Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫15
約束通り瑠璃には赤ワインを開け、美純にはいれたてのコーヒーを用意した。だが、翠には気を遣わせてしまったようで、彼女は次の一杯をやんわりと拒んできた。
「もう、だいぶ飲んでるし、今日はこれで十分ですから。お気遣いなく」
初めはトオルもそれを言葉の通りに受け取っていた。確かに彼女は今夜一度酩酊していたし、時刻をみればPM9:00を回ったところだ。おそらく都内からここまで来ているだろう翠にとっては、そろそろ帰宅を考える頃だろうと思っていたからだ。
しかし、翠はそれからもしばらく美純と話し続けた。ケースから取り出したノートパソコンを開き、身振りを加えた真剣な表情で説得を試みる彼女。その様子は少し離れた場所で作業を再開していたトオルからもわかるくらい切迫した感があった。
無論、トオルとて美純に面倒を持ち込む相手を良くは思わない。
ただ、安芸翠というひとりの女性のことを悪く思うのも、実はかなり難しくなっていた。
初対面での高慢な態度も、その後の人を見下したような言動も、決して気分のいいものではなかった。それでも、今、彼女のことをみる目に変化が生まれているのは看過できない事実だ。どういう目的で美純に近付いたのかその意図はいまだ分からず仕舞いでも、彼女の行動の本源になっている思いは純粋なモノのであると感じたからだ。
そして、つい先程のやり取り。
彼女のありのままの言葉を聞くことができた気がして、トオルはそれまで翠に対して抱いていた壁や距離のようなものが次第に消えつつあるのを感じていた。
きっと、素顔の彼女は自分が思っているほど冷たい人間ではないのだろう。それに悪意のない欺瞞はジョークとして受けとめられるくらいに成熟した女なはずだ。なんとなくだが、自然とそう思えてるようになっていた。
だからか。
抑えめの声で淡々と喋っていた翠が不意に眉を寄せ、何度か咳払いをしたのに気付いても、トオルはいつもするように気遣うことができなかった。それより先にちくりと痛みを感じてしまった。小さな罪悪感の刺だ。嘘ではないが真実でもない言葉で翠を言いくるめようとしたことに。
その時、急にがたたっと椅子をひく音が耳に入り、トオルは意識を頭の中から店内に向け変えた。
見ると美純達のほかに残っていた二組のうちの片方、20代くらいのカップルが帰り支度を整えて立ち上がっていた。
トオルは作業の手を止め、手元に置いていたタオルで手を拭い、会計をするべくレジへと向かう。カウンターを一度出て、壁際に設置した100本はストックできるワインセラーの隣りのレジで会計をし、出口で二人を見送る。それからチラリと目を動かし、残るもう一組の老夫婦の様子を窺った。夫婦は二週に一度は必ず顔を出してくれる常連客で、夫人が「これが飲みたいから来る」と言ってはばからない『グラッパ』と呼ばれる葡萄を原料にした蒸溜酒に舌鼓をうっている最中だ。対照的に旦那のほうは酒がめっぽう弱く、代わりに甘いものには目がないので、コーヒーと共にドルチェの盛り合わせを楽しんでいる。まだしばらくは帰る気配はない。
壁掛けの時計で時刻を確認した。PM9時12分。近くのスーパーマーケットの食品売り場は9時半まで営業しているから、今出れば十分に間に合う。
ちくちくと、まだ煩わしい痛みは消えてくれない。
なら、今というタイミングはそのために用意されたきっかけに違いない、と思えてしまう。そう、自分に言い聞かせたくなる。
お人好しなのか、小心者なのか――だとしても、気になってしまったらもう見なかったフリなどできる性分ではないから。
「……悪い。ちょっと出てきてもいいか?」
カウンターに座る三人の誰にともなく言葉を掛けて、トオルは腰に巻いていた黒のサロンの紐を解いた。
「なに? どうしたの?」
最初に反応したのは瑠璃だ。
「買い物してきたいんだ。しばらく留守番、頼めるか」
「いいけど……それなら、あたしが代わりに行ってこようか?」
彼女は気を使って言ってくれてるのだろう。
しかし、トオルは首を横に振った。
「いや、いいよ。せっかく客として来てくれてるお前を使いっぱしりみたいにするのは気が引ける」
