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All's fair in love and war. ≪なりふり構っちゃいられない≫ 11

 美純との電話を切ったのは16時を少し回った頃だった。ディナータイムのオープンまではまだ時間があるし、今日はそれほど大きな予約もないから仕込みも少ない。しばらく横になるかなと思い、トオルは入口の鍵を掛け、照明を落とし、BGMを切る。すると店内は急にしんと静まり返り、ちょっとした静謐な空間に変わっていく。

 トオルはこの雰囲気が好きだ。『カーサ・エム』は普段も顧客の年齢層が高めなだけに、決してガヤガヤと賑わうタイプの店ではないが、それでもこの時間の静けさは別格なのだ。トオル自身、この空気を汚したくないためにできるだけ物音を立てぬよう気を配って動こうとするくらいだ。

 窓際のスペースにいくつか椅子を横並びに並べ簡易のベッドを作ると、脱いだコックコートを掛け布団がわりにして寝そべる。目を閉じてぼんやりと考えることはディナータイムオープン後の段取りだが、予約客の好みやそれに合わせたメニューを思い描いているうちに思考がまどろみのなかに溶け落ちていく。

 冷房の効いた店内の空気の中で、窓からの日差しを浴びている体の一部分だけがじんわりと暖かい。それが心地よく、トオルは次第に深い睡魔に誘われる。自然と意識が断片的になっていく――


 突然、ガチャガチャガチャッと耳障りな音が鳴って、トオルはほとんど反射的に目を開けた。ガバっと上体を起こし、瞬き数回で駆け足に意識を覚醒させ、目の焦点を合わせる。

 店内にはトオルを除いて誰もいないので、音の出処は当然限られている。外だ。

 トオルは立ち上がると入口に向かった。

 付き合いのある業者にはクローズタイムの納品時、扉を数回押し引きして音を立ててもらうよう頼んであった。この時間は今と同様トオルが眠ってしまっている場合もあるし、疲れているときはその眠りが深くてノックくらいでは気づかないこともあるからだ。

 今日は納品予定の業者は一社しかない。いつもに比べると少し速い気もするが、おそらくそれだろう。ただ、まれに予約の打診に足を運んだ客の場合もあるので、一応接客用の顔を準備しながら鍵を開け、扉をひらいた。

「はい?」

 半分ほどひらいたところで外に向けて声をかける。が、向こうからの返答はない。怪訝に思って扉の隙間から顔を覗かせてみたが、そこには誰もいなかった。諦めて帰ってしまった可能性も否めないが、それにしても音がしてから顔を出すまで長くても1分程度、相手は相当に気が短いか、もしくはいたずらか。どちらにしても当の相手がいなければ対応のしようもない。諦めて店内に戻ろうとした、その時だ。

「ん?」

 見覚えのあるシルエットをトオルの視界の端が捕まえた。長く艷やかな金の糸束――ここ最近どういうわけか見る機会の多かったそれをトオルが見間違うはずもない。

「クロエっ」

 トオルが彼女の名前を呼ぶと、すでに立ち去りかけていた背中はピタッと立ち止まった。

 こちらには気づいてはいるはずだ。だが、彼女は振り返ろうとしなかった。確証はないがさきほど扉を開けようとしたのは彼女に違いないと思い、トオルはさらに声をかける。

「どうした。なにか用か?」

 しかし、返事はない。

「おいっ! 今、開けようとしたの、お前だろう。もしかして美純に会いに来たのか?」

 訊ねると、ようやくクロエはこちらを振り向いた。

「……みー、今日は居るの?」

「あ、いや、……ん? ……」

 トオルは一瞬怪訝に思い言葉を呑んだ。なぜなら振り向いたその顔がいつもより白く、というよりも病的なくらい異常に青白く見えたからだった。

「…………クロエ、お前、やけに顔色悪くないか?」

 問うたが、彼女は聞いているのかいないのか、またも返事はない。

 ただし、今度はこちらを向いているおかげで表情をうかがうことができた。

 そして、気付いた。

 落胆、だろうか? 虚ろい暗い表情だった。そんな顔をみせられたら、落ち着かなくなった。会えばいつだって意志の強そうな顔をするのが彼女なのだ。それが今日に限ってはいつものクロエらしさがすっかり影をひそめてしまっている。どうにも心細そうな角度にうな垂れる眉と、普段よりも深い蒼をした瞳。整いすぎているくらい整った造形の顔立ちだからこそ、今はまるでリアドロの陶器人形のように壊れやすいもののように思えてしまう。

