない。
が、圭太が謝るべきことではない。迂闊なのは自分だ。
「ちゃんとは聞こえてなかったっすから……でも、」
と入れられるフォローがさらに気まずいさを増す。
「いや、いい。お前は悪くない」
「はあ……すんま」
トオルは右手を振ってそれ以上の言葉を制す。
圭太は曖昧に頷いて、手に持った缶から直接コーラを飲んだ。抑えたつもりだったのだろうがBGMもない店内ではかすかなげっぷの音も響く。なんとなく照れた表情をする。そのおかげで、微妙だった空気が少しだけ和んだ。
「そういえば、告白したのって四方からだって聞きました」
たぶん、情報源は朱奈だろう。顔には出さないが内心、苦い。
「ああ」
「やっぱそうなんだ。あいつ、マジでスゲー。年上の男にコクるとかガチで気合入ってる」
「ああ見えて、結構芯はある。確かにすげーよ、美純は」
惚気に聞こえるかなと言ってからまた苦くなったが、圭太はそんなふうには取らなかったようだ。感心したように頷いている。
「なぁ、人のことなんかより、自分のほうはどうなんだよ?」
「えっ?」
「『え?』じゃないだろう? クロエ、だよ」
「い、いや、だからっ……それは全然、」
しどろもどろになる圭太の頭を平手で叩く。
「変に意地はって卑屈になって、そのせいで後で後悔するハメになってもいいのかよ? 俺は思うよ、お前のは今が言うべきタイミングなんだって。彼女と会って、直接伝える機会はこの先もうないかもしれないんだぞ。お前が何年か掛けて育ててきた思いはそんなふうに自然に消滅することになっていいもんなのか?」
「…………ッ」
圭太が一瞬だけ悲愴な顔をして、それをトオルに見つかったからだろう。慌てて顔を背けた。
「お前さ。本当はクロエのこと、好きなんだろう? それ、今、言わなきゃダメなんだって」
トオルの口調は自然と説得口調になっていた。
しかし、圭太は今度も頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。