All's fair in love and war. ≪なりふり構っちゃいられない≫ 1
「もう、なんでよー!」
不満全開の声がディナーオープン前の『カーサ・エム』店内に響いた。それに対する槙野朱奈の答えは無言の半眼だ。
「絶対、ここって言うから来たのにー。いないって、どういうこと? ちょっとぉー、朱奈ぁー」
「……絶対、なんて言ってない」
「言ったってー。『彼が働いてるお店がある』って」
「私が言ったのはそれだけ」
「そうだった? ……もう、忘れたよ」
仕込みの手を止めて顔を上げると、トオルの目に映るのはプラチナブロンドの長い髪をふるふるとさせて、冬の空か南の海を思わせる真っ青な瞳をくるくるとさせた、人形のように均整のとれた顔立ちの少女が腕組みして立っている姿だ。
なのに、その口から出てくるのは流暢な――というよりはかなりネイティブな日本語、である。
見ためは完全に東洋人と異なるはっきりした目鼻立ちに、透きとおるような白い肌、細くてスラっと長い手脚。
どうにもチグハグな感じがしてしまう。
トオルからそんなふうに見られているのを知ってか知らずか、彼女は眉をきっちり八の字にして頬をぷりぷりと膨らまし下唇を目一杯に突き出すという、まさに美貌の無駄遣いのような表情をつくった。
「あいつ、ウチらから逃げてるわ、絶対。これはマジでアヤシイって」
少女は右手の指で顎の先をつまむとカウンターの隣りに座る朱奈を向いて言った。
「捕まえて、吐かせよう」
「……それが捕まらないからここに来たのに……クロエってほんと馬鹿」
「あーーっ、言った! また、言った! バカバカバカバカって、朱奈のせいで頭悪くなったらどーすんの」
詰め寄る少女に対して、朱奈は顔色ひとつ変えずにぼそっと答える。
「そんなの知らない」
「ふんっ。だったら、ウチだって知らない。もう、これ以上悪くなりっこないくらい、悪いし」
自らボケておきながらあっさり自分を切り捨てると、今度は急に思考顔だ。
再び顎の辺りに手を当て、独りごとのように喋りながら真剣に考え出した。ただ、さっきまで大人しく店内の装飾や陳列されている酒瓶を見回していた同級生とおぼしき少年二人が、店の奥で彼女の言動をくっくっと笑っているのに気付くと、彼女の思考分岐器のベクトルはすぐにそちらに切り替わった。
「智ぉー、圭ぃー。あんた達、今、笑ってなかった?」
ムッとした口調の少女が振り返ってキッと睨みつけると、一人の少年は両手を顔の前で振って否定したが、もう一人の方は堪えきれなくなってさらに笑い出した。それをイコール共犯とみなした少女はツカツカと二人に近付いていくと、ばんっ、ばんっと派手な音をさせて二人のケツをひっぱたく。叩くほうもそうだったが、仰け反る二人もこなれた様子に見えた。多分、このやり取りの一連は彼女達の日常なのだろう。
ちっ、と一回舌打ちをしたときにはもう彼女の頭の中は切り替わったあとのようだった。振り返ったとき、すでに顔はさっきと同じ真剣な表情に戻っていて、少女はそれが癖らしい顎を触る仕草をしながら上下の唇を強く結んだ。
「……ったく、メールは返ってくるけど電話はしょっちゅうシカトだし、これはひゃくぱー(100%)オトコだと思ったんだけどなー」
本人は独り言のつもりらしいが、ちょっと離れた場所で喋った声はカウンターのこっちにいるトオルまで聞こえている。ととのった外見と、ずれまくった中身のギャップが激し過ぎて、笑いを堪えるのに苦労した。
面白い娘だ、と思った。
「うーん。……ここに張り込むかぁ?」
そして、ちょっと面倒臭い娘だな、とも思った。
―――― All's fair in love and war. ―――― Chloe Alba
7月中旬。
もうすぐ学校が夏休みに入るという時期に、美純は三日ほど続けて『カーサ・エム』に顔を出さない日があった。ただ、店に来ない間も彼女からはメールや電話で頻繁に連絡があったし、理由も「友達と夏休みの計画を練るから」という至極真っ当なものだったので、その時はあまり気にもとめていなかったのだ。
が、学校が夏休みに入ったとたん、美純はぱったりと顔を出さなくなった。
