Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫12
美純の顔つきは非常に険しく、彼女が本心から瑠璃の行動に不快感を抱いているのだと感じた。トオルですら見たことのないような真剣な表情からは、ハッキリとした意思を感じる。
「ちょっと、美純ちゃん。別にいいじゃない。本人が勝手に喋ってるのよ?」
「でも、そういうのって騙してるみたいですごく狡いと思います…………。瑠璃さん、私、やっぱり嫌だ」
「美純ちゃん……」
瑠璃は驚いたようだ。
これまでの美純と翠、二人の会話のやり取りから、美純は自分にとっての同盟の最有力のように感じていたのだろう。ところが美純は擁護に回ってしまった。多分、計算外だったはずだ。
瑠璃はしばらく小難しそうに考え込んでいたが、やがて諦めたのか、渋々引くことにしたようだ。
「わかったわよ。けど、あたしが美純ちゃんに訊くのはアリなんでしょ? もちろん、無理にとは言わない。言える範囲で構わないわ」
「えっ?!」
「だって、やっぱり気になるじゃない? こんな大会社の御令嬢様が、直々にあなたの事を口説き落とそうとしているワケ……ぜひ、知りたいわ。ねぇ、いいでしょう?」
瑠璃はさも、『それくらいは当然の権利』だとでもいうかのように美純を説き伏せようとする。さらに彼女はトオルへ向けて目配せしてきた。これは多分、共闘の合図なのだろう。
子供相手にそこまで……普段のトオルなら、そう思って首を横に振っている。
だが、この件に関してはトオルもスッキリしないところがあった。
美純は、自分に対しても詳しい話は一切してくれていなかったからだ。
翠からしつこく電話やメールがあって辟易しているというのは聞いていたが、なぜ翠がそんなにも頻繁にコンタクトをとってくるのかに話が移ると、美純はなんとなく話を濁した。その理由はトオルにもわからない。
なぜか――それが全く気にならないといったら、嘘だ。
だからトオルは全面的に手を貸すつもりこそなかったが、瑠璃のその提案に一枚噛むことにした。
「それ、俺も聞きたい」
「えっ……?」
美純の表情がひどく驚いた顔に変わった。それから彼女は一度トオルの顔色をうかがう素振りをみせ、今度は急に困った顔をする。
「なんだよ。俺達には言えないようなことなのか?」
「そ、そうじゃないけど……」
問い詰めると美純は否定はしたが、そのまま口ごもり、俯いてしまう。トオルはあえてしばらく黙し、彼女に無言の圧力をかけた。すると、美純はますます沈黙を濃くする。
そんな反応が欲しいんじゃない。
不快感に奥歯を噛む。
「そうじゃないなら、一体、なんなんだよ?」
「…………」
「言っとくが、俺がそのことを訊きたいのは、ただの興味本位や好奇心なんかじゃないからな」
「……じゃあ、なに?」
「『お前のためを思って』だからだぞ。お前に何かおかしなことをさせようとしてるなら、俺はその人をお前から遠ざける。手段を問わず」
美純はすぐに言葉を発することができない代わりに、大きく目を見開き、慌ててかぶりを振った。
「違うよっ! トオル、それは誤解。翠さんはそんなこと言ってない」
「なら、なんて言ってるんだ?!」
出来るだけきつく聞こえないよう、抑えて言う。なのに、眉間に皺が寄った。声は妙に重く低く響いてしまう。
まるで詰問しているようだった。
「そ、それは……」
美純は答えに詰まると、苦しそうに唇元を結んだ。
当然の反応だろう。トオルは思ったとおりにうまくやれない自分自身に腹立たしくなって、舌打ちしたい気分だ。
だがその時、横から瑠璃が口を出してきた。
「ちょっと、トオル! そんなふうに言われたら、美純ちゃんだって答え辛いでしょう?!」
彼女は美純のことをすっと引き寄せて自分の保護下に置くと、トオルにはじっとりと白い目を向けてくる。
ほんの数秒間、カウンターを挟んだ短い距離の間に意図的に作られた居心地の悪い空気が流れる。瑠璃から反省を促す意味も含めた共闘失敗の責任を全部擦り付けられるかたちで、自分ひとり、悪者に仕立て上げられてしまったわけだ。
それでもなお喰って掛かれるほど幼くはない。
むしろ、おかげでトオルは少し冷静になれた。
ひと息ついて、美純に詫びる。
「……悪い。別に、そういうつもりじゃなかったんだ」