「よく言うわ。なら、もっとちゃんとお客様待遇を希望するわよ」
「ほっほぉー。そっちこそ、よく言うぜ。勝手気ままにやりたい放題、客らしい振る舞いなんて一体いつしたんだよ?」
互いににやにやと笑いながら一度ずつ口撃を交わす。だが、あんまりにお決まりすぎると笑いは持続しない。それは瑠璃も同様で、彼女はすぐに興ざめすると右手をヒラヒラと振ってきた。
「好きにすればー。そのかわり、帰ってきたときには店じゅうの酒が空いてるかもよ?」
「その時はお前の会社に全額請求するよ」
「へー、へー、ご勝手に」
瑠璃の興味はもう手元の酒に移ってしまったようで、彼女は慣れた手つきでグラスをくるくるっと回した。中で赤ワインが緩やかに渦を巻く。
彼女にはそれでよしとして、トオルは美純と翠にも目で承諾を求めた。
翠はすんなりと頷き、美純もニコッと笑みを作ってくれた。
「でも、さ。トオル、何を買いにいくの?」
「えっ……? あー、それは、ええっと、だな……」
「ん? なに?」
美純にしてみれば単純に気になることを口にしただけだろう。無垢な瞳が真っ直ぐにトオルへ向けられている。しかし、ここでそれを言ってしまうのはちょっとカッコ悪すぎてつらかった。トオルは思わず言葉を濁した。
「…………はっはぁーん。あんた、ねぇ?」
だが、そういう時だけは妙に勘のいい瑠璃が、再び首を突っ込んでくる。
「ちょぉっと若くて可愛い子だと、すーぐにいい顔しようとして。はぁあ……ヤダヤダ。まったく、あたしみたいなオバサンにはー、優しさの欠片もくれないくせにーぃ? ……あのねぇ、みんな、先に言っときますけれどね、こういう男に引っかかるとあとですぅぅっごく、すぅぅぅぅぅっごく、苦労しますからねっ」
その言葉で大体を察したらしい翠が苦笑いしながら小声で「ありがとうございます」と言い、ちっとも状況を理解できなかった美純は、自分だけが取り残されているのはわかったらしく不服そうな顔で唇を尖らせていた。
トオルはわざときこえよがしに舌打ちをすると、半分は故意、半分は本音で憮然とした顔を造った。しかし、瑠璃はもうすでに自分は無関係な顔でまた手元のグラスをくるくると回し出している。くるくる、ぐるぐる、と今度はなんだかやたらと回転数を増やし、これ以上はグラスの口から液体が飛び出してしまいそうな勢いで、だ。
トオルはまた言い返せば何を言われるかわからないし、彼女の行動に余計なツッコミを入れるのもドツボにはまる気がしてやむやむ口を噤んだ。そして、新たな客が来店しても閉店であることを伝えるように言い含めてから出かけようと扉に手を掛けた。
そして、あっ、と気が付いた。
足早に店内に戻り、レジに向かう。
店に残る面子は決して信用できない人間達ではないが、だとしても店側があまりユルいのも問題だ。登録状態のままだったキーボード式のレジをキーの切り替えて休止状態に設定し、それからキー自体も引き抜く。
ポケットにしまい込み、さぁ出かけようとして、彼はまた立ち止まって黙考した。
自分の危機管理の甘さはここにも出ていて、リングでマスターもスペアキーも一括りになったままの状態。いまさら別々にわけて保管場所を決めるのも億劫だったし、だからといってこのままを外に持ち出したときに万が一紛失すればそれも面倒だ。トオルは顎に手を当てしばし頭を捻る。
ただ、こうしている間にも時間は過ぎていき、9時半まであと数分に迫っていた。
焦りつつ思い付いたのは、結局大した手段ではなかった。
「悪い。ちょっとこれ、預かっててくれないか?」
自分でやっていてなんとも間抜けな方法だとは思ったが、今回は致し方ないとした。明日にはきっちり対策を練るとして、たった今は一刻をあらそうのだ。
瑠璃がまず振り返って苦笑した。
「あんたって、いっつもどこか抜けてるわよね。そういうところ、ちゃんと自覚したほうがいいわよ?」
そう言いながら彼女は右手を突き出してきた。
「ホラッ、預かったげるからよこしなさい」
上から目線の物言いにカチンときて、ちょっと素直に預けづらい気になったのも確かにあったと思う。ただ、気持ちとしてはこちらの方が正しいはずだ。
