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No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 7

 思い詰めるにはだいぶ役不足な相手は、このたった一枚の紙切れ。

 それに『なぜ、今?』である。

 しかしそれをそのまま言葉にする前に、ちょっと気になる一文がトオルの目を引いた。

「『提出は早めに』、だね」

「うん。でも、提出期限は二週間近く前……」

「何時?」

 視線を紙から美純に移すと、彼女はそれを避けるように深く俯いた。

「5月の……ゴールデン・ウィーク明け……」

「それって、一ヶ月近く前じゃないか」

「…………」

 一瞬身動ぎした美純はどうも反論しようとしたらしく、一度だけトオルを見返してきたのだが、結局それは言葉にはならなかった。悔しそうにきゅっと口を結ぶと黙り込み、彼女は再び視線を下に落とした。

 トオルからは俯いた彼女の表情を確かめることは出来なかったが、なんとなく言葉を掛けづらい空気を発する美純に、わざわざ根ほり葉ほりするつもりもない。眉の端を指でかくと、口から出なかったため息が迂回して鼻から出てきた。

 一旦立ち上がろうと動かしていた腰をずりずりと移動させ、背もたれに体を深くあずける。

 彼女から何か言ってくるかな、と思っていた。

 ただ結局、待っても時間が過ぎるだけだった。美純は下を向いたっきりずっと顔を上げず、一言も発しない。

 飲みかけだったコーヒーもとうとう空になり、これ以上待つ理由もないよな、とトオルは立ち上がる。

「さて、っと……」

 外は雨だ。それも窓の向こうが見えないくらいに激しい雨粒がガラスを叩いている。

 けれど、こんな天気でも来てくれる客がいるかもしれないから、準備だけはきちんと整えておく必要がある。それにわざわざこんな雨の中を訪れてくれる客に、残念な思いをさせるようなことは絶対にあってはならない。

 トオルが椅子の背もたれの形に固まった体の筋肉をぐっと背伸びをするようにを伸ばすと、背骨が返事をするみたいにこきりと鳴った。

 オープンまでの時間で何をしようかと頭の中で段取りを始める。

 トマトソースが少なくなっていし、朝買ってきたヒラメも捌いておこう、明日からのおすすめメニューの下ごしらえも……と、考えていた時だ。

 急に美純の顔が上を向いた。

「あ、あのっ!!」

 声をかけてきた彼女の顔は精一杯の決意の顔だ。

「あ……っ、いえ、その……」

 しかし、決意はすぐにしぼんでいく風船のように小さくなっていってしまう。重力に負けたみたいに彼女の顔はゆっくりと下を向いてしまった。

 トオルはその煮え切らない様子が気になってしまう。

「何?」

「その、こんな事を訊くのって変なのかもしれないけど……」

 一旦頭の中を仕事用に切り替えた後だったから、トオルは彼女が躊躇うのも、口ごもるのも、ちょっともどかしく感じてしまう。

「別に。言いなよ」

 美純の目線に自分のを近付けると、急かすように言った。そうするとさすがに彼女も黙っていられなくなったらしく、トオルの目を覗き返してから一度ゴクッと唾を呑み込み、とうとう控え目にしていた口を開いた。

「あのっ、わ、わたし、将来……何をしたらいいんですかっ!?」

 目の前の真剣な顔が、逆に現実感を希薄にしている。

「…………え、っと」

 トオルの口はそれだけ言うと、あとは命令を放棄したようでぽかんと空いたっきりだ。 

「わ、私……やりたいこととか言われても特にないし、成りたいものなんて見付からないし。で、でも、クラスの子達はみんなちゃんとそういうのがあって、それにほとんどの子が進学するから『〇〇大学◆◆科』とか書けて。私、そんなのも決まらないから、先生に『あなたは一体何がしたいの』って言われてちゃって、だけどわかりませんって言ったら、今度はママが学校に呼ばれちゃったんです……」