ただ、すぐさま言い返してくるのは彼女ではなく瑠璃だった。
「『悪い』で簡単に済まそうとするけど、あんた、ちょっと大人げないんじゃない? いい歳して、女子高校生相手にムキになったりして」
「う、……っ」
胸がチクリと痛む。
彼女の言う通りだった。今更、弁解の余地もない。
「全く……。大体、あんたは美純ちゃんに対して偉そうなのよ。何が『お前』よ?!」
「ん?」
一瞬、瑠璃の言った言葉の意味がよくわからずに首を捻る。
会得のいかない顔をしたトオルを瑠璃は不満に思ったらしく、彼女は片方の眉をひくひくと痙攣させ、肩肘をカウンターの上につくと、トオルに向けて人差し指を突きつけてきた。
「いい? あんた、相手が年下だからって、他人のことを見下すような、……まるで自分の所有物みたいな呼び方をしないのっ! そういうのって、大抵態度にも出るわよ?」
至らぬ部分を彼女に教えられてしまうが、反面教師な気がしてならない。
「それに美純ちゃんもそういう時はガツンと言っていいのよ、『余計なお世話だ』って。コイツって昔から馬鹿でおまけにえらくニブちんなところもあるから、周りがちゃんとしつけてやらないと絶対成長しないのよ」
くすくすと、カウンターに座るもうひと組の客の笑い声が聞こえてくる。
「本当よー。だから、皆さん、よろしくお願いしますぅ」
瑠璃がわざとらしく低頭すると、今度は店内のあちこちから失笑が漏れた。どうやら何組か残っていた客のほとんどがこちらの会話に聞き耳を立てていたらしい。
バツの悪い気分だった。
懲らしめの意味で彼女のビールを取り上げようとしたが、反射神経のよい瑠璃は素早く瓶を抱え込んだ。
「ちょっとぉー、何すんのよ?! これはあたしのでしょっ!」
頬を膨らませる瑠璃に、トオルは抑揚のない声で宣告してやる。
「お前、今日はもうアルコール禁止な」
「ええっ? やぁーよー。そんな横暴には断固講義させてもらいます」
「はぁ?!」
「もっと、飲ませろー。もっと、飲ませろー。……でないと、あんたのなっさけない過去のアレコレ、もっとばらしちゃうわよ?」
「おいっ。やめろよな、そういうの」
横で美純がぷっと吹き出した。別に彼女が悪いわけではないのに、トオルは無意識で舌打ちしてしまう。
「……全く。お前は本当に嫌な女だな」
「なによぅ、あんたこそ。こんなイイ女をつかまえて、その言い草はずいぶんと失礼よねぇ」
臆面もなく言うその自信は、一体どこから生まれてくるのだろう。
そんな二人のやり取りを見ていた美純はすっかり笑顔にかわっていた。どうやらうまく気を取り直してくれたらしい。トオルと目が合うと、彼女は小さくながらも自然と笑顔を作ってくれる。
胸に支えていた固い息がようやくほぐれて出ていった気分だった。
トオルも口角を上げて彼女に応えると、それで気持ちがほっとしたのか、微かにため息が漏れてしまった。それを慌ててビールと一緒に飲み込もうとする。
と、その時、急に誰かの携帯の着信音が鳴った。
持ち主が誰かを捜す必要もないくらい素早く翠は反応すると、すっと立ち上がり、ツカツカと踵を鳴らすと一旦店外に出ていった。足取りは意外にもしっかりとしているように感じた。
時間にしたら二、三分だろうか。
戻ってきた時の彼女の表情には、すでに覇気のようなものが戻っていた。
「失礼しました」
翠は周りに気を使って軽く頭を下げると、再び自分の席に着いた。その様子を見ていた瑠璃が「ほぅ」と口の形だけで声なく感心して、微かに笑う。
「なんだ、てっきり親の七光りかと思ってたけど、そうでもないみたいね。あたし、あなたの事、ちょっと甘くみていたわ」
「…………どういう意味ですか?」
瑠璃の言葉に翠が鋭く静かに訊ねた。
それに答えるためには舌の潤滑油が必要とでも言いたげに、瑠璃は瓶に残っていた液体を一気に飲み込んで、それから控えめにげっぷした。
「へー、『戦う女』だ」
「えっ?」
「あなた、何度も追い詰められた経験のある人間がするような、緊張感のあるいい顔をしてる。多分、仕事になるとスイッチが切り替わるんでしょ。……ごめんなさい。さっきあたしの言った、見縊るような言い方は全部訂正するわ」
瑠璃の言葉は意外にも真摯で、逆に翠は呆気にとられキョトンとした顔だ。
「は、はぁ……」