「いいよ。さっきも言ったけど、お前は今日、客として来てくれてるんだから。その辺の線引きはちゃんとしないとな」
トオルは出しかけた手を引っ込めて拒否した。
「なによ。あたしとあんたの仲でいまさらそんな遠慮もないでしょう?」
「だから、だろ。曖昧にしてズルズルになるのは嫌だ」
「馬鹿みたい。……じゃあ、それ、どうするっていうのよ?」
肩をすくめてため息をついた瑠璃が、面白くなさそうな顔で訊ねた。
ただ、トオルとしてはもとより彼女に預けるつもりでいたのだ。
「美純、頼んでいいか?」
「えっ? ああ……うん、いいよ」
美純は肩越しに首だけ振り返って頷くと、すっくと椅子から立ち上がり歩み寄ってくれた。トオルは彼女にキーを手渡すと、踵を返して扉を押し開ける。
「奥のお客さんが帰りそうになったら、『5分10分で戻る』って伝えてくれるか? 多分、大丈夫だとは思うけれど」
「うん、わかった」
奥の老夫婦に余計な気を使わせないよう美純に耳打ちすると、彼女も小さく答えて頷いた。
「頼むな」
そう言い残し、トオルは『カーサ・エム』をあとにすると小走りでスーパーマーケットを目指した。ここまでしておいてタイムアップで買えずじまいは絶対に避けたかった。
20m置きくらいに街灯の灯りが照らす以外明かりのほとんどない歩道をてってっと歩く。
この街の目抜き通りは数軒ある飲食店を除けば隣接するどの店舗もPM7時を堺に一気に明かりを落としてしまう。昼間に比べ夜間の人通りがめっきり少ないため商業的に成立しないから、というのが理由なのだが、だからさっさと閉めてしまう店があとを絶たなければ、結果的に人々の足も遠のくばかりだ。『鶏が先か、卵が先か』ではないが、ただ、そのおかげでトオルはストレス無く店までたどり着くことができた。
9時26分。
自分の頑張りを褒めてやりたい気持ちはひとまず置いておいて、目的の品を探す。
野菜と果物のコーナーで一番の目的だったライムを三つ握り締め、乳製品のコーナーで瑠璃に開けた赤ワインに合いそうなチーズをひとつ選ぶ。そのままレジに向いかけた足を、はたと思い出してトオルは止めた。酒類コーナーでギネスの小瓶を二本。罪滅ぼしとは思わないが、しばらく日本を離れる予定の瑠璃に未練を残させるのも後味が悪い気がしたからだ。
会計をしている間に店内に流れる蛍の光のテーマが終わってしまい、警備員らしき老齢の視線を気まずい思いをしながら浴び、逃げ出すように店をあとにした。
帰り道もやや小走りで。おそらく『カーサ・エム』の中はトオルが出てきた時とさほど変わらない様子で時間が過ぎているのだろうが、カウンターの女子三人はともかく、もうひと組の老夫婦を放置するのは気が引ける。
多分、来るときよりも帰りのペースは早かったはずだ。
視界に『カーサ・エム』の窓から漏れる暖色の灯りが入る。それが一歩ずつ近づくにつれ、カウンターで姦しくしているだろう女達の声が耳に届いてくる気がした。想像するに、瑠璃がまたトオルのことを餌にあれこれと話題を提供しているような予感がする。そうして、ノコノコと帰ってきた彼を三人で笑う構図だ。が、そうはいかない。ちゃんと仕返しも考えておかないと。
そして、そんなあれこれを考えているうちにトオルはもう店前までたどり着いていた。
営業時間中に自分のいない『カーサ・エム』を外から見るのは初めてで、窓から覗き込むと白熱灯の柔らかい明かりの中でまず無人のキッチンが目に入った。
次いでガラスのすぐ向こう、窓に面したテーブルには老夫婦の顔が見える。
二人は互いに会話をするでもなく、好物もすでに堪能し尽くしたのか、顔は手元ではなく店内の一点に向いていた。
待たせてしまっただろうか――そう思いつつ、トオルも何気なく二人の視線の先を追いかける。
カウンターだった。もしかすると、トオルのいないのをいいことに女共三人がけたたましくしているのかもしれない、と思った。他に誰もいないならまだしも、他人様のくつろぎの時間を妨げているようならキツく言ってやらないと。
だが、あの中で一番常識不足であろう瑠璃でも多分そこまではしないはずだ、と思い直す。
邪推深い自分に苦笑する。
が――
その笑みは次の瞬間、あっという間に消え失せてしまう。
