Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫16
「言わせておけばっ! 一体、あんた、何様のつもりよ!!」
瑠璃が再び哮る。
翠と、さらにトオルも押しのけて美純の髪に掴みかかろうとする彼女を、トオルは必死で押し留めるべく腕を伸ばす。が、彼のその腕を押しのけ、強引に掴みかかっていったのはなんと美純の方だった。
驚いたが、すぐにトオルは美純を瑠璃から引きはがしにかかる。
「やめろ、美純っ! お前も、なにやって……」
片腕は美純の体を押しのけ、もう一方の手は瑠璃が振り下ろす右手首を受け止め、抑え付ける。女性の腕力くらいならどうにかなりそうなものだが、感情をむき出しにする二人の動きを止めるのは容易ではない。
「トオル、そこどいてッ」
「ダメだ」
「どうしてよッ。真由子さんのこと、あんなふうに言われて、トオルは許せるの?!」
「いいから、ともかく落ち着けって!!」
トオルは口調を強くしてたしなめる。
「ちょっと! 自分のことを棚に上げてよくそんなこと言えるわね。結局はあんたがうまいことやって、全部かすめ取っていったんじゃないの。トンビみたいにさッ!」
瑠璃が自分の右腕を掴むトオルの指をなんとか引き剥がそうと抵抗しながら叫ぶ。
美純の肩が小刻みに震えた。
「違う! 全然、違うもんっ。私……私は……」
「なんにも違わないわよ! 第一、あんた、真由子のことなんてこれっぽちも知らないのよね? それに、あの子が死んだときのこいつの苦しむ姿だって、あんたは一度も見たことないんでしょ? なのに、まるで知ったふうな口をきいて……その態度がムカツクのよ!!」
「…………私には……く、うぅぅっ……で、でも、そういう瑠璃さんだって……」
それほど大きくない店内にヒステリックな声と声とが響き合う。瑠璃と美純は互いに引こうとはせず、口論はさらに激しさを増していった。
仲裁すべきなのだろう。が、彼女達の繰り広げる舌戦は次第に低次元化していき、なだめるどころか聞くのも耐えない。いつの間にか論点は大きくずれているし、しゃべる内容はもう揚げ足取りと大差ない。真剣に相手をするのも馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
それに、だ。
少しずつ自分の中で決着をつける努力はしていても、トオルにとって真由子のことはいまだに尾を引くナイーブな問題なのだ。
簡単には触れてほしくない痕。なのに、事情を知っているはずの二人が無神経にも傷痕に爪をたてるようなことをするのは如何なものか。こいつら、優しくないよな、と無意識に呟いたそのあとにトオルの口元には苦笑ができてしまう。
ふぅー、と深くため息に似た一息を吐いた。
仲裁はしない。ただ、このままにもするわけにいかない。身内だけならともかく、店内にはまだ別の客が居るのだ。店主としてこの状況を野放しにするわけにもいかない。
奥歯にぐっと力を入れて噛み締める。
「このくそガキッ、エロガキ! …………え、えっ?! ちょ、ちょっと……い、痛っ!」
トオルは片方の手に目一杯力を込め、美純に向かって大声で罵声を浴びせていた瑠璃の手首をぎゅうぎゅう握りしめると、さらにそのまま腕一本で瑠璃を吊り上げるようにした。女性にしては背の高いほうの瑠璃だが、それでもトオルとは10cm以上身長差があるから、無理矢理力で引っ張り上げるようなことをしなくとも簡単に彼女をつま先立ちにさせてしまう。
瑠璃が身を捩り、目蓋をきつく閉じた。彼女の細い手首からさっきまでの抵抗力が失われた。
強引な方法で瑠璃を沈静化したトオルは、今度は反対の手の親指と人差し指を伸ばすと興奮気味な美純の鼻先をキュッとつまみ上げた。
「いっっっっつ?! ひ、たたたたたたたーっ!」
トオルの顔を覗き込んだ美純の目が驚きと痛みとで丸くなっている。
「……はの、ほ、ほふ? ……ひたいほ、ほれ。ふごく……ひたいんで、ふけど?」
「じゃあ、おとなしくするか?」
つままれていることをすっかり忘れていたのか、美純は首を縦に一回振ろうとしてその拍子に「ひぐぅ」と変な声を出した。ぎゅううっと眉をしかめたのは、多分、引っ張られた鼻がかなり痛かったのだろう。
「…………は、はひ。しまふ」
首肯は諦め、フガフガと答える。
「よし」
パッと手を離し、開放してやると、美純は両手で鼻を強く押さえた。俯いて小声を漏らした彼女は、そのまましばらく苦悶に悶えていた。
ちょっと荒っぽいやり方にはなったがともかく二人を黙らせると、トオルはまず最初に窓際の席で固まっている老夫婦に頭を下げた。
