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All's fair in love and war. ≪なりふり構っちゃいられない≫ 7

 あれからも美純は変わらず毎日、どんなに忙しくても時間を見付けてはメールを送ってきてくれた。トオルのほうも営業時間の合間にはそれに返信するようにしていたし、頻度はずいぶん落ち着いたものの、様子が気になればどちらともなく電話をかけ合うようにしていた。

 当然、相手が忙しければ電話はつながらない。かといってトオルは留守電にメッセージを残すまではしなかったし、美純もトオルが電話に出るまで何度もコールをくり返すようなことはなかった。火急の用でもあれば違うのだろうが、生憎と頗る平穏な毎日だ。

 ずっと事情がわからないでいたそれまでとは違い、今は美純が何をしているのかもわかっている。おかげで彼も変にヤキモキする必要はなくなった。あの日のやり取り以来、トオルの心はずいぶんと健康を取り戻したといえる。

 気持ちにゆとりが出来たことも理由のひとつだろうが、今ではトオルも美純の決断を尊重することにしていた。

 彼女のやろうとしていることをできるかぎり応援するつもりだったし、それが万が一失敗に終わったときは、彼女が必要とするだけ力になってやるつもりだ。

 それが恋人としての、そして大人の男としてのとるべき正しい対応なのだろうとトオルは思っている。

 たとえ相手がまだ未熟な高校生だったとしても、自分の女が一歩前に踏み出そうとしているなら足を引っ張る存在にはなりたくない。そのくらいの見栄は彼女の前で張りたい。

 あの日に感じた『未知の感情』の正体に気が付いてしまったからこそ、トオルはなおさらにそう思うのだ。



                     ◆



 本当にこの二人は仲がいいのだろうかと疑いたくなるくらい、さっきからクロエと朱奈の会話はちっとも成立していない。

 片方は一方的にしゃべりたい事をしゃべり続けるだけだし、もう片方はそれをまるで無視しているかのように相槌も打とうとしないのだ。希に朱奈から会話の折り返しがあったとしても、それをきっかけに話のラリーが始まるわけでもない。なんだかガラス越しの相手にボールを投げつけているみたいだなと、トオルはカウンター越しに微苦笑まじりでその様子を眺めていた。


 その日のランチタイムは今年一番の暑さだったためか来店客は二組だけ。そのうちの一組はビジネスランチというわけでもないだろうに食べるものを食べたらコーヒーも喉に流し込む勢いで飲み干して帰ってしまったし、もう一組のほうはといえば、つい二日前に来たばかりのこのクロエと朱奈の二人だったのだ。

 窓の外を眺めても通りを歩く人の影はまばら。

 時折、店の前を横切っていく顔を見つけても、アスファルトの焼ける熱と照り付ける太陽の日差しの両面焼きに意識朦朧としているのが伺える。そんな日にあえてイタリアンなんてそうとう設定高めのハードルな気がするが、この二人に関しては無用の心配だった。『エビとズッキーニのトマトクリームソースのリングイネ』と、『チキンとバジルのクリームソースのフェットチーネ』なんて作ったトオルのほうが胸焼けするメニューをぺろりと完食済みである。

 ラストオーダーの時間が過ぎたあともしばらく粘って看板を出していたのだが、さすがにこれ以上は見込みもないなと入口にCloseの案内板を出す。

 そうしてトオルは腰に巻いていたサロンを外して手近な椅子の背もたれに放り投げると、自分はクロエ達の座るカウンターのひと席隣りにドカッと深く座り込み、体をエアコンの通気口に向けて、少しでも多くの面積に冷風を浴びようと真夏の白くまのようにだらしなく手脚を広げた。

「ちょっとぉ、ウチらだってお客なのに。その態度、なに? バカにしてない?」

 クロエが露骨に眉をひん曲げて言う。

「確かに失礼だと思う」

 さっきまではまるで意見の一致しなかった朱奈も、これには同意した。二人で目まで合わせて頷き合われたら、その前のすれ違いっぷりが逆に滑稽に思えてきてトオルは吹き出してしまった。