視線の先に映ったのは、カウンター前で立ちつくす瑠璃が、かかげていた右手を勢いよく振り下ろす姿だった。
思わず、自分の目を疑う。
しかし、ガラス一枚隔てたはずの向こうから音が聞こえた気がしたのだ。鋭く、乾いた音。錯覚かもしれない。なのに妙にはっきりと聞こえたような気がした。そして、それはいつまでも彼の鼓膜に張り付いてとれない。
吸い込んだ息を吐き出すのも忘れ、無意識のうちに扉までの数歩を駆け、押し開けた。
考えるより先に喉が叫んだ。
「瑠璃っ、お前ッ!」
しかし、そのトオルの言葉より先に翠が行動を起こしていた。
「泉さん、やめて!」
ストゥールから勢いよく立ち上がり正面から瑠璃を取り押さえようとする翠に、だが瑠璃は激しく腕をふるって抵抗する。
「どいてよ! 邪魔ッ! ……ちょっと、あんた、どけって。そこをどきなさいっ!!」
「落ち着いて下さい、泉さん。ダメっ……です、から……ちょっとぉ……」
「うるさい! こいつが……この女が……くそっ、ガキのくせに……。いいから、そこ、どきなさいって!」
訳がわからない。なんでこの二人が争っているのか。
しばし逡巡してしまう。
が、ともかく二人を引き剥がそうと足を進めたときに、トオルは急に思い出した。
そこにある人影に目がいく。
もみくちゃになっている瑠璃と翠の横でカウンターにうずくまったままの、彼女。
左の頬をじっと抑えたまま――
その瞬間、窓越しに彼の目に入っていた映像が頭の中に甦った。
頬を打たれる瞬間まで、鮮明に。
細い指の間からのぞく赤みをおびた頬を目の当たりにした途端、急速に頭の芯が冷たくなっていく。そして、眉間の辺りから新たに生まれた赤く激しい熱が理性と思考とを焼いた。
「おいっ、瑠璃!!」
カウンターに向かってズカズカと歩み寄っていく。
なぜそんなことをしたのか、彼女に問いたださなければならない。
しかし、だ。
「ふっ……ふざけんなぁ! ……あっ……あざといんだよッ!! なにやったんだか知らないけれど、狡い真似しやがってぇ!!!」
彼女が発した、これまで一度も聞いたことのないくらい大きな怒声にトオルは目を見張った。圧されて、今し方まであった激しい感情が旋風に巻かれたように四散していってしまう。
瑠璃はもう一度右手を振り上げる。
止めようとする翠をお構いなしに、美純に向けて強引に平手を繰り出そうとする。
店の奥で老夫人がうわずった声を上げた。
それでトオルはハッとなった。瑠璃と美純の間に素早く割って入った。
「瑠璃っ、お前、……やめろっ!」
叫んだ。
一瞬、彼女の目が大きく見開かれた。正しくトオルを認識すると、今度は鋭く睨まえてくる。紅く、激しく、焦がし焼き付けるような炎の色がその瞳の奥で燃え盛っているように見る。
怒りの色だと思った。それも想像絶するくらい濃く、激しい。
トオルは再び、叫ぶ。
「瑠璃っ!!」
彼女は左右に一回、多くかぶりを振った。
「あんたもっ……あんたもどうかしてんのよ! ばっかじゃない、こんな小娘に。一体、何考えてんの?! これじゃ……こんなんじゃ、死んだ真由子だってうかばれないわよ!!」
「……なっ?!」
「あの子のために……真由子のために、ずっと他人のことを拒んできたんじゃないの? 優しさに触れるのが辛いって、あんた、言ってたじゃない? なのに、コレ? あっさり手のひら返しちゃうわけ? ……なによ、それ。あんた最低じゃない! そんなんじゃ、きっとあの子……あの世で泣いてるわよ!!」
瑠璃が叫んだ。
そして――
その声を一瞬でかき消してしまう渇いた音。店内にパンっ、と響く。
息が止まる。
眼球が、自分を押しのけていった圧力を反射的に追いかける。
「……ひどいよ」
先刻はたかれ、痛々しい色に染まった左頬がトオルの目に映る。ただ、それ以上に悲しみと怒りの感情が混ざり合った彼女の複雑な表情はもっと痛々しく見えた。
「最低は…………最低なのはどっちよ!」
抑えきれない思いが無理矢理喉を押し開けて出たかのごとく、かすれてしまった声。
「トオルのこと、真由子さんのこと、決めつけて……縛り付けて……! 悪いのは全部瑠璃さんじゃないっ!! そうやって、自分勝手に思いを押し付けて……トオルのこと苦しめるのはやめてよぉ!!」
美純が瑠璃を睨みつけて言った。