「すいません。バカ共がお騒がせしまして」
すると、しばらく呆然としていた婦人のほうがトオルの言葉に気付いて小首を傾げた。
「あら……私は別に。主人のほうはちょっと驚いてるみたいでしたけれど? ふふふっ」
「いや、いや。お言葉はありがたいんですが、これはちょっと問題ですから……自分が店を空けてしまったのが無責任でした。すいません」
「堅いのよ、シェフは。大丈夫、本当に気にしてないわ。それに……」
急に夫人はいたずらっぽく微笑んだ。
「私、こういうの結構好きなのよ。クスクス……大変だろうけれど頑張りなさい、シェフ」
「えっ?」
最後のひと言を怪訝に思いトオルが聞き返すと、夫人はなんでもないと言わんばかりに首を振り、それから「ちょっと、失礼」と言い残し化粧室へ立ってしまった。釈然としないままのトオルは、テーブルに残った旦那から身振りで会計を頼まれて伝票を手にテーブルに向かう。一万円札を二枚手渡してくる旦那の視線が妙に同情っぽいのが気になったが、理由を問いただすわけにもいかず「ありがとうございました」の一言以外を呑み込んで引き下がった。
しばらくして夫人が戻ってくると、老夫婦は席を立った。トオルは一連の詫びかね、二人をいつも以上に丁寧に見送った。老夫婦のみせた笑顔と「また、伺うわね」の一言は建前に思えなかったから、多分言葉通り気にはしていないのだろう。
が。
トオルは二人の背中が見えなくなるまで見送ると、ゆっくりカウンターを振り向いた。
「あのな……」
まずは瑠璃を睨みつける。しかし、彼女は目を逸らし、憮然とした顔をしている。
「瑠璃」
「……なによ?」
「お前なぁ……」
低くて太い声を出す。
「相手はまだ子供なんだぞ? それを、自分まで子供みたいになってやりあって……馬鹿か、お前は。ちゃんと反省しろよ」
眉間に深く皺を寄せたのが見えたが、彼女はあえてトオルのほうを向こうとはしない。その横顔をトオルは穴が空くほど強く睨みつける。
「うるさいわね。いいでしょ、別に」
「よくない。うちのお客に迷惑をかけるな」
「あの人、気にしてないって言ってたじゃない!」
「そういう問題じゃないだろ!!」
今度は語気荒く言い放つ。
「…………ッ、帰る」
すると、瑠璃は突然スッと立ち上がった。
まるで子供がふてくされたときと変わらない態度をとる彼女に、さすがのトオルもムッとしてしまう。
「話の途中だってのに、お前ってやつは本当に礼儀を知らない奴だな? そんなんだから……」
言いかけたトオルの言葉を遮るかのように、
「帰るって、言ってるでしょッ!!」
ダンッ、とバッグをカウンターの上に叩きつけ、瑠璃は声を張り上げた。
「……これ以上、あんたの言葉なんか聞きたくもないわ。もう、帰るから。さよなら。バイバイ。ダスヴィダーニャ。アディオス」
「ちょっ?! おま……」
バッグから取り出した財布の中から紙幣を一枚抜き取ると、瑠璃はそれをトオルの胸に激しく叩きつけ、「ふんっ」と鼻を鳴らして踵を返した。壁際に置いてあったスーツケースを取ると、荒っぽく取っ手を引き伸ばし、出かける気のない犬を無理矢理散歩に連れていくみたいに強引に引っ張り回す。扉までの十数歩をガツ、ガツ、とヒールの音を高鳴らせて歩く。
バンッ、と音を立てて扉を開いた瑠璃が一度だけ振り返ったような気がしたが、それを確かめる間もなくまた扉はさっきよりも少し大きな音を立てて閉まってしまった。ガッ、ガッ、と離れていく足音がしばらく続いたが、それもすぐに街の喧騒の中に消えてしまう。
「……ったく、あの馬鹿が」
トオルは呟き、頭を掻くと、ついさっき瑠璃から突き付けられた紙幣をレジの脇のキャッシュトレーの上に置いた。瑠璃はそこそこ飲んではいたが、それでも渡された金額は一人分の飲み代にしては多過ぎる。残りは迷惑料だとでもいいたいのかと、考えてみてからトオルはすぐにそれを否定した。我の強い瑠璃が非礼を詫びるなんてところをトオルはこれまで一度もみたことがない。
深呼吸をひとつ。
気持ちを入れ替えてから振り返る。
もう一人にも、ちゃんと言っておかなければならないと思っていたからだ。
「美純」
呼ぶと美純は伏せていた顔を上げて、トオルの瞳をじっと覗き込んできた。
「俺はお前のことを信用していたんだ。なのに、あいつと一緒になってやりあって。おまけに真由子のことまで持ち出して。……そのことは別にするとしても、俺は正直怒ってる。お前はもうちょっとちゃんとした……」
「ちゃんとしたって、何に対して?」
美純の声は凛として響いた。
「…………『何に』って、どういうことだ?」
