All's fair in love and war. ≪なりふり構っちゃいられない≫ 6
「なぁ、美純。せめて、先に相談くらいするべきだったろう? こんなこと、事後報告なんておかしいとは思わないのか?」
「うん…………」
美純の伏せた横顔は、困ったような悲しげな複雑な表情をした。口の中にザラッとした感覚が広がる。
「怒ってるわけじゃない。ただ、もうちょっと慎重に行動するべきだと言ってるんだ。考えなかったのか? 俺が心配するんじゃないかって」
「…………」
「なぁ、美純。そう思わなかったか?」
彼女は返事をしようとしなかった。考えているのか、それとも考えているふりをしているのか、一見ではわからないあやふやな色の目をしている。ただ、そこをあと一言問い詰めようとすれば、今度は自分の感情のベクトルが上向いてしまうのをとめられないかもしれない。トオルは喉から出掛かったものを自制して黙り込んだ。
再び会話の空白に店内のBGMが割り込んでくる。ウッドベースとドラムとピアノのトリオが奏でる曲は軽快に流れる。
なのに、言葉は出ない。美純がする沈黙の理由はわからず、トオルのほうは言いたいことがいくつもあるのに喉に引っ掛かってうまく吐き出せずにいた。
胸がくさくさした。お互い、久しぶりに会ったのだから嬉しいはずなのに、その嬉しい気持ちがじわじわ目減りしていくみたいだ。
ただ、トオルは今回、たとえその気持ちのメーターがゼロになっても自分のほうから歩み寄るつもりはなかった。
今、トオルが感じているわだかまった思いを、美純にはちゃんと感じとってほしいと思ったからだ。彼女にパートナーたる自分の気持ちを汲み取ってほしい――それはこの先もふたりの関係が続いていく上でとても大切な事だ。
「美純……そうは、思わなかったか?」
もう一度、諭すようにゆっくりと言った。腹の中には確かに怒りのようなものも揺らいでいたが、美純に釘を刺される以前にトオルだって子供じゃない。声に出さないよう気をくばる。
「…………なぁ」
「わかってるの。わかってるよ、トオルに嫌な思いさせちゃったなって。でも……」
「でも?」
首を傾け、カウンター越しに覗き込むと、美純も顔を上げた。自責に沈んでいるかと思った彼女の目は意外なことにしっかりとトオルを見詰めて返し、表情には意志があった。
「このことはね、自分でちゃんと決めようと思ったの。そうしないと意味がない気がしたんだ」
「意味がない?」
訊ねると、美純はちょっと困ったような苦い微笑みを浮かべ、それを答えにしようとした。トオルはその表情を見たときに、もしかしたら彼女自身、自分の思いに対しての明確な解答にたどり着いていないのかもしれないと、なんとなく感じた。
少しだけ考えてから、美純は再びしゃべり始めた。
「トオル……私、翠さんからこのお話をいただいたとき、最初は絶対断ろうと思ったの。せっかくトオルと付き合ったばっかりで……二人でいる時間がとっても楽しくて、大事なのに、一緒の時間が少なくなっちゃうのは嫌だって思ったから。その時、本当はトオルに相談しようかどうか迷ったの。だけど、もしトオルのほうが「やってみれば」って言ったら……それも嫌だなって思って。トオルはそんなつもりじゃなくとも、私は気持ちがすれ違ってるみたいに感じちゃいそうで……それが嫌で。だけど、やっぱりやってみようって決心してからは、もっと言えなくなっちゃった……だって、もしトオルに止められたらどうしようって……。トオルが「やめろ」って言ったら、私、多分すっごく悩んじゃうもん。考えて、立ち止まっちゃうもん……だけど、このことだけは絶対に自分で考えて、自分の意思だけで決めようって……そうしないといけないって思ったの。ごめんね、今まで内緒にしちゃって……」
自分の思考を整理しながらゆっくりと、ひと言ひと言を繋いでいくような話し方。
「いや、だとしても……俺には話すべきだったよ」
「…………」
「俺は聞いておきたかった。ちゃんと知っておきたかった、お前のことを」
だって、これじゃあ信頼されてないみたいじゃないか――そう、続けてしまいそうになって口ごもる。たとえ事実はそうであっても、美純には知られたくなかった。彼女にそんな子供滋味た部分をみせたくない。
「……ごめんね。ダメだったよね、私。結局トオルに心配掛けちゃって」
次第にかすれていく声。泣くかなとトオルは思ったが、美純は泣いていなかった。感情の終着点が涙に行きやすい彼女にしては珍しいと思った。
「でも、私、決めたの。私がちゃんと決めたから……トオルには見守ってほしいんだ」
そして、彼女がみせたのは微笑だった。トオルはふっと、急になんだか体から力が抜けてしまった。
これ以上、何を言っても美純をただ追い詰めていくだけだ。そうやって自分は一体どうしてほしいと望んでいるのだろうか? 彼女に何を期待しているのだろうか?
年下の彼女だから、頭の半分は兄貴みたいな感覚で接していたところがあった。まだ未熟なところを諭し、導いてやろうと思っていた。でも、それは同時に彼女を自分の手の届く枠内に収めようとしていたのかもしれない。
不意に――自分のなかの未知の感情に気付いてしまった気がした。
それが何なのか、すぐに言葉にはできなかったが、淀んだものに手をつっ込んだような不快感を覚えてまぶたを伏せる。そして、
「もう、いいよ」
トオルは思わずそう言っていた。
「えっ?」
「でも、美純。何かあったらすぐに連絡すること。これだけは絶対に約束しろ。そうしたら、今回のことは流す」
「う、うん……わかった。約束する」
「困ったり、悩んだら相談する。これも絶対」
「うん」
「あと、たまには店に顔を出せ」
「ん。そうする」
「それと……あとあれ……ええっと、なんだっけな……」
こめかみに指をあてて、頭を捻るふりをする。
「えっ……まだ、あるの?」
さすがに美純が眉根に皺をよせた。その表情を見て、トオルは吹き出しながら首を横に振った。
「ぷっ。くくく、冗談だよ。もうない」
「むすぅ……そういうの、いじわる」
「ああ、いじわるだが。悪いかっ?」
口ではそう言えた。冗談のように。ただ、彼の心の中は穏やかではなかった。上目遣いに睨まれている間、トオルは苦笑いの顔を作りながら、思考は別のことを考えていた。
美純に対する自分の心の立ち位置をどうするべきなのか、と。
その日は本当に久しぶりに美純はラストオーダーまで『カーサ・エム』にいた。
「久しぶりだけど、やっぱりおいしいね、トオルのごはん」
いつもだったら「いつだって美味いに決まってる」くらい言い返せるはずなのに、その夜はなんだかうまくいかずになんとか笑みを返すだけだった。