 軛を解けば、あとは勢いよく走り出す馬の群れのように、美純の言葉は続いた。

 あからさまな不快感を表情をするのはなんとか踏み止まることが出来たが、トオルは自分の顔が固くなってしまうのまでは止められなかった。

 これに付き合うのはゴメンだ、と思った。

 10代の少年少女特有の青い悩みは、大人になった自分にはまったく無縁の世界だ。

「そう……」

 こんなときは適当に相づちでも打っておくに越したことはない。トオルは一度ゆっくりと瞬きし、次に瞼を開くときには自然に視線を逸らしていた。

「あの、『夢』なんて、ありました?」

「えっ?」

 けれども、訊ねられて振り向いてしまった。

「センセーもママも、口を揃えてそればっかり。『夢を持ちなさい』なんて言われても、ないんだもん。……そんなの叶えたい人だけ、叶えればいいのに」

 彼女の言葉が、彼女にとっての正論なのはわかる。

 ただ、子供の頃の悩みなんて得てしてそうなのだ。足元の小石を拾うかどうか悩むのは大した悩みではない。そのうち、嫌でも両手で掴めないくらいの大きな石だって拾わなければならなくなる。

 だから10代の悩みに自分が足を踏み入れるべきでないのもわかっているのだ。

 けれど若い頃の悩みはまだ一度も物を切ったことのない刀と変わらない。

 その刃は持ち主が思っているより、ずっと鋭いのだ。

「あのさ。そういうのあんまり口にして言わないほうが、いいよ」

 トオルは努めて優しく言った。 

「それに、なんで俺にそんなことを訊くんだい?」

 美純の目が額の上辺りをぐるぐるとさまよって、結局もとの場所に戻る。

「……わからない。だけど、もう誰に訊いたらいいのかもわからなくて」

 どこに向けたらいいかわからない疑問の矛先が、事もあろうに自分へ向いたわけだ。ありがたくないご指名だな、とトオルは内心舌打ちした。

「どうしたいか決まってないなら、書類なんて適当に書いて出しゃいいんじゃないか? 君の担任だって実際はそうしてくれって言ってんだろう。だけど君が空気を読まないから、面倒にも親を呼びつけなくちゃならなくなるんだよ」

「そ、そんなこと、私、言われてなんか……」

「ああ……もう」

 トオルは思わず首を横に振っていた。

「純粋ぶるのは止めなよ。それとも君は、本当に純粋培養のお馬鹿さんなのか?」

 彼女の顔がくしゅりと悲痛な形に歪んだ。

 しかし、それほど心も痛まない。最初は種ほどに小さかった苛立ちが、今はずいぶん大きくなっていたのだ。

「第一、俺は何でこんなことを聞かされなきゃならない? もうすぐ店を開ける時間だ。わざわざ準備の時間を割いてまで付き合ってるのに、こんな相談員みたいな役回りを押し付けられるのは迷惑なんだよ」

