All's fair in love and war. ≪なりふり構っちゃいられない≫ 4
それは、ほんの一時間前くらいのこと。
トオルはカウンターの席に座り、一人もの思いに沈んでいた。
美純のことだ。
メールも電話もあるから、それほど心配はしていないつもりだった。それでも会えない日が続くとだんだん心が細くなっていくのを感じた。会いたい――と、日を追う毎にそう思う回数は増えた。いつの間にか自分の中で美純の存在が大きくなっているのを感じて、トオルは少し複雑な気がした。
相手は自分の半分くらいの歳の少女だ。
なのに、そんな片生いの相手に自分の大事な部分を握られてしまっているような感覚。久しく感じていなかった重力のような抵抗不能の感情の拘束。
恋愛をしているのだという、実感。
本当に長いあいだ遠ざけてきたものがふとした拍子にすぐそばにあると気づくと、扱いを熟知しているつもりでもどうしてかうまく使いこなすことが出来ない。乾いた冬の朝の空気のように心がピリピリと過敏になっているのか、普段だったら営業中は仕舞っておくようにしている携帯電話を今日は手元に置いている。
過剰反応なのはわかっていた。けれど、34年間で培った免疫力は今度の病には役立たずで、いつまでたってもこの微熱は下がりそうになかった。
会いたい。顔が見たい――――
トオルは、ぼんやりとしていたせいですっかり冷めてしまったコーヒーに口を付けた。有り合わせの食材で作った闇鍋的なまかないパスタを食べた後に、珍しく自分のために自分で入れた一杯。なのに、カップの中の液体はほんの少ししか減っていない。
今日はまだ、メールもなかった。
美純には美純の都合があると頭では理解しつつも、理性を感情が上書きしていく。行く宛てのない苛立ちが毎日少しずつ堆積してきて、未開封のまま置かれたボトルの肩に溜まっていく埃みたいにどうにも気になってしまう。
ため息が呼吸の数ほど溢れても一向に携帯は鳴らなかった。せめて眠気でも襲ってきてくれれば今なら無抵抗で唆されても構わない気分なのに、そうそう都合よくはいかない。
「あのぉ……」
不意にカチャリ、と控えめな音をたてて入口のドアが開く気配がした。店の外にはclosedの看板を出しているから、多分宅配業者だろうと思い肩越しに胡乱な視線を投げる。
しかし、そこに居たのは見慣れた制服姿ではなかった。
扉の隙間から体半分を覗かせていたのは、鮮やかに染め上げた黄色のTシャツにデニムのショートパンツの女性だった。
「すいませーん、ひとりなんですけどー」
そう言ってもう一歩、脚を踏み入れてくる。夏の高い日差しは窓際ばかり照らすだけで店の中は薄暗く、なのにスラっと伸びた白い脚とブーツサンダルから溢れるモーブ色に塗られた形のよい爪がやけに目を引いた。
つま先に落としていた視線をゆっくりと持ち上げ、あらためて闖入者の顔を確かめる。トオルの口から出掛かっていた返答があっけなく胃に落ちた。
「っ……」
しばらくじっと見詰めてしまったのは、そこに居るはずのないと思っていたものを見たときお定まりの反応だからだった。なのに、相手のはそれをどう取ったのか頬を赤くして小さく笑った。
「あのぉー、ひ、ひとり……なんです、けどぉ……開いてますかぁ……」
彼女は呆然としているトオルの返事を待たずに店内へ体を滑りこませると、後ろ手でそっと扉を締めた。その場に佇みしばらく黙っていたが、やがて気恥しそうな顔の上目遣いを向けてくる。
その仕草で最近また伸ばし始めた髪がふわりと揺れた。その向こうでグレーがかった瞳が柔らかそうに微笑んだ。
「ちょっとー、返事くらいしてくれてもいいでしょう? スルーされるのが一番恥ずかしいよぅ」
美純は不満そうに口を尖らして言う。が、口角はすぐに柔らかくなって、そこからまた笑顔が溢れ出る。
どこかに飛んでいっていた思考がくるっと一周して帰ってきたらしく、ようやくトオルも自分の目に映っている彼女を頭でちゃんと認識することが出来た。思わぬ来客に思わず顔が綻びそうになるのを寸前でなんとか堪える。浮き立つ気持ちの端っこがなんとかプライドに引っかかってくれて助かった。でなければどんな顔をしていたかわからない。
「…………あのなぁ。来れるなら来れると、ちゃんと連絡くらいしろよな」
言葉の端が変に尖ってしまったのは、そうでもしないと本心が隠せそうになかったからだ。目が必要以上に鋭くなったのは、そこで固定しておかないとすぐにずり落ちてしまいそうだったから。
そんなトオルの反応が彼女は意外だったらしく、ちょっと動揺したみたいだ。
「だ、だって……驚かせようと思ったんだもん」
「せめてメールくらいしろ」
