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Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫14

 そう言った、美純の表情――

 カウンター越しに座る彼女が浮かべていた面持ちはなぜかとても真剣であり、ともすれば深く思いつめているようにも見えた。

 気になって美純の顔をのぞき込もうとしたが、なぜか彼女は逃れるかのように目を伏せ、それっきり言葉も続かない。胸裏に何かを押し込めているのは間違いないのだろうが、それを口にする訳にはいかない、といったところだろうか。

 トオルとしてもなんとなく声を掛けづらい雰囲気。拒絶と呼べるほどのものではないが、確かにある空気の膜のような境界を感じる。

 ふと、彼女が大きく一回肩を上下させ、ため息なのか深呼吸なのかわからない息をついたのがわかった。

 やけに乾いた、まるで感傷的な音の吐息だった。

 妙な感じだ。

 美純の思惑がつかめない。

 そもそも話題自体は決してこんな重たい空気になるようなものではなかっただけに、トオルは首を捻ってしまう。見れば翠も同様に困惑しているようで、急に表情を曇らせた美純の様子を案じ、その顔を無言のままじっと見つめていた。

 トオルは今度は瑠璃へと目を向けた。

 瑠璃はスッと目を細め、まるで美純の胸中を見透かそうとするかのような表情をしていた。もしかしたら、彼女なら美純に掛ける言葉を持ち合わせているかもしれない。翠との間で交わした会話の中でみせた懐の深さや説得力はトオルも目を見張るものがあった。それに、同性同士のほうが話しやすいこともあるだろう、と。

 しかし、だ。

 瞬きをした次の瞬間、彼は自分の下顎を支える筋肉が一辺に脱力する感覚に襲われた。その予期せぬ行動に思考がついていかず、驚いて声すら出なくなる。

 トオルは最初、瑠璃がとろうとしていた行動を美純の横顔をのぞき込むためのものだとばかり思っていた。何気ない様子でストゥールから上体だけを斜めに傾けていた、彼女。だが、瑠璃はそのまま気配を殺しゆっくりと美純ににじり寄っていくと、なぜか両手を伸ばし背後から抱きすくめようとしたのだ。

 だが、しかし。

 瑠璃の目的はそうではなかった。そのことにトオルが気付いたときにはもう、声を出そうにも舌は金縛りにあったみたいに動かない。

 そして――


 むにむにむにむにむにむに。


 弾力のある膨らみが、鷲掴みにした瑠璃の指の動きに合わせて形を歪めるさまに、トオルはもう驚愕を通り越して目をそらすことも忘れ呆然としてしまった。

「ひぃ、にぎッ?! い、い、イヤぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 突然、美純が奇声を上げてストゥールの上で飛び跳ねた。

 彼女は反射的に身を庇うと、体の前で両腕を交差して自分の肩をひっしと抱きしめた。大きく見開いた瞳には一瞬で驚きと戸惑いが映り込み、すぐにそこに怒りの色が湧き出した。美純はその目で鋭く瑠璃を見据える。

「はぁ、はぁ、はぁ、…………。ちょぉっ、る、瑠璃さぁんッッ!!」

「ふぅー。……これ、ちょっと感動だわー」

「なっ、なななななっ、何、言ってるんですかぁ!」

 怒りと羞恥で目の周りを真っ赤にして抗議する美純に、瑠璃はわざとらしく頭をかきながら二ヘラっと崩した顔で弁解する。 

「あっはっはー、ゴメン、ゴメン。見てたら、ちょっと、やってみたくなってねー」

「ふっ、ふっ、ふざけないでください!! もう、み、見るのも禁止ッ! こ、こういうのは……私、ぜっ、絶対に……ダメなのに」

「えっ? なに、美純ちゃん?」

 反省のかけらもない顔をして、瑠璃は口ごもる美純に詰め寄っていく。

 ずずっ、と鼻をすする音をさせてから、詰まり気味に答える美純の声はすでに上擦っていた。

「……本当に、し、心臓、止まるかと思った。もう、イヤだ。バカぁ……」

 途端に美純は眉根を寄せて、瞳には今にも滴り落ちそうなくらいに水分の膜が張った。下唇をぎゅぅぅっと噛み締めて、必死に嗚咽を堪えようとしてるのがわかる。多分、声を出せばそのまま目からも涙が溢れてしまうのだろう。

 さっきまでの意心地の悪さはどうにかなくなった。が、別の意味でもっと居づらくなった。ろくなことをしない奴だと、トオルは瑠璃を目で戒める。しかし、当の本人は我関せずだ。そして彼女は、今度は正しく美純を抱きしめるとそっと耳元に向けて囁きかけた。