 トオルはわざと強い口調で言った。それで彼女が出ていってくれるならよかった。たとえ彼女に悪い印象を残したとしても、いい――。

「君は一体、何をしたくてここに来たんだよ……俺の邪魔でもするつもりだったのか?」

 それでも言い切ったあと、思わず彼女の顔から目を逸らしてしまったのは、多分自分で思っているよりもそんなに心が強くなかったからだった。

「ちがっ、わ、私……」

 しかし美純は引かなかった。

「そんな、ただ、謝りたかっただけなのに……話だって、あなたが言えって言ったからしただけで、本当はするつもりなんてなかったのにっ」

 再び冷たい熱が背筋を駆け上がってくる感覚。それがトオルの頭の先まで届くのは、ほんの一瞬だった。

「そうかよ! なら言いたいことも言えて、気も済んだだろう。いいからさっさと出てってくれよ!」

 カッとなって出てしまった言葉は、多分、本心ではない。

 けれど、勢いで出た皮肉みたいな一言はどうだかわからない。

「……君は毎日楽しく適当に学生生活を楽しんでいる身分だろうが、俺は今も仕事中なんだ」

「て、適当って……そんな言い方、私……」

 ただ、自分が口にしてしまった言葉が自分の心をさらに荒ませていく。起こってしまったうねりは簡単には収まらない。

「適当じゃないなら、なんだ? 自由奔放か勝手気ままか?」

 美純が眉間に深く皺を寄せて、顔を落とした。  

「わかったら、さ。もう、出てってくれないか」

 ズカズカと音を靴底の音をたてて入口に向かった。

 扉を開けて、彼女を追い出して、それで終わりのつもりだった。

 だが、美純はそうしない。

「わ、私っ、適当になんか……てっ、適当になんかッ!!」

 もう一度上げた顔は、キッと鋭くトオルを睨みつけてきたのだ。意志の強そうなその表情は、さっきまでの気後れした少女のものではなかった。

「やれって言われれば、なんだってしてきた。やめろって言われれば、絶対しなかったっ。そうやってパパの言うこともママの言うことも、全部ちゃんと訊いたのに……そうしてきたのにっ!」

 馬鹿馬鹿しいくらいに真っ直ぐな一言を、馬鹿馬鹿しいくらいに真剣に言う彼女の目は、本当に馬鹿みたいにトオルの眼の深いところの一点をじっと見据えてくる。

 その不快感から身を捩りたくなる。

「そんなんだから、お前は何にもわからないんだ。そんなの、何の不自由もない恵まれた生活をおくってる奴のセリフだ」

 トオルは胸の奥に溜まった塊を全部出すように吐き捨てた。

 しかし――

「違うっ、全然、違うもんっ!!」

 その言葉に美純は異様に反応したのだ。ガバッと立ち上がると物凄い勢いで肩からぶつかってきた。予想もしない彼女の行動に、トオルは身構える間もなく背中を入り口の扉に打ち付けられて、思わずうっとなってしまう。

 肺から一遍に出ていってしまった空気を、喉が慌てて取り込もうとする。途中、何度か咳き込んだ。胸のところに組み付いたままの美純の存在を息苦しく感じて、その体をどうにかどかそうと肩を掴む。

 震えていた。 

「みんな、最後はそうやって言う……私の家が裕福だから不自由がないとか、適当に生きてたってきっと困らないとか」

 その肩は震えていた。声も震えていたから、泣いているのかもしれないとトオルは思った。

「でも、そんなの私には関係ないっ! あれは……」

 美純の言葉は胸の奥に張り付いた暗い情念を、必死で吐き出そうとしているようにも聞こえた。

「あれは、私のためのものじゃないから……」

「…………」

 叫びはどこに向けてだったのだろうか。トオルは、何も言えなくなっていた。

 そして、美純の言葉はとぎれとぎれに続いた。

「何かひとつでも壊れたら……崩れてバランスを失ったら、もしかして私のやるべきことが見つかるのんじゃないかと思った……それならそれでよかった。私を取り巻く環境や偏見は、ちょっとやそっとでは変わらないから……。だから、あんなことをしたの」

「あんなこと、って?」

「あなたの自転車に飛び込んだこと。怪我して、もう歩けなくなちゃったら、みんな私のことを諦めてくれるんじゃないかって……。死んじゃうのはすごく怖かったから、勇気がなくて車には飛び込めなかった……」

「なっ?!」

 トオルは彼女の言葉に耳を疑ってしまう。

「だけど、そのせいであなたに酷い怪我を負わせるなんて、ほんの……ほんの少しも思ってなかったの」

 彼女が顔を上げた拍子に落ちた雫に目を取られていた。

 だからその指先が自分の頬を撫でるまで、すぐ近くの彼女の表情に気付かなかった。

 その顔は息苦しいくらいに孤独な笑顔だった。

「結局、なんにも変わらない。ただ、あなたに迷惑を掛けただけ。ごめんなさい、本当にごめんなさい……」

 

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