「あたしは今のポジションを必死に努力して得た、いわば『成り上がり』。だから、恵まれた環境に生まれて、ちやほやされて勘違いしてる人間に嫌悪感とちょっと嫉妬も感じちゃうわ。でも、あなたはそういう人達とは違いそうね」
「…………」
「目の光りかたが違う。強くて、ちっともぶれがないもの」
話の流れと関係ないタイミングでツイっと向けてきた視線から、瑠璃がさり気なくおかわりのビールを要求してきたのがわかった。さっきはアルコール禁止なんて言ったが、今、二人の会話に水を差すようなことは野暮だろう。素直に新しいコロナの瓶口に入れるライムをカットしようとナイフに手を掛けたが、冷蔵庫から取り出したライムは、それがちょうど最後のワンカットだった。
押し込み、彼女の前に瓶を差し出した。瑠璃の唇がトオルに向けてキスの形を作って礼をいった。
状況をうまく利用した、賢しらな奴だとは思う。なのに、憎めない。
そういう女だ。
瑠璃は再び視線を翠のほうに戻した。
「あたし、仕事のできる女は大好きなの」
ニッ、と顔を崩した。
「やっぱり、女はいつだって輝いてなくっちゃね。ビジネスの世界は弱肉強食が当たり前なのに、この国はいまだに時代遅れの男尊女卑のシステムが残ってる。男も女も入り交じって『喰うか、喰われるか』してるはずなのに、情けない男どもに合わせてして三歩後ろを歩いてたら、こっちは地面に埋もれちゃうわ。むしろ……」
そう言うと、彼女の手は美純の眼前を通り過ぎ、翠に向かって透明なガラスの瓶を突き出した。最初、意図がわからない顔をしている翠に、瑠璃は彼女のカップを指差して意図を示す。
「目一杯に輝いて、嫌でもそいつを跪かせてやらないと。だって男なんて、みぃんな、お馬鹿で鈍いんだもの」
「くっ。確かに、……それはそうかも」
翠は急に何かを思い出したのか、ちょっと笑った。それから自分のカップを掲げると、瑠璃の持つビールの瓶と乾杯した。
カツッ、とガラス同士とは違った鈍い音が響く。
「あたしは仕事もプライベートもいつだって全力。それで、あたし自身をいっぱいに磨いてるつもり。ご覧の通り、自分の事、大好きよ。あなたは?」
「私は――――」
翠はそこまで口にして、急に黙り込んでしまった。
「…………」
彼女の無言はそれからしばらく続いた。ただ、意外にも瑠璃は急かす素振りをみせなかった。彼女はじっと翠の唇が動き出すのを待ち続けているようだ。不思議なくらい穏やかで、まるであとに続くだろう言葉を思い描きながら、楽しでいるかのような表情をして。それは、トオルが今まで見たこともない彼女の表情だった。
やがて思い切ったのか、翠はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「私は――自分のことは……多分、好きなんです。でも、『安芸翠』という人物は嫌いなのかもしれない。この名前は、私にとって足枷でしかなくて。頑張っても、頑張っても、評価にはいつも必ず家の名前が付いて回るから」
「…………」
瑠璃は相槌も打たずに翠の言葉を聞いている。浮かべている笑みは、貫禄すら感じさせる深くて重い静かな笑みだ。
翠は、一度開いた口から溢れるように言葉を続けた。今まで塞き止めていたものが、瑠璃によって解き放たれたのかもしれない。
新たに彼女より滴り落ちた水は、いつのまにか言の葉の河になって流れ出していく。
「音楽も、今の仕事も好き。だけど、大きな会社の中でたくさんの人間のたくさんの思惑に塗れてやっていこうとすると、そこには必ず人間関係やしがらみがあって……。私が、――泉さんの言葉を借りれば『輝こう』と精一杯に努力しても、必ず誰か歪んだ目で見ているから。結局、何をやっても『社長の娘』『会長の孫』として扱われて。でも、そんなふうに言われるのは、正直ウンザリなんです。ちゃんと一個人として、結果のほうを評価して欲しい」
「そう……ね。人が多ければ、確かにいろんな見方をする人がいるもの。でも、それって仕方ないわよね」
瑠璃がそう言ったのに、翠が返した笑顔はとても悲しげだった。
「私はこの『安芸』の名前が憎いのかもしれない。でも、父や祖父のことは深く尊敬してるし、二人が創り育てたこの会社を誇りには思ってます。だから、……絶対に周りの目なんかには負けたくないんです」