All's fair in love and war. ≪なりふり構っちゃいられない≫ 10
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八月の頭、美純のデビュー曲が配信された。
『No Rain,No Rainbow』。泣いた分だけ女の子は強くなれる――失恋から立ち直ろうとする同世代の気持ちを代弁した応援ソングだ。
『初めての曲はもうちょっと明るい感じがよかったんだけどね』
電話の向こうで美純は少し笑った。
「しょうがないだろう。第一、そういう可能性も踏まえた上で受けた話だったんじゃなかったのか?」
トオルが小言めかして言うと、美純は『だよねー』と屈託なく笑う。楽観的なのか、無計画なのか。呆れてため息が出てしまう。
レコーディング作業がツメの段階に入っていたからもあるのだろうが、ここのところ美純とは電話での会話も少なかった。だからトオルとのやりとりで彼女がこんなに自然に笑うのもずいぶん久しぶりのことだ。疲れてはいるのだろうが、いつもと変わらない明るい声を耳にするとトオルはホッとした。
気が付くといつの間にか口元が柔らかくなっていた。これが電話口であってよかったな、と思う。たとえ自分の彼女といえども、ひと回り以上歳の離れた相手に今のこんな緩んだ顔は見られたくはないものだ。
さすがにプライドが許さない。
「まぁ、ともかく、お疲れさん」
胸中を気取られないよう言おうとすると、妙に言葉が棒読みになってしまって、トオルは自分に対して苦笑する。美純がまだ17歳の少女でよかった、と思う。これがいくらか男を知った女だったら、トオルはとっくに年上の威厳なんて失っていたはずだからだ。
『うん、ありがと』
美純は澄んだ声でそう言った。
アプリ『project Vi-Jun』は、ユーザーが三十以上の設定された選択肢の中から『自分ならどんな楽曲を歌わせるか?』を最大五つまで選び、その総計によって曲のテーマやジャンルが決定していく『ユーザー主導』が最大の特徴のアプリだった。ゲーム感覚でアーティストの卵をプロデュースするのが楽しめる反面、楽曲は名だたるプロの作詞、作曲家が提供することで、これまでのアプリような『ただのゲーム』の枠には収まらない、リアルな育成感を体感することができるよう工夫が凝らされていた。そしてそこに音楽業界老舗のAKIミュージック・アンド・エンターテイメントの名前が出てくれば、否が応でも話題性は増す――さすが、普段ネット広告業界に身を置く翠だけに、そのあたりの仕掛けは見事だ。
だが、翠の凄さはそこだけではない。
先行配信されたカバー曲は一部ロック調のモノが含まれたのみで、あとのほとんどは美純と同年代か少し上の年齢の女性アーティストが歌うPOP調のモノだった。したたか――というべきか、等身大だの恋愛ソングだのを聴かされた上で、選択肢から演歌やラップなどを選べる人間はそうそういない。この辺の心理誘導もおそらくは翠の計算のうちだろう。
つまり、アプリユーザーは自分達が参加しているつもりで、知らず知らずのうちにAKI.M&Eがほとんど色付けまでした新人アーティストをフォローしているというわけだ。まぁ、美純の言うようにデビュー曲がややバラード調の曲になってしまったあたりは詰めの甘さかもしれないが、それすら想定内だとしたら安芸翠という女はとんだ食わせ者だ。
デビュー曲のダウンロード数が一定を超えれば次曲を歌うことができるが、そうでなければ即、他の新人に取って代わられてしまうのがルールということだったので、トオルの興味はもちろんそこに行く。
「なぁ、ダウンロードって結構されてるのか?」
訊ねると美純はほんの少し声色を真剣にして、
『うん。翠さんが「順調だ」って言ってた』
「そうか。よかったな」
『うんっ』
大きく頷いたのがわかるくらい、真っ直ぐな返事だった。