「だって、ねぇ。あんまり美純ちゃんが欲張りさんだから、お姉さん、ちょっとイジワルしたくなっちゃったのよねー」

 美純は一瞬体を硬直させはしたが、すぐに緊張を解くと瑠璃の顔を覗き込む。

「……すんっ。……欲張りって、私……、ですか?」

「そう。あたし、確かに頑張る女の子は好きよ。でも、頑張りすぎはよくないわ。いっつもピリピリしてたら顔の皺だって取れなくなっちゃうし、それに友達もなくすわよ?」

「…………わかんない、そんなこと言われても」

 瑠璃は、涙声で不満をぶつけてくる美純の頭をよしよしと優しく撫でながら、ゆったりとした口調で言い聞かせるかのように話しかける。

「今のままだって十分かわいいんだから、あんまり背伸びしないの。そういうのは制服を着なくなってからでいいのよぅ」

「…………」

 ニマッとする瑠璃に、しかし美純はちょっと憮然とした顔をしてみせた。

「そんなの……関係ないもん。だって、瑠璃さん……私からみたって素敵だし……。だから……」

「ん? あたしが、なに?」

 穏やかな表情を向けた瑠璃に、美純は何度も激しく首を振ってみせる。

「なんでも……ない、んです」

「えー、そんなわけないでしょう? そういうの気持ちわるいから嫌だなぁ」

「…………」

 しかし、美純はそれ以上答えようとはしなかった。瑠璃も口では不服をいいながら、しかしそれ以上彼女に問い詰めようとはしない。どうも二人の中で決着はついたらしい。

 トオルは小さく嘆息した。

 美純と瑠璃と翠。三人の会話は、聞いているトオルの方からすればどれも煮え切らないようなもどかしさを残し、けれど本人同士の間ではちゃんと収まりがついているようなのだ。見ると美純の表情からはまだ何か思うところがあるように感じるのだが、それでもさきほどまでのような深刻な顔は引っ込めて、自分のカップからコーヒーをちびちびとすすり始めている。

 女ってやつは不思議だ。

 トオルはもう34年も生きてきて、その中で接客業の経験は15年近く積んでいる。毎日、たくさんの人間を観察しているわけだが、女ってやつはびっくりするほどシンプルで奥深くさらに複雑怪奇だ。

 ちっともわからないし、きっとこの先もずっとわからないのだろう。

 トオルはそれきり考えるのを止めて、滞っていた片付け作業を再開することにした。スポンジに洗剤を落とし、皿やナイフを擦り、蛇口を捻って泡を洗い流す。手元の作業に集中し、次々とこなしていく。つい気になって手を止めてしまったから、ずいぶんと時間をロスしてしまった。洗い物を終えたら調理器具の拭き掃除、少なくなった在庫の補充、レジ締めと発注が残っている。グズグズしている暇はない。

 はず、なのだが。

「ちょっとー、マスター。ココ、お酒ないですよぉ!」

 つい、無意識に「チッ」と舌打ちしてしまった。

 振り返らなくても誰かわかる声。そもそも、こんなふうに間の悪いやつは二人といない。

「もう、十分飲んだろう? そろそろ終わりにしたらどうだ」

「えー、ヤダー」

 瑠璃はぶうと頬を膨らませて抗議してくる。

「おかわりー。ねぇ、おかわりー」

 そろそろ酔いが回ってきたのか、だんだんと言葉じりが舌っ足らずになってくる。瑠璃の特徴である。

 トオルはふぅとため息をついて、あとひと言ふた言小言を言ってからそれでも新しい一本を開けてやろうと思っていた。が、ふとあることを思い出した。

「……お前なぁ、オッサンみたいに頑なにおんなじ酒を飲むのもどうかと思うぞ? いい加減、そろそろワインにでもしたらどうだ。下っ腹がポッコリ出ても俺は責任取らんからな?」

