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No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 6

「ぷっ。……あっ」

 今度はすぐにしまったと思った。

 しかしやってしまった失敗はもう取り返すことはできない。トオルはおそるおそる覗き込むように美純の顔を見たのだ。

「あー、ごめん。ホント、悪気はないんだ。でも、ごめん」

 彼女の目は大人には到底手にできないくらい澄んだ黒色だった。けれど今はきらきらと光の角度で乱反射して七色に見える。不自然に力の入った口元が一生懸命に嗚咽を噛み殺してた。

 ただ、それも長くは持たない。

 堪えきれなくなって顔じゅうがクシャっとなる。それまでギリギリの緊張感で溜め込んでいた水分が、とうとう太い糸のようになって彼女の頬を伝いこぼれ落ちた。

「キライッ! もう、大っキライッ!!」

 泣きじゃくるというのはこんな感じなんだ、と。

 そういうのは大人になってからはまず聞くことはないから、さすがにトオルも慌ててしまう。泣いたもん勝ちキレたもん勝ちとはよくいったもんで、これにはまったく手の施しようもない。


 ぐしっ、と。

 静まり返った『カーサ・エム』の店内に、小さく鼻を啜る音が響く。

 ようやく落ち着きを取り戻し始めた美純は、目尻を真っ赤に張らせて時々肩を小さく揺らす。たっぷり泣いたせいか長い髪は乱れて、表情もちょっと憔悴していた。

「ぐしっ」

「はい」

「あ……ありがと」

 美純はトオルに渡されたティッシュペーパーで鼻をかんだ。

 たっぷり10分近くは泣きわめいていただろうか。トオルはその間どうにもバツの悪い気持ちで、けれど一体何をしてやればいいのかも分からなかったので、俯き椅子に浅く腰掛ていた。

 美純は本当によく泣いた。わーん、わーん、とまるで小さい子供のように声を上げて泣いていた。外が雨でなかったら、きっと店の外にまで漏れただろうくらいの大声だった。

「ごめん。悪気はなかったんだけど……本当に、ごめん」

 トオルは素直に謝った。

 悪気はなくとも、さすがに悪い気はした。

 顔を上げた美純の目はトオルの方を向いていたが、その目はきっと彼のことを捉えていないだろう。彼女は表情を作る元気もなく、ただ唇だけはさっきのトオルの仕打ちを覚えてると言いたげに、ちょっと拗ねて突き出していた。

「俺が無神経だった」

 頭を下げるトオルの向かいで、美純が首を振るのがわかった。

「……もう、いいです。いっぱい泣いたから、おかげでちょっとスッキリしちゃいましたし」

 そう言ってから美純は、トオルが新しく用意したミルクのたっぷり入ったコーヒーに口を付ける。

 ミルクの甘みとコーヒーのほのかな苦味が調和した優しい味が、涙で失った栄養をちょうどぴったりに補ってくれたようだ。彼女の表情から、胸の奥までじわじわと染み渡っていくのがわかった。

 トオルも自分用に用意したブラックコーヒーに口を付ける。

 彼女のカフェ・オレ用に濃いめに入れたコーヒーは、ストレートで飲むにはちょっとビターな味わいだ。ただ、10代の女の子をどういう理由であれ泣かせてしまったのだから、これくらい苦いのが当然のような気がした。

 カップの中の液体を半分くらい飲んだ頃、美純は自分の髪がずいぶん乱れているのに気付いたらしく、手ぐしで何度も丁寧に整え始めた。長くてしっとりとした彼女の黒髪が一撫でごとに整っていく様は、毛並みのよい猫が毛繕いをしているようで思わず目を取られてしまう。

 そんなトオルの目に気付き、返してくる視線にはスプーン一杯分くらいの抗議がのっていた。

 それでトオルもようやくちょっと笑顔になれた。

 彼女の目はまだ真っ赤に腫れたままだったが、その表情にはもうしっかりと意志が戻っている。

 というよりも、何かの決意があるようにトオルは感じていた。

 だからトオルの戻した視線が美純のそれと絡んだ時、彼女の唇の両端に力が入るのがわかって、トオルは自然と耳を傾けたのだ。

 一度は躊躇って。それを振り払うようにさらに加わった力が、今度は彼女の唇を割った。

「あの――」

「うん?」

「今日は、……謝りに来ました。ご、ごめんなさいっ」

 決意が揺らぐ前に言葉にしようとしたらしく、一息でそれを言い切った。

 けれど最初トオルはその意味をうまく理解できなかった。

「あー、うん。……で、何を?」

「何って、だから、昨日のことです」

 美純はトオルの返した言葉にちょっとだけ不満そうな顔をしてから、さらに続けた。

「昨日の夜は本当にご迷惑をおかけしました。だから、ごめんなさい」

 頭を真っ直ぐに下げる美純の姿は真摯だ。だが、トオルは眉を傾けて顎をかく。

「うーん。別に、迷惑だとは思ってないけれど。まぁ、いいや……はい。わかりました」

「えっ……。怒ら……ないんですか?」

 ふと目元が戸惑った。

「あー、別に。何で? して欲しいの?」

 今度は怪訝な顔をする、美純。

「だって、私、あなたの自転車の前に飛び出して……それであなたはそんなに怪我をしたんじゃないですかっ! だから……それで怒ってるんじゃないかって」

 彼女の目がちらっとトオルの頬を見たのにトオルは気付いた。

「ん、コレ? ……くくくっ、今朝、オーナーに大笑いされたよ。『ハクを付ける歳でもないだろう?』ってね。まったく、人をジジイ扱いさ」

 思い出して苦笑いだ。そして今朝、哲平が座っていたカウンター席を睨み付けてやる。

「どう、似合ってる?」

「そ、そんな……こと」

「ごめん、ちょっと意地悪だったね。大丈夫、本当に気にしてないから」

 トオルが優しく微笑んでみせても、美純はどんな顔を返したらいいかわからないといった様子で、長くて形の良いまつ毛が全部下を向いたみたいな困り顔をしてしまう。

 それっきり美純は黙り込んでしまった。 

 時折、トオルがすするコーヒーの音が店の中によく響くほどに、沈黙。

 壁に掛かる時計を見ると、時刻はもうすぐ16:00を回る。

 さて、そろそろ夜の準備を始めようか、とトオルは立ち上がりかけた時だ。

 急に美純が動き出すとゴソゴソと鞄の中をあさり、そこから一枚の紙を取り出してきた。そして彼女はテーブルにそれを置くと、さもトオルにも見ろと言わんばかりにじっと顔をのぞき込んでくるのだ。

 トオルはつい、つられて紙を見てしまった。

 A4サイズの紙には、真ん中に大きく枠でスペースがとってあって、そこに何かを書き込むもののようだった。枠の上下に小さな字で説明書きがしてあった。そして一番上には、見出しのようにちょっと大きなフォントでこう書かれていたのだ。

「“進路希望調査書”。提出は早めに……」

 トオルはなぜ今これが登場したのかと、どうしても釈然としない顔になってしまう。

 しかし美純の顔は真剣で、それにずいぶんと思い詰めた表情をしているのだ。

 その理由がちっとも理解できず、トオルはなんとなくもう一度テーブルの上の紙に目を落とした。

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