「そうそう、そのダウンロードした連中のなかに、たぶんクロエと朱奈も入ってると思うぞ。あいつら、絶対聴くって豪語してたしな」
『うっ……、それってなんか恥ずかしいんだよね。ずっと隠してたメールをうっかり誰かに見られちゃったみたいな気分? んー、次、会うときどんな顔したらいいのかな?』
「別にあいつら歌ってるのがお前だって知らないわけだし、普通にしてればいいんだよ。むしろ変に意識してるほうがおかしいだろ」
『わかってはいるんだけれど……なんとなく、ちょっとね……』
「くっくっくっ。どうせ新学期になったら嫌でも顔を合わせるんだぞー。それとも明日から引き篭るか」
『もう、そういうこと言って。トオル、意地悪だよ』
声しか聞こえないはずの彼女の表情が手に取るようにわかる声、だった。きっと頬を膨らまして、下唇も突き出して、眉間にはいくつも皺を寄せている。そんな表情を思い浮かべると、美純らしいと思うのと同時に彼女を愛おしく感じる。
「ごめん、ごめん。冗談だよ」
謝ってもすぐには許してくれなかったが、トオルがもうひと言つけ加えると美純は急にしおらしくなって「うん……」と消え入りそうな声で答えた。
彼女にはクロエ達が先行配信の曲を聴いていることはすでに伝えていた。ただその時の二人の反応までは、トオルはあえて美純に伝えていない。話してしまうことで美純に変なプレッシャーをかけたくはなかったし、それにもし伝えてしまえば美純とクロエ達の間に『片方は知っていて片方は知らない秘密』のようなものを作ってしまうことになる。それはちょっとフェアではないような気がしたのだ。
(うっ…………そ、でしょ……)
あの日のクロエのセリフはそうだった。どのくらいのものか見極めてやると笑い混じりだった彼女を、美純の歌はあっけないくらい簡単に絶句させてしまった。細かく何度も瞬きを繰り返す癖は、動揺を隠そうとするときに出るのだろう。クロエはたっぷり数秒は目をしばたかせていた。
(声、全然Juliaちゃんのほうが可愛いのに……この子の歌、なんでドキドキするの? どうやったらこんなふうに歌えるわけ?)
彼女の目に映った驚きの色は最初は小さく、しかし、さらに他の配信曲を聴きながら感想や評価を興奮気味に話すときには、より大きな驚きに映り変わっていた。
耳に意識を傾け、曲に聴き入っている二人の様子を横で見ていて、トオルはちょっと不思議な感覚を覚えた。
これが自分の知っている美純から発信されたものなのだろうか――と。
『ね、……トオルも、もう聴いちゃった?』
唐突に耳に届いた声にハッとなる。すっかりその存在を忘れていた携帯から届く美純の声がトオルの思考を呼び戻した。
「えっ、と……それってお前の歌、ってことだよな……?」
咄嗟に聞き返したが返事は数秒返ってこなかった。もしかして的はずれなことを言っただろうか、とトオルは受話器の向こうの美純の様子を気にかける。
『……うん』
やがて美純は微かに聞こえる程度の小声で答えてきた。トオルはホッとしながら答えた。
「聴いたよ。ちゃんと聴いた」
『…………うん、そう。へへへ、やっ、やっぱり、ちょっと恥かしーな。それで……私の歌、どうだった?』
贔屓目なんかじゃなく、本心でそう思っていたから答えは速かった。
「よかったよ、すごく。感動した。平太達の結婚式の時を思い出したよ」
『…………』
「お前、ずっと頑張ってたしな。おめでとう、美純。最高のデビュー曲だと思う。自分の彼女が本物のアーティストだなんてまだちょっと信じられないけれど、でも嬉しいよ」
『…………うん、ありがと』
言葉のあとに微かにスンッと鼻を鳴らすような音が聞こえた。美純はしばらく無言になったが、泣いているわけではなさそうだ。トオルはちょっと歯痒い気がした。美純の顔を見て、彼女に触れて、そうしてから伝えたいことがいっぱいあるような気がした。けれど、今、電話越しに伝えてしまうのはちょっと違うような気がして、結局トオルのほうも押し黙ってしまうのだった。