 トオルが言葉を呑み込んだまま吐き出せずにいると、クロエのほうが口を開いた。

 ボソッと、小さく聞き取り辛い声だった。

「だよね……わかってたけど」

「まだ結構忙しいらしい」

 クロエは目を伏せ、俯くように頷いた。その際に彼女の唇の端がうっすら動いたようにも見えたし、何かぼそっと聞こえたような気もしたが、今度の言葉はトオルの耳に届かない。

 何かがざわざわとトオルの中を蠢いた。不安に似た焦燥にも似た落ち着かなさが口内に溜まり、それをゴクッと呑み込む。

 気にはなる。なったが、彼女からはなんとなく踏み込まれたくない空気を感じていた。

 視線。仕草。それらから受け取れるわずかな拒絶。普段はしないはずの言葉を選び、胸中を隠そうとするところも、そのことを強く感じさせる。

「……あいつとならついさっきまで電話してたから、今かければつながるかもしれない」

 なんとなく気詰まりした空気にトオルは一度会話の向きを変える。すると、ふ……っとクロエの表情が緩んだように見えた。

「んー。でも、……今日はいいや」

「なんで。用事があったんだろう?」

「ううん、大丈夫。そんなたいしたことじゃないし」

「そうなのか」

 クロエは今度はそうだとわかるくらいに微笑んでみせる。

「ウチだってそんなに暇じゃないよ。たぶん、みーも。誰かさんと違って午後イチで昼寝とかかましている余裕はないんですよー」

「お前……見てたのか?」

「うん。窓から覗くと見えたよ。あんた、半分白目剥いて「んごぉー」って言ってた」

「嘘つけ。そんなの外まで聞こえるか」

「えー、聞こえたって。ちょー、すごかった」

 クロエは笑った。カサカサと乾いた音のするような笑いだった。いつもの自分に似せようと努力は垣間見えるが、如何せん作った笑顔はぎこちない。

 お節介なのは自覚した上、だ。

「……なぁ、本当はなにがあった?」

 すると、クロエは口元の笑顔は残したまま、困ったような、悲しげな、そんなふうな目をした。

「もうっ。大丈夫だって言ってるでしょ」

「…………」

 そんな強がりが聞きたいわけではないので、嗜めの意味で軽く睨みつける。

 彼女は肩をすくめた。

「別に、……暑いからちょっと涼みに来ただけだし。でも、あんた寝てたから起こすのも悪いって思って、じゃあコンビニで涼もうかなーって。ねぇ、なに、怖い顔してんのよ」

「嘘だろ」

「嘘じゃなーい」

「強がるなよ」

「強がってませんー。っていうか、何、その上から目線」

 わざとらしく鼻を鳴らすクロエにムッとして、それが眉間と唇の左端に出た。彼女は追い打ちよろしくべっと舌を出して小憎らしい顔をみせる。

 そして、くるっと踵を返した。

「おいっ」

「なに?」

「話は終わってないぞ」

「別に話すつもりなんて元々ないし。あんた、もう寝なよ。ウチ、行くから」

 肩越しに振り返ったクロエは、迷惑そうに目を細める。

「みーにもよろしくっ」

 左手を雑にヒラヒラさせ、小走りで立ち去ろうとする。

 ――――が。

 ほんの数歩進んだ脚は、急にピタッと止まった。

「あの、さ……」

「どうした?」

「んー、と……」

 振り向いたくせに妙に所在なさそうにする。なかなか目を合わせようとしない。

「なんだよ? 言いたいことがあるなら、はっきり言え」

 歯切れの悪さにイラついたせいで、ちょっと語尾が荒くなった。すると、珍しくクロエが傷ついた表情をした。「おいおい、こっちは一体どれだけ心無い言葉を浴びせられたと思ってる?」とは大人だから口にしない。

 しばらく黙って様子を伺っていると、やがてクロエはそっと顔を上げ、やや上目遣いにトオルを見た。

「……あんたのパスタ、さ。マジ、美味しいよ」

「はぁ? なんだ急に。お前らしくもないセリフだな。本気で暑さにやられたんじゃないか?」

 たとえどんなにしおらしい顔をしたとしても、クロエという女の子の生態を知ってしまった後では逆にあざとさが際立つ。鼻で笑うと、彼女はかなりムッとしたらしく、トオルを睨み付けてきた。

