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Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫13


 翠の置かれた状況を多少なり察することはできたとしても、100%の理解や、共感するとなるとトオルにはちょっと無理だ。

 だから、彼の口から翠に掛ける言葉は出てこなかった。

 今、自分が彼女に何を言っても薄っぺらな上辺だけの言葉になってしまいそうで、それは嫌だったのだ。

 見ると美純も俯いたまま、同じように黙りこくっている。

 ただ、彼女のほうはおそらく翠の事情を少しくらいは聞き知っていたのだろう。励ましや同情の言葉もすでに掛けたあとなのかもしれない。話を聞いた上でなお、美純があまり表情に変化を見せないのは、言うべきことはもう全て言いつくしてしまったあとだからなのか。それはトオルにはわからない。

 そこにいる皆がじっと押し黙っていた。

 カランッ、と誰かのグラスの中の氷が溶けて崩れた音がやけに大きく聞こえた。

 次になんと切り出せばよいのか迷い、生まれる空白の時間。

 優しさと気遣いとが重なって、逆に場の空気を重くしていた。

 こんな時にすぐ気の利いた言葉が出ない自分がもどかしく、鼻の奥がむずむずして自然と眉間に皺が寄る。

 そう――その時、誰もが同じような憤懣を抱えているのだと、トオルは思っていた。

 なのに、だ。

 見ると瑠璃だけがなぜか妙に納得のいったような表情をしていたのだ。

 彼女はカウンターの上の一点をぼんやりと見詰めながら、時折ゆっくりと瞬きをした。まるで、映るものを瞳の奥で確かめるように、何度も。

 トオルはちょっと不思議な感じがした。

 一番話に食いついて興味津々だったのは彼女だ。それなのに、今はひとりで妙に得心した顔をしている。

 瑠璃は室内との温度差で水滴だらけのボトルを傾け、ぐいっとコロナを一口あおった。けふっ、とまたおとなし目のげっぷをしてから、視線を残り少なくなった瓶から翠へすっと真横に移動した。

「いいんじゃない?」

 そのあっけらかんとした響きは、もし彼女から出たものでなければ首を捻ってしまいそうだった。ほんの少し前まで誰よりも食い下がっていた人間から出る言葉ではないだろう。耳から入った音が脳で言語に変換されたとき、トオルは思わず唇の端が引きつって笑ってしまった。

「意地張ったり、這いつくばってみたり、汚れてみたり。多分、そういうことでしか乗り越えられない時は、それがたとえ最低にみえても唯一の正解だって、あたしは思うの」

「…………」

 言葉だけではその意味を掴みきれなかったらしく、翠の瞳は真っ直ぐに瑠璃を見ていた。目から入るもので足りない分を補おうとしたのだろうが、それでも答えには行き着かなかったようで難しい顔をしている。

「きっと、あなたも覚悟を決めて始めたことだろうし、なのに無関係な外野が茶々入れるのも野暮よねー」

 見事なくらいにさっきまでの自分の言動を棚上げするような一言。

 翠だけではない。

 トオルもまた瑠璃の真意を掴みきれていなかった。

「泉さん?」

「はいっ! もう、この話題はお仕舞いッ」

「ええっ?!」

「頑張ってね、『安芸翠』さん。あたし、陰ながら応援してるから」

「……ありがとう、ござい、ます?」

 相手が答えにたどり着く前に瑠璃は自分が勝手に設定したゴールラインを切った――そんな感じだった。彼女は、戸惑い気味に礼を言う翠に小さく手を振ってみせた。それがこの話題の完全なる終わりを意味しているのはトオルにもなんとなくわかった。

 ただ、独特のリズムと言えば聞こえはいいが、言い換えれば独り善がりなわけで、こういうところのある人間だとわかっているからこそそれなりに付き合えるトオルとは違って、翠の戸惑いは明らかだ。

 無論、トオルだって納得がいったわけではない。

 美純に関わることである以上、気にならないはずはないのだ。だが、場の雰囲気はもう話題を蒸し返せるような様子ではなく、今や場の親のような顔をして取り仕切る瑠璃は一度決めたら縦に振っても横に振っても気が変わるような女でもない。

 なんだか、さっきまでの味方が敵に変わってしまったような気分である。トオルは釈然としないものを抱えながらも、かといってどうすることもできなくて、仕方なく自身も気持ちを切り替えようと瑠璃から視線を逸らそうとした。

 そんな時、だった。

 トオルが無意識にずらした視線の先で、まるで美純の視線が待ち構えていたかのように重なり合ってきたのだ。

 ふと、美純が口の形だけで「あっ」っと言ったのがわかった。

 彼女は最初、思いがけず目が合ってしまったことに驚いたらしく、慌てて視線を逸らした。が、今更そんなことするほうが不自然だと思ったらしく、今度はおずおずと顔を上げた。

 多分、トオルが気付かなかっただけで、彼女はさっきからずっとこちらの様子を伺っていたのだろう。

 いつもならそんなことをするより先に話しかけてくる彼女なのに、だ。

 だが、思い返してみれば今日の美純はずいぶんともの静かだった気がする。一人でカウンターに座っているあいだはそうでもなかったかもしれないが、個性の強い年上の女二人に挟まれてからは明らかに口数が減った。『二人の会話に押されたから』とも言えなくはないが、普段の彼女はむしろよくしゃべる方だったから、あらためて考えてみると今夜の美純の態度はちょっと不自然に思えた。