「ぶぅ。・・・・・・ねぇ、でも本当はびっくりしたんでしょ?」
純粋に期待した目が覗き込んでくる。
「し・て・ま・せ・ん」
「ええーっ、嘘だぁ」
「まったく。ちっとも。これっぽっちも……むしろ、こんなことで驚くと思っていたキミのことのほうが驚き」
「むすぅ……」
トオルは半眼冷笑を向ける。
「発想と行動がお子様なんだよ、お前は」
憎まれ口は照れ隠し。それを簡単に見透かしてくるような相手なら手を焼くが、いかんせん手練手管なんて言葉とは無縁な少女だ。さっきと違って今度は真剣に不服そうな顔をみせる。
トオルは思わず吹き出してしまった。他愛もないやり取りも、美純のそんな表情を見るのも久しぶりで自然と心が緩んでしまう。胸のなかにミルク飴のように安心感がとけていく。
「まぁ、らしいっていえばらしいけどな。それより腹は空いてるのか? なにか作ろうか?」
キッチンに向かおうと立ち上がりかけたところを、止められた。
「ううん、大丈夫。それに、今、クローズタイムでしょう?」
「普通の客は、な」
肩を竦めてみせると彼女はくすくすと笑った。
それから一歩、二歩とトオルのほうに近づいてくる。
「ありがと。でも、本当に大丈夫。今はお腹、空いてないし」
てっきりそのまま隣りに座るだろうと思い右手でストゥールを引いてやったのだが、彼女はそこに腰を下ろそうとはせず、代わりに後ろからトオルの肩に腕を回してきた。
「………と、美純?」
右肩に彼女のおとがいの重みを感じ、絹糸のような細くて艶やかな髪がそっと耳たぶを撫でていく。かすかな吐息の音。ふれる少女の膨らみ。背中から伝わってくる体温。鼻腔からは覚えのある甘い香りが飛び込んでくる。
「どうし、た……?」
トオルが首を傾けると、すぐ間近に吸い込まれそうなほど澄んだグレーの瞳が待ち構えていた。どう探ってもそこに自分だけしか映していない、あまりにも純粋な瞳。ドキッとした。くやしいが思わず息を呑んでしまった。
美純の瞳の奥がくるるっとなって笑ったのが見えた。トオルの胸中がそのまま面に出たのを見付かったのだろう。彼女は生意気にもニンマリと勝ち誇った表情をしている。唇がかすかに震え、そこから今にも出てこようとしているのはきっと勝者の弁なのだ。
黙って聞いてやるのは沽券に関わるような気がしたから、トオルは彼女の不意をついて言葉が声に変わる前にキスに換えしまった。今度は彼女が驚くのが触れた唇越しにわかった。数瞬緊張で固くなった唇が、やがて溶けていっていつものキスに変わる。
一度離れても名残惜しく、もう一度。啄み、舌が唇の奥を目指したところで、だが再び美純の体は固くなった。強引にわけ入れば越えられてしまいそうなそのささやかな壁を、しかし今はまだ越えるべきではないような気がしてトオルは身を引いた。
離れて、目が合うとなぜか急に気恥しさがこみ上げ、互いになんとなく微苦笑する。
「クスクス。久しぶりだからかな? ちょっと、照れくさいよね」
「そうか? お前がウブなんだろ」
また不服そうな顔をするかと思ったが、今度は彼女のほうが上手だった。
「ふーん。でも、顔を赤くして言われても説得力ないんですけどー」
「……むっ」
「あー、図星ー。トオルってば、かわいいー」
巻き付けていた腕を解いて後ろに一歩離れると、首を傾げたり、下から見上げたりとあからさまな素振りでトオルの顔を覗き込んでくる。煙たそうにしても美純の顔のにやにやは消えない。
「フフフ。トオル、照れちゃってる。かぁわいいー」
「おいっ。そんなことより、ちっとも顔を出さなかった理由を説明するのが先なんじゃないのか?」
捕まえて、額を軽く小突いてやるが、してやったりの表情はくずせない。
「そうやって話しを逸らそうとするの、ますますかわいいー」
「お前、大人をからかうのは……」
そのとき、だ。
トオルの言葉を遮るように彼女の携帯の着信音がなった。短く一回。電話ではなくメールのようだ。
その時、気のせいか美純がほんのちょっとだけ眉を寄せたように見えた。
「……もう、今日は連絡もしないでって、ちゃんと約束して…………あれっ、朱奈からだ」
ぶつくさと言いながらショルダーバッグから取り出した携帯を確認すると、彼女は一転して安堵の表情を浮かべた。が、それもつかの間、慣れた手つきで携帯を操作して内容を確認するうちに表情はまた一回転した。行を追う目が点になって、さらに丸くなった。
「嘘……なんでクロエがここに来るの? なんで……?」
美純はうわ言のように呟いた。
「ん? なんだ? どうしたん……」
あからさまに動揺している美純に問いかけようとするのを、すぐまた別のメールが遮った。