「ばーか。もういい、バイバイ!」

 言い残し、そのまま彼女は一目散に駆けて行ってしまった。

 もう、振り返ろうともせず。あっという間に交差点を曲がって見えなくなった。




 その日の夜は19:00を過ぎると客足が増し、いつの間にか店内の三分の二くらいが埋まる賑わいをみせた。

 ただ、真夏の夜の食欲はそれほど旺盛とは言えず、どのテーブルも軽い食事かそれに毛が生えたほどで、客数の割にはトオルにも余裕があった。カウンターに座る50代くらいのサラリーマン風の男性客と雑談をしながら最後の皿の盛り付ける。地鶏のもも肉をスピエディーニ(串焼き)にして、辛味の効いたソースをたっぷりとかけ、レモンを添える。

 仕上げた皿を運ぼうとカウンターを出たときだ。30代と思しき男性二人と女性一人の組み合わせのテーブルに歩み寄ったトオルは、突然牛でも突入してきたのかと思うくらいの派手なドアベルの音に顔をこわばらせた。

「いらっしゃ……」

 その音だけで迷惑そうな客だなとは察しが着いた。皿を持ったまま入り口を向くと、一応営業用の顔でお迎えする。

「……、なんだお前ら。こんな時間に」

 予想通り――というよりもある意味予想以上に迷惑な客にトオルの眉が引きつった。そこに立っていたのはなぜか金子智と吉田圭太の二人だったのだ。今日は部活がなかったのか、それとも帰宅したあとなのか、片方はTシャツにショートパンツでもう片方はジーンズにポロシャツ姿。制服で来なかっただけまだマシだが、それでも少年二人は明らかに夜の『カーサ・エム』には場違いだった。

 トオルがあえて怪訝な表情を向けても、二人は一向に気にする素振りはない。また、その余裕もないらしく、荒い息をなんとか整えようと激しく肩を上下させている。

 が、相手の事情がなんであれ、営業中の店に遊び半分で入られるのを許すつもりはない。

「あのな、もう高校生が来ていい時間じゃないぞ。メシが食いたいならもっと早い時間に来い。今夜は駄目だ」

 そこで一旦言葉を切って、トオルは手の皿をテーブルに運んだ。ちょっとだけ端折った説明と笑顔を添えてからテーブルを離れると、今度は入り口の二人を追い出しにかかる。

「こらっ、さっさと帰れよ」

 男相手だから多少荒っぽい口調でもいいだろうと語気を強くするが、鼻白む様子はない。こちらの都合などお構いなしのガキンチョどもに手を焼いている暇はないので、二人の肩をつかみ180度反転させようとする。しかし、逆にその手を掴んで抵抗された。

 圭太だ。 

「…………クロエが……」 

「なんだぁ? 昼間はあいつ、夜はお前ら、今日はガキばっかり来る日だなっ」

 思わず舌打ちが出た。

 しかし、だ。

「ちょ……クロ、今日、ここに来たんスかッ?!」

 圭太がさらに抵抗した。掴んでいるトオルの手を強引に振り払って詰め寄ってくる。確かにこのくらいの年になれば少年といえど男だから、片手でねじ伏せるのは不可能だ。

 だが、言葉でねじ伏せるのはわけない。

「おい、いい加減にしろよな。大人しく帰らないと、営業妨害で通報するぞ」

 子供相手の脅しには結構効果的なセリフだ。しかし、圭太は怯まなかった。

「来たんすよね、あいつ。昼間って、何時くらいですか?」

「なんだよ、お前。いいだろ、何時だって」

 トオルは近付いて来た圭太を手で押しのけようとするが、彼はそれでもなおトオルに迫った。

「よくないっすよ! 何時っすかッ?! 午後ならたぶん、まだ日本に居るはずだ……」

「はぁ? なに言ってんだ」

 侮蔑に近い目で細く睨みつけたが、その目をやたら殺気だった目が睨み返してくる。

「……クロエ、帰っちまうんすよ、カナダに! ……親権がなんとかって、親父さんのほうが無理矢理に取り戻そうとしたって……」

「……?」 

 事情こそわからないが、出てきた単語だけでそれが不穏な事態だということは察しがついた。 

 

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