All's fair in love and war. ≪なりふり構っちゃいられない≫ 14
智はその場で通話ボタンを押そうとして、一瞬躊躇した。
顔を上げ、トオルをうかがったのはこの年の子供にしては常識のあるほうだ。目顔で入口を示すと智は小さく頷いてから店の外に出て行った。
「……んだよ、あいつ。俺に聞かれたくないことでもあんのかよ」
「ばーか。何、捻くれてんだよ。お前がマナーなさすぎなんだ」
智の出て行った扉のほうを見やりながらムスッとする圭太に、トオルは容赦なく言った。圭太は意味がわからなかったのかトオルにも不服そうな一瞥を投げてくる。いちいち説明してやるのも面倒なので、トオルは気づかないふりでその視線を流す。
智はそれからしばらく戻ってこなかった。
耳をすますと、時折外から聞こえてくる声で彼がだいぶ興奮しているのがわかる。何を話しているのかまでは聞き取れないが、どうやら色っぽい内容ではなさそうだ。
待つ圭太のほうは口を一本線みたいにしてだんまりの一点張り。こちらも傍目でわかるくらいに機嫌は降下中である。トオルもたまには気を使って話しかけたりするのだが、返ってくる返事は「あん」とか「はあ」とか張り合いがないので、次第に話しかけるのも面倒になってしまった。
そして、トオルがいくつかドリンクのオーダーとデザートオーダーをこなしたあと、ようやく智が戻ってきた。
「おい、圭っ」
手で仰ぐように呼ぶ智に、しかし圭太は反応しない。
「圭! クロエ、電話、替わってくれって」
智は大股で歩み寄って圭太の肩を掴んだ。しかし、圭太はその手を振り払う。
「圭ッ!!」
「うるせーな。聞こえてる」
「聞こえてんなら早く来いよ。クロエ、電話替わってくれって言ってる」
「……出ねーよ。出たくねえ」
一瞬智の顔がこわばって、それからみるみる眉間に深い皺が寄せた。
「お前、なに言ってんだ?」
訊かれても圭太はだんまりだ。智の鋭い視線を避けるようにさらに深く俯いてしまう。
「クロエ、今、すげーキツいのわかってんだろ。励ましてやれよ」
智の手が再び圭太の肩を掴んだ。圭太はまた振り払おうとしたが、今度は智がそうさせない。体重をかけて肩を押さえつけるようにしている。圭太が聞こえるように露骨な舌打ちをした。
「早く出ろよ」
智の声は低く叩きつけるような声で言った。
「出ねーよ」
それに答える圭太の口調は、聞き手によっては小馬鹿にしているような音だ。そして、当然のように智はそう取る。
「出ろっつてんだろ!」
智は掴んでいたTシャツの襟を引っ張り上げ、無理やり圭太を立たせようとした。一瞬よろめき、たたらを踏んだ圭太の足がストゥールを蹴倒して派手な音をさせる。智はそのまま圭太を店の外まで連れだそうとするが、圭太のほうも無抵抗ではない。シャツを掴む智の手を力づくで引き剥がすと、さらに突き飛ばして距離を取った。
「やめろよ。なんで俺が出なくちゃなんねーんだよ。どうせお前が余計な気を回して取り次ごうとしてるだけだろう? そんなのお節介なんだよっ」
「……あぁ? 圭、お前、マジでそれ言ってんのか」
智の声が一段低くなった。
「ムカつくんだよ……その同情みたいな扱いが」
圭太の声も搾り出すように低い。
二人の周辺の空気は一気にピリピリし始めた。ちょっとしたきっかけさえあればあっという間に火がつきそうな緊張感で睨み合っている。
しかし、ガキどもの都合はどうであれ、今それを店の中でやられるのは迷惑極まりない。トオルは肩で一回深呼吸した。
「おい、お前ら」
大声など出さなくとも言葉にのせた威圧感だけで十分圭太と智を黙らせることはできる。そこは年季の違いだ。
「俺は次やったら出禁だと、言ったよな?」
