Love laughs at locksmith. other side ≪Midori Aki.1≫
バンド仲間といつも使っているスタジオは、築数十年のボロビルの地下一階にある。
エレベーターは無し。トイレは階に男女一つずつだけ。防音設備はザルのよう。おかげで扉の向こうからは、翠達のあとに演奏を始めたバンドの曲がフロアにダダ漏れている。
正直、聴けたもんじゃない。
翠は右足のつま先を軸にしてくるっと半回転、そのまま今どきないだろうセンス最低の赤い革張りソファーにどっかと腰を落とし、持っていたペットボトルからミネラルウォーターをがぶがぶと喉に流し込む。唇からはずして「ふうっ」と一息つくと、視線の先に白地に赤いラインのスニーカーを見付けた。その時になって初めてすぐそこに立っていることに気付いた人影を翠は見上げる。下から自然な仕上がりに加工されたダメージ・ジーンズに、黒のカットソー、グレーのカーディガン。さらにその上にのっかているのは、そこそこ顔立ちは整っているのに異様につぶらな瞳が残念な、見慣れた柳木翔太の顔だった。
翠はまだ飲みかけのペットボトルの蓋を締め、その置き場を探してきょろきょろと顔を左右に振る。が、室内にたったひとつしかないセンターテーブルの上には、その場にいる全員の荷物が破滅的なありさまで散らばっており、仕方なく身を屈めると踵と踵のあいだに透明なボトルをちょこんと置いた。
「……なぁ」
「なに?」
言葉足らずな彼の問いかけには、愛想の足らない返事を返す。さらに彼から返ってくるのは、言いたいことがたっぷりと詰まった、沈黙。翠はしばらく無言で付き合うが、すぐに見上げているその体勢に首が疲れて項垂れた。その素振りの意味をどう取ったのか頭の上で翔太が舌打ちするのが聞こえたが、彼女はそれには気もとめない。
「お前、……これからどうすんだよ?」
「どうするって、そんなの、なるようにしかならないでしょ」
翠自身すらまだ検討もついていないことなのだ。答えようのない質問に、つい口調が不機嫌になってしまう。
「なるようにって軽く言うけど、この時期になって今さら就活なんてどう考えたって遅すぎだろ。絶対、どこもとってなんてくれないぞ」
大学四年の11月だ。言われなくてもわかっている。でも、わかっているからこそ、指摘されると反発してしまう。
「そんなの……やってみなくちゃ、わからないじゃない……」
「わかるよ。馬鹿か、お前」
「…………」
翠は口をつぐむ。心配して言ってくれているのはじゅうじゅうわかっていた。それだけに、尚更素直に耳を傾けられない。そして、そんな彼女の性格をよく知っているから、翔太もあえてそれ以上口を出してはこないのだ。
再び、沈黙。
気付くと今度は翠と翔太だけではなく、いつのまにか部屋にいた全員が押し黙っていた。息を潜め、じっと二人の会話の行方を静観しているのが空気で伝わってくる。ただ、彼らも単に興味本位でそうしているのではないことくらい承知の上だ。
翠はさらに息を潜める。唇がやけに渇く。
自分を取り巻く微妙な空気。
緊張感の理由は明確だ。
次に彼女の口から出る言葉に室内の全員の意識が向けられているのが、肌にヒリヒリとするくらいに感じられる。
出来ることなら今すぐにでもこの場をあとにしたい。しかし、少なくとも翔太は自分のことを引き止めるだろう、と思った。彼が発するのは『答えを訊くまではこの場を退かない』という意志のようなもの。『気付かないふり』は多分、通用しない。
だから彼女は、会話を矛先を彼に向け変えるような質問を返す。
「……翔太は……どうなの……」
「あぁん?」
かさつく唇と同じくらいに渇いた喉からは、かすれて呟くほどの小さな声しか出ない。聞き漏らした彼と、うまく伝えられなかった自分に苛立ちを覚え、微かに眉を釣り上げる。
細くなっていた喉から、無理矢理言葉をひねり出す。
「そ、そういう翔太はっ!! …………卒業したらどうするのよ? あなただって……この先のこと、白紙になっちゃったわけでしょ?」
「…………まぁ、な」
今度は翔太のほうが一瞬暗い顔をした。しかし、彼はすぐに気持ちを切り替えようとしたのか、首を左右に小さく振ると少しだけ口角を上げた。
「ただ……俺はまだ諦めたくないんだ……だって、諦めきれないだろ、全然。だから、もう少し頑張ってみようと思ってる。バイトでもなんでもしながらさ。親父には悪いけど甘えまくって、脛かじりまくって、……しばらくは続けていこうと思う」