「ねぇ、その笑い、なに? ますます失礼でしょ。ウチらのことナメてる?」

「あっはっは。ナメてない。ナメてない」

「その顔……嘘くさいなー。なんかムカつくよね」

 クロエが後半を隣りの朱奈に投げかけるよう言うと、奥で頷く気配がした。

「顔のことを言われるのは正直、傷つくな」

「ばーか。もしかして、それで笑いを取ろうとしてんの? うざいわー」

 何を言っても盾突いて、やたらと吠える犬みたいな娘だなと今度は心の内だけで苦笑しながら、しかしこの向きの会話に付き合うのはもうそろそろ面倒くさかったので、トオルは聞こえていないふりをして話題を逸らせた。

「知らないだろうけど、夏の厨房は暑いんだよ。こうやって時々涼んでないと脱水症状で倒れちまう」

「倒れればいいじゃん」

 さも興味なさそうな音で言われると少し寂しく感じる。

「優しくないな、君は」

「は? ウチはみーじゃないし。なんでカレシでもない男に優しくしなくちゃならないの? 意味わかんない」

 眉間に皺を寄せると、彼女の整った顔立ちはことさら冷たい印象を感じさせた。

 舌戦でもってこの子をねじ伏せるのはなかなかに骨の折れる作業になりそうだと感じた。しかし、トオルはもうこれ以上そこにエネルギーを費やすつもりもなかったので、隣りでさらにブツブツ言うのには適当な相槌だけ打ち返し、目を閉じて体を撫でる冷風の心地よさに浸りこんでいた。

 真夏の厨房は深刻な暑さになる。

 足元には常に100度以上のオーブンがあるし、ガスレンジも熱を逃がしづらい構造に出来ている。冷凍の素材を放置すると家庭のキッチンの何倍ものスピードで解凍されていくし、氷入りの液体がその状態を維持できるのもほんのわずかな時間のあいだだけだ。

 労働時間も長いから、水分補給と休息でしっかりと体調管理していないと続かない。しかし、普段はさすがに客前でこんな姿を晒したりはしない。美純の友人で、しかも10代の子だからまぁいいかなという甘えは確かにあった。「ナメてる」と言われればその通りなのだ。別にそれを告白するつもりはないが。

 しばらくするとクロエも諦めたのか不満の声は聞こえなくなったので、トオルはさらにもう少し図々しく振舞う。コックコートの一番上のボタンを外して着くずすと、片襟を掴んでバタバタと仰ぎ胸に溜まっていた蒸れた空気を追い出した。

 隣りの二人はさぞ軽蔑の眼差しを向けているのだろうが、ここまで来るともうどうでもいいというか、知ったことではないくらいに気が緩んでいた。悪いのは自分ではなく厚さのほうだと責任転嫁していたところに、

『カシャッ』

 耳障りな音にこめかみがピクッとなった。トオルはハッと目を開けると体を起こした。

「クスクスッ。このみっともない姿をみーに送ってやろう」

「おい」

「は? なによ?」

「お前こそ。何してんだ?」

 クロエの手にあるものを顎でしゃくって指し示す。

「何って、写メとっただけでしょ。悪い?」

「悪いだろう。人に断りもなく」

「別にあんたに断る必要なんてあるの? それ、ショーゾー権ってヤツ?」

「普通に考えて非常識だと言ってるんだ。消せよ」

「えーっ」

 クロエは眉をへの字の口を尖らせた不満そうな顔で言うが、次の瞬間、その表情を一転させニッコリと笑った。

「……イヤ。だって、これウチの携帯だし。自分の携帯で何しようとウチの勝手でしょ」

「お前な、あんまナメてると」

 トオルは続きを口にするのと同時にだらりと垂らしていた右腕を振り上げた。そして、彼女が胸のあたりに両手で抱えていた携帯電話をあっという間に奪い取る。

「取り上げるぞ?」

「……えっ、?!」

 クロエが絶句しているうちにトオルは取り上げた携帯を右手から左手に持ち替えて、彼女が簡単には届かない位置にかかげてしまう。

 その途端、クロエがとんでもない大声で絶叫した。

「ぎゃ、きゃァァァっぁあぁぁぁぁーーーーー!!」

 すぐ真横からの大音量にやられ、一瞬持っていた携帯を取り落としそうになる。トオルは慌てて両手に持ち直しながら、

「バカッ、なんてでかい声出して……」

 と叱りつけようとしたが、それを言い切るよりも先にクロエの逆襲を喰らった。彼女の両腕がぐわっと伸びてきて、一直線にトオルの手の中の携帯電話を目指してきたのだ。トオルは咄嗟に身を捩り、クロエの手を躱していた。意図したわけではなく、ほとんど条件反射での行動だった。