音信不通というわけではなかったが、それでもそんな日が一週間も続けばなんとなく落ち着かなくなる。それに連絡手段はメールが主体、日中は電話を掛けてもほとんど出ない、夜に電話をしてもどういうわけか元気がない、となると話は別だった。一度、電話の途中に彼女が眠ってしまって、それっきり何度呼びかけても目を覚まさない、なんてこともあった。
トオルも、自分のほうが忙しければそれほど気にかからなかったのかもしれない。
だが、洋食店は学生達が長期の休みに入ると集客数が減少しがちになる。主要な顧客である主婦達に自由な時間が少なくなるせいだ。それに暑さが増せば人間だれでも食欲は減退する。日本には暑い季節にぴったりの喉越しがよくて冷たい料理があるから、パスタやリゾットはなかなか食事の選択肢の中に食い込めなくなる。
おかげで意外と時間には余裕があった。
考える時間が増えれば、どうしたってしなくてもいい想像をしてしまうこともある。
ひと回りも歳の離れた女の子の振る舞いにイチイチ気を揉むような女々しい男にはなりたくないと思いつつも、しばらく人の愛情とは縁のない生活をしてきたせいで心のほうはすっかり弱りきっていたらしく、仕事の合間も携帯の着信が気になって仕方がない。
『少しは会う時間をつくってくれてもいいんじゃないか?』――折角の休みを友人同士楽しみ倒すことが悪いこととは言わないが、自分だって彼氏としてちょっとくらいの我を通すのも間違ってはないはずだ、と思った。
トオルは次に電話したときには必ず二人で出かける約束をしようと決めていた。
その、電話すら通じなくなった――
鬱々とした気分を持て余しつつあった7月の終わり。
天気の良い日。
夕方と呼ぶには外はまだ明るすぎて、それでもディナータイムの始まりが迫る午後5時ちょっと。
重たい腰を上げて、のらない気分を濃いめのコーヒーの苦味で無理矢理に奮い立たせ、準備を始めようとしたとき、だ。
カララッ、とドアベルの鳴る音がしてトオルはふっと入口を振り向いた。
「……こんにちは。お久しぶりです」
見覚えのある顔がそこにあった。美純の友人の槙野朱奈だ。
ただ、扉をくぐって入ってきたのは彼女だけではなく、その後ろには美純や朱奈と同じ学校の制服を着た男女が数人続いた。朱奈を含めて全部で四人。肌のよく焼けた見るからに体育会系の少年が二人と、もう一人はなぜか白人の少女。
しかし、そこに肝心の美純の姿はない。
「久しぶり。……ごめんね、まだオープン前だからちゃんと準備が整ってないんだ。もうちょっとだけ座って待っててくれるかな?」
落胆する気持ちが顔に出ないように気を付けながら、トオルは出来る限り自然な表情をつくって彼女達を迎え入れようとした。
しかし、だ。
彼が席を勧めるより早く、集団の中の一人がトオルの横をスッと通り抜けて行くと遠慮なしに店の奥まで小走りで入っていってしまった。
「ちょっ……、ええっ?!」
予想外のことにトオルが呆気にとられていると、その少女――クロエ・アルバは見事なまでの金色の長い髪を揺らして振り返り、ひと言こう言った。
「みーは、どこ?」
トオルは一瞬、その言葉が何を指しているのかわからずに戸惑った。少女の言動の意味を求め、この場に居る中で一番解答に近そうな朱奈の顔にたどり着く。
しかし。
朱奈はやっぱり朱奈、だった。我関せずの表情がトオルを一瞥すると、彼女はその目もすぐに逸らした。一言も発することなくスタスタとカウンターまで歩み寄り、座った。ストゥールをくるっと半回転させ、カウンターを背にする格好でトオル達を向き直ると、両方の手のひらを膝の上にチョンとのせてあからさまに静観の姿勢だ。
とはいえ、そんな態度をとられてもトオルには彼女以外に面識があるわけでもないので、結局頼るのは朱奈しかいない。トオルの足が彼女に向いて歩み寄ろうとした。
その時、再び青い瞳の少女の口が動いた。
「ねぇ、おじさん……」
おそらくは自分のことを呼び止めているだろう声に、トオルは反応した。
ゆっくりと声の主を振り向いた。
「みーの彼って、誰よ?」
そして、その言葉に今度は朱奈の唇が素直に答えた。
「……クロエ。この人が、そう」
「はぁっ?!」
間髪いれず、素っ頓狂な返事が店の奥から返ってくる。そして、じっとりと品定めるような視線が投げかけられる。
トオルは思わず唾を呑む。
それからたっぷり一分くらいは鑑定されただろうか。
「…………ガチで?」
首を傾げた怪訝な顔のクロエに、朱奈はコクリッと頷いた。