「ちょっとぉー、『もう、すぐそこ』ってどういうことよぉ……朱奈のばかー! なんで、もっと早くメールしてくれないのよー。ばか、ばかっ!!」
激しく狼狽する美純は、なぜか見慣れているはずの店内をキョロキョロと見回して何かを探していた。怪訝に思ったが、それを訊ねようにも彼女はこちらの声に耳を傾ける余裕もない。
「…………、そうだよねー」
「!!」
店の外から微かに聞こえてくる往来のざわめきに反応して振り返ると、美純は表情をいっぺんに強ばらせた。若い女性の話す声がゆっくりと近付いてきて、そして次第に離れていく。その間、彼女は入口の扉一点を凝視して身を固くしていた。
「美純っ」
「ひゃんっ!!」
トオルが肩を掴むと彼女は驚いて飛び退った。
「お前、落ち着けよ。何をそんなにあたふたしてるんだ」
「だって……」
手を取って引き寄せると、彼女はもう一方の手も重ねてギュッと握り締めてくる。緊張しているのか指先がやけに冷たくなっている。
「どうしよう、隠れないと。今、トオルと会ってるところを見付かったらクロエに誤解される」
「はぁ?」
「クロエに恋バナだけはありえない。絶対、話が大きくなる。あの子、自分の妄想でしゃべるところあるし……そんなの困る。別に私、トオルのこと自慢したいわけじゃない。そっとしておいて欲しいのに」
独り言のようにブツブツとしゃべられても状況はちっとも呑みこめない。
「あのな、こっちは何を言ってるのか全然理解できないんだが。説明くらいしろよ」
「トオルッ!」
こちらを向いた美純の顔は深刻そのものだった。
「トイレッ! 借りてもいい?!」
「いや……貸すのは構わないけど。でも、誰か来るのにトイレへ隠れるのはマズイんじゃないか? そんなのまず疑うだろう」
漠然と察する状況から判断し言うと、顔をくしゃっとさせた。恨めしそうな目の色で見られるのはどう考えても筋違いだと思うが、今はそれを言える雰囲気ではない。
「じゃあ、でも、どうしたら……どど、どうしよう……ううーん、ええーっと…………トオルぅ、どうしようぅ」
「ちっ。それじゃ全然、訳わかんねーよ。ったく」
最後は気の毒なくらい掠れた声で訴えてくる。これ以上美純に説明を求めても無意味だろう。
しかたなくトオルは彼女の手を引くとキッチン裏のバックスペースに詰め込んだ。普段はトオルの更衣室兼乾物缶詰等の倉庫になっている場所。夏季多湿高温、冬期乾燥極寒の住環境劣悪なスペースだが、この際苦情は後回しだ。
「ともかくここに入ってろ。俺がいいって言うまで出てくるんじゃないぞ?」
「う、うん」
頷くのを認めると扉を締めようとした。が、締まる直前に咄嗟に美純は扉を押し留めた。隙間から必死にひと言発してくる。
「トオルッ! お願い、私とはずっと会ってないことにしておいて」
「ああ?」
「お願いだからっ! お願い……」
声だけになってもなお必死な訴えに「わかったよ」と返し、扉を締めると何喰わぬ顔でキッチンへ戻る。それらしく振る舞えるようにダクトのスイッチを入れ、鍋に水を張って用もなく火に掛ける。
そうしているうちに表から声がしてきた。
トオルはカウンターの向こうに置いたままの自分のカップを取り上げると口に含んだ。薫りもとんで冷めてしまった苦味一辺倒の液体だが、釈然としないままの胸のモヤモヤを押し流すにはちょうどいい。
ドアベルの音が鳴ったときにはすでに気持ちは切り替わっていた。もう何日も恋人と会えずにいる、感情消化不良の男の顔。扉から覗かせた顔に一瞬期待してしまって、すぐに気落ちした表情。10代のガキンチョ相手には過剰演技かもしれないが、サービスだ。
なにしろ、ほんの一瞬前まではまったく同一の感情を持て余していたのだからリアル感たっぷりに違いない。
「……こんにちは。お久しぶりです」
カタンと裏のスペースで物音がしたのに一瞬ヒヤッとさせられたが、朱奈達に気づかれた節はなかった。店内を捜索するかのように歩き回る金髪碧眼の少女の動向にさり気なく目を光らせながら、トオルはちょっと俳優にでもなった気分でこっそりとほくそ笑んだ。
◆
冷たく冷えたコーヒーを差し出すと美純はひと息に半分くらいを飲み干した。
裏の個室はそうとうに暑かったらしく、まだぐったりとしている。たっぷりとかいた汗でTシャツの襟首から胸元に掛けては透け下着の色が見えている。
もう少しだけ待ってやろうかとも思ったが、あまり悠長にしているとディナータイムのピークに入ってしまう。トオルは軽くひとつ咳払いをすると、カウンター越しに身を乗り出して言った。
「さあ、そろそろ事情を説明してもらいましょうか」
「…………」
美純はすっかり諦めたような表情をして頷いた。