ことさら穏やかな口調で言った意味はちゃんと理解できたらしい。直前の一触即発な雰囲気はどこへやら、二人はいっぺんに表情を固くした。
「弁解があれば聞いてやる」
「い、いえ……」
智が慌ててかぶりを振った。
「すいません。俺達、別に迷惑かけようと思ってやったわけじゃなくて、」
トオルはゆっくりと腕を組むと、向ける眦をきつくした。
「当たり前だ。もしそのつもりでやったんなら即通報してやる」
「……つ……、う……」
大袈裟な単語を使っただけあってさすがに二人は絶句した。もちろん、本気でそこまでするつもりはトオルにはないのだが。
「お前らには悪気がなくとも、食事を楽しんでいるお客さんの迷惑には変わりないんだよ。それくらいわかるだろう?」
「……はい」
智は申し訳なさそうに頷いた。
「お前もわかってるのか?」
トオルは圭太にも顎で問うた。が、こちらは相方よりも素直じゃない。トオルの視線を避けるように顔を背けた圭太は、どうやらそのままだんまりを決め込むつもりのようだ。ふてくされるガキの躾など趣味ではないのだが、じっとこちらを静観している客の手前、形だけでも反省させる必要はある。
「返事は!」
「……っかりましたぁー!!」
反省の色は限りなく薄いがアピールとしては事足りるだろう。トオルもこれ以上子供の相手に時間を費やすつもりはなかったし、今回は手打ちとする。
「ん。わかったなら、今日はもう帰れ。話の続きはどこか別のところでしろ」
「はい。すいませんでした」
智はいかにも体育会系らしく快活に答えると、まだブツブツと腐っている圭太の頭を後ろから押さえ付けて下げさせ、自身も深く頭を下げてから踵を返した。そのまま相方を突き飛ばすようにして店を出て行く。
扉が締まるとすぐにまた口論が始まった気配がして、その声は次第に遠のいていった。
ゴタゴタがあったからというわけではないだろうが、ずいぶんと引けの早い夜だった。
ラストオーダー三十分前くらいに最後のひと組が出て行ったきり来客はなく、片付けも滞りなく進んでしまって残りはレジ締めと戸締まりくらい。さすがに今日はこれっきりだろうと思い、店を閉めることにした。
トオルは一旦店の外に出て看板類を店内に仕舞い、それからキッチンに戻って火の元を確かめ、最後にレジを締める。金勘定と日報を付け、全ての始末をつけると一日の労をねぎらう一杯に口を付ける。涼しい時期はワインが多いが夜でも茹だるこの季節はもっぱらビールだ。350mlの缶を傾けると、乾いた喉はえらく吸い込みが早い。ほんのひと息で半分くらいは軽くいってしまう。
仕事中の酒は一向に回らないが、終わりの一杯は意外と効くものだ。たぶん気持ちの持ちようだと思うが、一本飲み切る頃にはいい感じにほろ酔いだった。そして今夜は気がかりなこともあったから一本では終われない。トオルはなんとなく続けて二本目の缶に手を掛けた。
――クロエのことだ。
彼女が昼間に訪れたときに見せた顔を思い出す。
どこか沈んだ表情。やけに乾いた笑み。事情が分かったあとでは、あれが彼女なりのSOSだったのだろうと頷ける。あの場で気付くことは難しかったとは思うが、それでも気付いてやりたかった
この先、クロエはどうなるのだろうか。
それを考えるとトオルのほうも気が沈む。
そして、あの二人の少年のことも。
考えたところでトオルに出来ることはないのかもしれない。が、知ってしまった以上、関係ないと割り切れないのが自分の性分だということは自己分析済みだ。
縦に横にと頭をひねるがやはり良案など出てはこない。そして、そんなときの酒はたいして美味くなかった。二缶目も残り少なくなったところで一旦バックヤードに引っ込み着替える。コックコート脱ぎ、ジーンズとYシャツに袖を通す。真夏でも長袖なのは飲食業の生活サイクルが早朝出勤・深夜帰宅が基本だからだ。どちらも屋外を歩く時間帯は肌寒い。