「えー、今日は始めっからビールの気分だったのに、誰かさんのせいで消化不良なんだよねー」

「むっ、ぐ……」

 酔っ払いのくせに痛いところを突いてくる。もう、いい加減忘れろっ、とトオルは心の中で毒突く。

「……でも、まあいいや。じゃあ、ワインね、赤ワイン。……美味しいのじゃなくちゃ、嫌よ?」

「はいはい。わかってますよ、お姫様」

 そう言うと瑠璃は満足そうに口角を上げて反り返り、

「うむ。よきに計らえ」

「誰だ、お前は」

「いひひひっ。ちょっと、言ってみたかった」

「ふんっ。子供か」

 適当に言って瑠璃をあしらう。

 直後、視線を感じて目を動かすと、その隣で上目遣いの美純がじーとトオルのことを見据えていた。まるで『自分は?』とでも言いたげな顔をしている。まさか彼女に酒を出すわけにはいかないから、新しいコーヒーでもいれ直してやることにしよう。そう言葉にする代わりに、ちょっとだけ荒っぽく頭を撫でてやった。「ちょっ……嫌ぁー」と不満を口にし唇を尖らせるが、大した抵抗もせずされるがままなのが、ちょっとだけ胸を甘ったるくした。以前だったら拒絶されたことが、今では受け入れられる。それが彼女と自分の関係の変化を感じさせてくれて、そういう時、トオルはなんだかちょっとこそばゆさを感じるのだ。

 もうずっと過去の、かなり遠くに置いてきてしまった感情のひとつを、すぐ足元に発見したような感動。美純はそれをくれる。高鳴るような興奮ではなく、風にのって届く春の花の香りに鼻孔をくすぐられるような喜び。そんな、ごく普通にある幸せが嬉しい。

 彼女のつややかな髪の感触をもう少し感じていたかったが、名残惜しくも指を離す。

 そして、隣りの翠にも新しい一杯を勧めてみる。

「安芸さん。折角ですから、もう一杯いかがです?」

「えっ?! ……あー、じゃあ……お言葉に甘えて」

「なんにします?」

「あ、あのー、私、これと同じものでいいんですけれど……」

 再びトオルの胃に冷たく苦いモノが落ちてきた。

 しかし、彼も接客のプロだ。百戦錬磨とまではいかなくとも『お薦め』という名の交渉術にはそこそこ自信があった。声色、表情、身振り手振り。自分の持つあらゆる武器を駆使して、NOをYESに変えてしまうのも一流のサービスマンのテクニックのひとつだ。

「瑠璃の奴も飲むことですし、美味しいワインを開けますよ。よかったらそちらはいかがですか?」

「えっ……その、ええっと……」

 少し困った表情をみせる翠だが、トオルは確信していた。――押せば崩せると。

 そして、一体どこでどう転んだのだろうか。さっきまで空気の読めない女だった瑠璃が、急に助勢に加わってきたのだ。

「翠さーん、一緒に飲もうよ。ワ・イ・ン。高いの開けさせちゃうからさぁ。へへへっ」

「……まったく。今日は特別だからな。いつもじゃないぞ」

「はーい。心して飲みますよぅ」

 瑠璃はくてっと折った右手の甲を額に当てて敬礼のようなポーズを取る。それを横目で見ていた美純が思わず吹き出していた。実際のところ瑠璃は多分そんなに酔ってはいないだろうし、酔ったところで体質的にさめるのもかなり早い。しかし、それをツッコむのは今夜は無しだ。

「どうします、翠さん?」

 トオルは頭の中でセラーのどのワインを開けようか算段しながら言った。

 翠の顔が笑顔に変わった。

 きっと、彼女は首を縦に振る。それを見届けたら自分の分も含めた三人分のグラスを用意しよう――そこまで考えていた。危機を乗り切った自分へのご褒美のつもりだ。

「……ごめんなさい」

 だからトオルはその六つの音が聞こえたときに、如何せんすぐには言葉の意味を飲み込むことができなかった。

「あー、……エッ?」

「私、実はあんまりワインが飲めないんです。カクテルなら何杯か大丈夫なんですけれど、ワインは白でも二杯くらいしか……。折角のお誘い、とっても嬉しいんですが、やっぱり同じモノで結構です。ごめんなさい」 

 そう言った翠の笑顔がトオルには悪事を見事に見抜いた探偵の不敵な笑いのように思えていた。

 完敗、である。

 トオルはこれ以上の抵抗は無意味と素直に降参することにした。

「……こちらこそ、すいません。白状すると、実はライムを切らしちゃって……同じもの、できないんですよね」

「えっ?!」

「本当、すいません」

 翠はちょっとポカンとしていたが、やがてくっくっと声を上げて笑い出した。

「やっぱり、あなたって悪い人だわ。私、初めて会った時からそんな気がしてた」

「それは……心外、です。まぁ、かといって反論できるシチュエーションじゃないか……くくくっ」

 ほんの少しだけ翠との距離が縮まったような気がして気持ちが緩んだのだろうか。

 トオルの口からも自然と笑いが漏れていた。

  

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