 そんな腑に落ちないところがそのまま表情に出てしまったのかもしれない。

 美純は一瞬困った顔をして、しかしすぐにそれを上塗りするようにぎこちない笑みを浮かべた。その笑みの意図はトオルにはわからなかったが、少なくとも隠そうとする何かの存在は確かだ。

 ただ、それを今すぐに問い詰めるつもりはトオルにはなく、その機会もまたすぐに奪われてしまった。

 ちょうど、場は瑠璃が切り出した話題でガールズ・トークを再開しようとしていたところで、瑠璃はさっきまでの名残でちょっと重苦しかった空気を追い払おうとあえて明るい話題を振り、沈みがちな翠の胸懐を気遣ってか、その相手はほとんど美純がすることになったからだ。瑠璃ののべつくまなく喋り倒すような会話の相手を一手に担うわけで、必然的に美純の意識は瑠璃のほうに全部刈り取られしまう。

 一人、女達の姦しい会話からはじき出されるかたちとなったトオルは小さくため息をつく。

 きっとこの黄色っぽい談笑は、彼女達が互いの関係をより良く再構築するための通過儀礼のようなものなのだろうから、そんなところにわざわざ首を突っ込むような頭の悪い真似は、一店員としても、一男子としてもちょっとしたくないことだ。

 それに、タイミング的には中途半端になっていた片付けや閉店業務を再開するきっかけとしてもちょうどよかった。ラストオーダーの時間はもう間もなくだ。営業時間自体はそれからまだ一時間はあるのだが、今夜は瑠璃の相手をするのに多くの時間を割いたために、オーダー以外のことはかなり後回しにしてしまっている。

 だからトオルは気になるあれこれは一度胸にしまい込み、調理器具の掃除や食器洗いを始めることにした。フェイドアウトするようにカウンター前から身を引くと、美純達に背を向け蛇口をひねる。すると、そこから流れ出る水音のせいで彼女達の声は半分も聞き取れなくなる。時々、高く響く笑い声。その中にいつの間にか翠の声も混じっていることを確認してから、トオルは半分だけ傾けていた耳の役目を解いて意識を手元に向けた。そこそこの客数だった今夜の営業は、シンクの中にそこそこの洗い物を溜め込んでいたため、それなりに気を引き締めなければ片付けだけで日を跨いでしまいかねない。

 集中してこなす水仕事の合間に、時折、耳に入ってくる声。

 その中で、なぜか美純の声だけがやけによく通って聞こえる気がする。他の二人の笑い声と笑い声のあいだに挟まって、彼女が不満を言っているのがわかる。「どうせ、お酒は飲めません」とか「もう、17歳です。子供みたいに言わないでください」とか、どうやら瑠璃達にいいようにからかわれているようだ。

 三人のする会話の内容を美純の言葉だけで推測していくのは、なんだか片側だけしか聞こえないイヤホンで聴く音のようで不思議な感覚がした。手元の作業を淡々とこなしながら、頭の中では大人二人に弄られる少女の姿を想像する。客観的に考えれば不審者地味た行動だが、会話の内容があまりに滑稽でそのことをはっきりと自覚することはなかった。

 食器を、鍋を、せっせと洗い重ねる音が断続的にキッチンに響きわたっていた。片付けに手間取っていては、明日の仕込みや売上の計算、レジの締め作業に割く時間が乏しくなる。一人で店を切り盛りするのは案外骨の折れる作業だ。時間が押してくれば、必然的に作業に意識を集中せざる負えない。

 あと一時間のあいだにこなすべきことを頭の中に箇条書きしてみる。それをいかにすれば効率よく進められるかが鍵なわけだが、思考の多くをそちらに傾けていた事でトオルはその変化に気付くのが遅れてしまった。

 ――なぜか違和感を覚えた。

 そして、ふと気が付いた。

 しばらく、美純の声が聞こえてこないことに。

 それにつられて自然と瑠璃と翠も黙りこくり、とうとう聞こえるのは蛇口から流れる水音だけになってしまう。

 そうすると唯一聞こえる水音ですら妙に煩わしく感じてしまう。

 気になって、トオルはとうとう蛇口を閉じ、そしてカウンターの方を振り返ってみた。

 まさにそのタイミングで美純は口を開いたのだ。

「私も、この先、二人みたいになれるかな……」

 右の人物をじっと見詰めて、それから左に移した視線でまたじっくりと見詰めて、もう一言。

「自分らしさっていうのか……どうやったら瑠璃さん達みたいにカッコ良くなれるんだろう?」

 きっと、その言葉の中に他意はないのだとトオルにはすぐにわかった。

 言われたほうは最初、ちょっと驚いた目をして、それからやけに照れ臭そうな笑みを浮かべ身悶えしていた。

「まったく……もう。なぁーに、妙なこと言ってんのよ? 美純ちゃんだって、十分に個性的でしょ」

 同意するように、翠も小さく頷いている。

「あんまり急いで何でも手にしようとすると、たった今しか手に入れられないものを見失ったり、取りこぼしたりしてしまうような気がする。美純ちゃんはそのままでもちゃんと魅力的なんだし、慌てずゆっくり成長すればいいじゃない?」

 その言葉に、ただ美純は素直に頷けないようだった。「でも……」と言葉を濁したあと、ちょっと考えてから首を横に振った。 

「それじゃ、ダメなんだと思うから……」

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