意味がわからず、彼女の問いに質問で返す。しかし、美純は固く結んだ唇も真剣な眼差しもそのままに無言だ。答える気がないのだと判断して、トオルは話を戻そうとした。
「俺に会いに店に来るのは構わないよ。ここで飯を食うのも構わない。でも、お前と俺の仲が今の関係に変わっても、俺はこの場所にいる間はどうしたって『カーサ・エムの廣瀬トオル』なんだ。それくらい、お前でもわかるだろう?」
「…………」
「お前と瑠璃のあいだで何があったかは知らない。でも、何があったってここであんな真似をするのはもう止めてくれ。他の客に迷惑だし、俺だって迷惑だ。お前にはまだわからないのかもしれないけれど、大人には大人の……俺には俺の事情ってものがあるんだよ。な?」
トオルはできるだけ穏やかに言えるように努力した。うまくやれたかは定かではないが、それでもただ上から押し付けるみたいに嗜めるのはどうかと思っていた。
今回の件の原因はおそらく瑠璃のほうにある、とトオルは踏んでいた。反省を促すような言い方をしたのはあくまで両成敗の体裁をとったほうが美純にとっても効果的だと判断したからだ。だから、トオルはこれ以上この件で美純に何かを言うつもりはなかった。
多分、美純なら自分で考え、ちゃんと理解してくれると思っていた。
だからトオルはカウンターのへりに腰掛けるとじっと待つことにした。彼の言葉が美純の中に浸透して彼女のための言葉に翻訳されていくのを、じっと。
翠も含めた三人のあいだをしばらく静寂が包んだ。誰も一言も喋らず、動こうともしない。奇妙な時間がゆっくりと流れていく。店内のBGMに回っていたCDはとっくに終わり、カチ、カチと時計の針が一秒を刻む音だけがやけにくっきりと響く。
その音をゆうに三百は聞いただろうか。
口を開いたのは美純だ。
「トオル……私…………」
しかし、彼女の口から出た言葉はトオルの想像していたものとはちょっと違っていた。
「間違ってないよ。私……やっぱり自分が間違ってるとは思わない」
ストゥールに座っていた美純は顔を上げ、トオルは彼女のその顔を上から見下ろした。
目が合って感じたのは、美純の強い意志だった。
ただ、それは我を通そうとするような強情さではなく、決意や覚悟に似た訴えるような固い思いの塊のように感じた。
「トオル……私、今日は帰る」
そういうと美純はゆっくりと立ち上がった。
「……美純?」
「ごめんね、迷惑かけちゃって。でも、私は自分の行動を反省したり間違ってたって言っちゃいけないんだと思うんだ……絶対に。だから、今夜は帰るね。このままここにいても、多分、私、トオルとぶつかっちゃうだけだと思うから」
一度膝を折るとカウンターの下から鞄を取り、そして再び立ち上がった美純は笑顔をみせた。
「ごめんね、トオル」
もう一度。そして――
「バイバイ」
瑠璃と同じ言葉を残し、美純は手を振って帰っていった。
美純のことを送ると言って出ていった翠の背中が視界から消えるまで見送ったあと、トオルはカウンターのさっきまで美純が座っていたストゥールに腰を落とした。
深くて重い息を吐き出す。何度も繰り返す。
体の中にあった空気はそれですっかり全部入れ替わったはずなのに、胸の中はすっきりしない。
美純と瑠璃のこと。
翠と美純のこと。
わからないことばかりの夜だ。
トオルはついさっき瑠璃のためにと買ってきたギネスの小瓶の蓋を開け、あおった。大麦を焦がした特有の味わいが口の中いっぱいに広がる。いつもだったら心地良い苦味がやけに鋭く感じる。半分くらい飲んだボトルを白熱灯の明かりに照らし透かしてみると、ボトルの上半分には琥珀色のフィルターを通した『カーサ・エム』の天井が見える。
そして下半分は濃く深い、闇。
当然だが、見えていないだけでその向こうには同じように天井が映っているはずなのだ。ただ、今、なぜかそんなことすら疑わしく思えてしまって、トオルは自分の不甲斐ない思考を振り払うように残りの液体を一気に喉へと流し込む。
後味は舌に苦く、胸にもまたほろ苦く。帰り際に翠が残していった最後の一言が、トオルの中で簡単にはとれない『シミ』のようになって苦味と共に舌と胸のどこかにいつまでも居座っているような気がした。
「――見えてないとか、知らないとか、そういうのって本当は許されない『悪』なんじゃないかって思います。……私、初めて会った時からそんな気がしてた。あなた、悪い人だわ……」
そんなふうに言い切られるのは多分、初めての経験だ。
胸の中はすっきりせず、口にはまだ苦味が尾を引く。
確かめるべく透かし見た空瓶の向こうにはちゃんと琥珀色の天井があるのに、頭の中はダークブラウンの濃霧が立ち込めて、いつまでもたっても晴れてはくれなかった。