「そう……」
翠は自分の声が無意識のうちに落胆の音を立てているのに気付いた。一体、彼の答えに何を期待していたんだろう、と自身に対してげんなりする。
「でも、あなたはそれでよくっても、お父さんはどうなの? 息子がニートなんかになったら、丈さん、ショックなんじゃない?」
柳木丈――日本人ならほとんどが存在を認知している有名人。活動30年を越える業界では押しも押されぬ大御所ロックバンドのベーシストが彼の父だ――つい、うっかりその人の名前を持ち出してから、彼女はすぐにそのことを後悔した。個人の問題を話しているのに、第三者――特に親云々を持ち出すのはタブーに思えたのだ。
しかし翔太のほうはあまり気にした様子もなく、右の眉を上げた皮肉っぽい表情を作ると人差し指を翠に指し向けてくる。
「ニートじゃねーだろ。フリーターだ」
「そんなもの、響きが違うだけで同じようなものでしょ」
「ひでぇな。お前、世間の就職難民様に誤ったほうがいいぞ」
「うるさいわね。話を変に混ぜっかえさないでよ」
翠は唇をツンとさせて言い放つ。その彼女の態度に苦笑していた翔太が、ふと何かを思い出したように今度は違った苦笑をした。
「親父は、さ……多分、何も言わないよ。だって、息子の三歳の誕生日プレゼントに新品のフェンダーを買ってきちまうような『ベース馬鹿』だからな。それより、俺が諦めることのほうがきっとショックだと思う」
「…………そう……かもね」
翠は父の仕事の関係で柳木丈氏とも面識があった。その人となりを知っているだけに、彼女は自然と頷ける。
翔太はそのまましばらくひとり笑いの余韻に浸っていたが、やがて顔からゆっくりと笑みが消えていった。そして今度は一転、静かな目を向けてくる。
ひどく真剣な表情で真っ直ぐ翠のことを見詰めてくる。
「お前こそ、いいのかよ。このまま……本当に終わっても。お前の歌、絶対いいって。前に地元のラジオ局で流してもらえたのだって、お前の歌がハンパないって目を付けられたんじゃないか」
「あんなの、たまたまよ……」
自嘲気味に答える。
翔太が間髪いれず言い返そうとしたのを妨げるように、翠は少し強くしたトーンで言葉を続けた。
「だって、私のことをベタ褒めしたMCのオバサン、覚えてる? あのUFOみたいな髪型。あんな絶望的なセンスの人に認められても、どうなのって思わない?」
一瞬、思考の止まった顔。
「…………ぷっ」
そして、ふっと。翔太の目尻を固くしていた緊張が緩んだのがわかった。
「言うねえー。ま、確かにあの頭は地球人の俺には理解しがたいな」
「でょ。クスクスッ」
翔太は胸の前で腕を組み、くっくっと低い声を上げた。翠もそれにつられて肩を揺らす。そうしてしばらくの間、二人はそれまでしていた会話のことも忘れて笑いを共有した。
やがて、互いの笑い声が耳に届かないくらいに細くなり掻き消えると、室内は一層密度の濃い沈黙に落ちた。真剣な会話を笑いに置き換えた代償はあって、翠はどうやって会話のベクトルを修正したらよいかわからずに困惑してしまう。そして、それは翔太もまた同じようだった。
きっと、今なら切れてしまった会話の流れを利用して、そのまま話題をすり替えることも有耶無耶にしてしまうことも出来ただろう。ただ、翠はそうすることが自分の本意ではないと感じていた。
翔太には全部をさらさせておいて、自分は隠したまま。
彼女の性格はそれを善しとはしない。
「私……決めたの」
「えっ?!」
「もう、やめるって……音楽はやらないって、決めたの。あのときのラジオのオンエアーはただ偶然が重なっただけよ。そのあとにあった雑誌の取材とか、メジャーの話とかは……きっと話題性でしょ。有名アーティストの二世ベーシストと音楽業界最大手の社長令嬢、なんてみんなが食いつきそうなネタだもんね。……まぁ、デビューの話がきたときは正直ちょっと浮かれちゃったけれど、それも冷静になって考えてみれば政治的なことだろうし。『AKI』の娘を引き抜いたなんていったら、パパの顔、潰せるでしょうし」
ふぅ、と翔太がため息をついて肩をすくめた。
「ネガティブに考えすぎなんだよ、お前は。もっと、自分の才能に自信を…………」
「やめてっ!! そんなの……」
翠の荒らげた声に彼は目を丸くした。
「……自分に才能がないことくらい、自分自身が一番わかっているんだから」