再び店内に戻り、缶に残っていた最後のビールをひと息にあおる。ぬるくなった最後の一口は、喉越しも悪く舌の上に嫌な苦味だけを残した。
戸締りの確認をしてから明かりを落とし、店を出た。最後に入口の扉の鍵を施錠しようとして、
「うわっ」
そのとき初めて存在に気付いた。
「……お前、いつからそこにいたんだ?」
自分の声の響きが訝しんでいることこの上ない。トオルの問いに相手は「割とさっきから、いたっす」と答えた。『割とさっき』が指す時期が一体いつを示すかはわからなかったが、たった今来たのでないことはわかった。たぶん、トオルが看板を下げた時にはもう居たのだろう。日に焼けた浅黒い肌のせいで気づかなかった。
「こんな時間に何してる?」
「…………」
周りをうかがったが相方は見当たらないので一人のようだ。
圭太はしばらく答えづらそうにしていたが、やがて決心したのかすっと顔を上げた。
「さっきにこと、謝ろうと思って。店の中で何度も大声出したから……でも、俺、もう出禁だし」
首を傾げずにはいられなかった。彼の発した言葉の意味を咀嚼するのには数秒かかって、理解してからトオルは堪えきれずに吹き出した。
「お前、それでずっと外で待ってたのか? くっくっくっ……生真面目というか、素直というか……」
馬鹿正直というか、とまではさすがに言えない。なにしろ圭太は言われたことを正しく守っただけなのだ。この年の体育系男子に言外を斟酌しろなんて、箸でスープを飲ませる行為に近い。
「迷惑かけてすいません、した」
先程までのふてくされた様子はもうなく、圭太はスパッと90度近く頭を下げた。過ぎたことでグジグジしない。悪いと思ったら素直に謝る。いかにも体育会系らしい気持ちのいい謝罪だった。
たぶん、さっきは智の手前引っ込みがつかなくなったのだろう。自分もこれくらいの年の頃はそうだった気がする。
それにトオルとて根っこは同じ体育会系の人間である。潔く自分の非を認める圭太のようなタイプは嫌いじゃないし、素直な馬鹿はむしろ好感が持てる。
「O.K.、O.K.、さっきのことは水に流す。もうしないって言うなら出禁も解除」
「ほんとっすか! ありがとうございます」
「ただし、」
「えっ?」
一瞬ほころびかけた圭太の顔が再び緊張しかける。
「これ、『泣きの一回』だからな。次はもうない」
「は、はいっ!」
今度こそほっとしたらしく圭太の顔には笑みが浮かんだ。
トオルもなんとなくとひと息付いた。付けた。そこに微かに笑みが含まれていたのに気付いたのは、さらにひと呼吸あと。その感情が安堵だと気付くと少し気持ちがささくれる。圭太の苦悩にはこれっぽっちの助力もできず、自分だけが彼から手管で引っ張り出したような笑みで救われた気持ちになっている。
痛い。
「なぁ、……ちょっとコーラでも飲んでいくか?」
何気なく口から出ていた言葉の理由は、たぶん罪滅ぼしに近い。それと、このまま帰っての一人酒が嫌だったというのもある。道連れの駄賃がコーラ一杯というのはいかに高校生相手とはいえ安すぎかもしれないが。
見ると、トオルからそんな言葉が出てくるとは思っていなかったのだろう。圭太はちょっと不思議そうな顔をした。それでも、何の餌に釣られてくれたのか彼はコクコクと頷いた。
「入れよ」
トオルは閉めかけていた扉を開けて、先に入るよう圭太に促した。
お互い、このまま帰っても楽しくはないのだ。
それならせめて吐きたいことを吐きあったほうが気持ちが健康だ。思考がシンプルに落ちて来ているのは捕まえた若い飲み仲間に当てられたことにする。