 トオルにしてみれば全部軽い冗談のつもりだ。しかし、クロエのほうはそうは取れなかったのかもしれない。彼女は白い肌を真っ赤に染め、必死の表情でさらに腕を伸ばしてくる。そんな彼女の気迫に当てられたからか、トオルは気がすめばすんなり返すつもりだったはずの携帯をいつしか抱え込んでいた。

「か、返してよっ」

「お前、なんだ、ってんだ、よっ……ッッッツぅ、ってぇ!」

「返せってば、バカッ!!」

「わか……やめろって。お前、ひっかくなっ!」

 線は細いくせに妙に腕力は強く、払おうとした腕を逆に押し返してくる。掴まれると長い爪を食い込ませたり、引っ掻いたりと攻撃自体は女の子らしいのにその威力が女の子らしくない。いつの間にかトオルの両腕は傷だらけでうっすらと血も滲んできている。

「返すっ、返すから! ちょっ、待てって……ひっかくのを止めろ!」

「やッ!!」 

 降参の意思を示そうと両手を頭上に掲げようとした瞬間に、クロエがそこから無理矢理携帯をひったくっていった。左の手首を縦に太い痛みが走っていく。

「痛っえー…………ったく、無茶苦茶しやがって……」

 トオルが最後の一撃を喰らった場所を撫でて痛みを中和しようとしていると、カウンターの板を激しく叩く音がして、次いで雷みたいな大声が頭の上から落ちてきた。

「あんたって、最ッッッッ悪、ね!! ちょー意味わかんないしっ! 人の携帯盗るなんて、まじで変態。まじありえない」

「お前な、自分がしたこと棚に上げて……」

 トオルが口を挟もうとすると、鼻先に顔が迫ってきた。

「ま・じ・でっ! あ・り・え・ないっっ!!」

「ちっ、わかったよ。悪かったよ」

「謝ったって遅い。死ね。絶対、死ね」

「なんだよ、それ」

「ふんっ」

 ケツが痛くなるんじゃないかというくらい大きな音を立てて椅子に座り込むと、クロエは携帯のタッチパネルを何度か弄り、そして大事そうに両手で包み込んだ。

 トオルはため息を付いてから椅子に深く座りなおす。両腕はまだヒリヒリと痛むので、ディナータイムの洗い物はちょっと悲惨な目に合いそうだ。

 顔を横向けるとそこにはまだ怒り心頭のクロエの顔と、その奥では友人の狂乱っぷりにちょっと引き気味の朱奈の顔が見えた。朱奈のほうと目が合うと彼女はそこに呆れたような色を浮かべた。それがどう言う意味かはわからなかったが、トオルがちょっと苦笑してみせると朱奈もまた似た表情をする。

 ふう、とひと息吐いた。

 別に悪いとは思っていないが、それでも相当に不快な思いはさせたに違いないから、トオルは立ち上がってキッチンへと足を向けた。罪滅ぼしにヘーゼルナッツのジェラートとこけもものソルベットを盛り合わせにして二人に振舞う。

「……こんなんで水に流せって意味じゃないでしょうね?」

 クロエが上目遣いに刺すような視線を浴びせてくるが、トオルは動じることなく言葉を返す。

「水に流せって意味なんだが?」

 彼女はむぅぅと低い唸り声みたいな音を喉からさせながら微動だにせずトオルを睨みつけていたが、やがて糸の切れたみたいに人形のように首だけカクンと下向くと、ジェラートの山をスプーンで崩し始めた。まだ怒りは覚め切っていないのだろうが、「うわぁ、うま」と感嘆の声を漏らしてしまうところが女の子らしくて可愛げがある。

 きっと『女の子』が『女』に成長する条件のひとつに、『甘いもので言いくるめられない』なんてのがあるんだろうなと、トオルは独りごちに頷いていた。

 

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