Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫11
相手の先を読んで論破するような会話術。
それを瑠璃がしたということが、トオルにとっては驚きだった。
「ほぅ……」
思わず嘆声をもらすと、目敏い彼女に見付けられてしまった。
「ちょっと、そこっ! なによ、今の『ほぅ』は?」
「あっ…………」
彼女がカウンターの上に身を乗り出して問い詰めてくる。上目遣いでにじり寄ってくる姿は、獲物を前にした爬虫類のようだ。相手は瑠璃だし、そもそも隠すようなことでもなかったので、トオルは思っていたことを素直に口にした。
「いや、お前が人に対して真っ当な意見をすることが、ちょっと意外に思えてな。でも、まぁ、考えてみれば自分で会社を起こして、スタッフを雇っているんだから、当たり前っちゃ、当たり前なんだろうが、な」
「ムッ」
瑠璃の肩がピクッと反応した。ぐぐぐっと地鳴りでも聞こえそうなくらいに顔を歪め、眉間に何本も深い溝のような皺を寄せて、不満そうに睨み付けてくる。それを見て、トオルは無意識で笑ってしまった。なぜか、瑠璃にそんな顔をみせられるとトオルは反省するよりも先に嗜虐的な思いに駆られてしまうのだ。
「誰だって、色々経験すれば少しずつ成長していくもんなんだろうな。自分勝手を個性や自由と履き違えていた女も、年食えば淑女の仲間入りか。なんか、イナダがブリに育った気分だな」
きっと、相手がそれで萎縮するような奴なら、トオルだってそんなふうにはしないはずだ。だが、瑠璃という女は押せば押した分だけ跳ね返ってくる気の強さがある。多分、それが面白くて、つい突っかけてしまうのかもしれない。
「ほぅ……そういうあんたのデリカシー欠乏症は、一体、いつになったら完治するのかしらね? もしも、死ぬまで治らないんだったら、そんな迷惑な奴はさっさと死んでしまえばいいのにね」
「お前なぁ、人が折角これから誉めてやろうと……」
そんなつもりなんて、毛頭ない。
「御生憎様っ! 間に合ってます」
それを知ってか瑠璃が『ベッ』と舌を出して反撃してくる。まるで子供みたいな顔をして、だ。
そんな顔を見せられるとちょっとホッとしてしまった。歳をとって、自分自身もそうだし、周りの人間も変わってしまうことが多い中、彼女との関係は今も昔とそう変わらずに続いていた。トオルはそのことを確認したくて、つい意地悪な口を聞いてしまうのかもしれない。
子供じみた自分に苦笑する。
決して、そう意図したわけではなかったが、瑠璃と翠のやり合いで密度の詰まっていた場の空気も若干穏やかになったような気がした。美純と翠は俯き、互いに顔こそ合わせようとはしないのだが、聞き耳をたてているのは一目瞭然で、時折殺しきれなかった笑い声をくすくすと漏らしていた。
当然、瑠璃は仏頂面だが、彼女も別に空気の読めない女ではない。それどころか、むしろ場の空気の機微をかなり敏感に感じ取るタイプだ。マイペースを地でいく性格のくせに、そんなところは妙な奴である。トオルがちょっと弱っているときなど、大抵、彼女は電話を掛けてきたり、店に直接顔を出して、トオルが頭の中のモヤモヤを忘れるくらいに引っかき回したりする気遣いを持っている。だから、もうちょっとくらいなら道化の役も引き受けてくれるだろう。お礼は美味い酒か、美味い肴か、美味い話。どれかあればすぐに機嫌もよくなるはずだ。
一頻り皆が笑ったあと、今が話を切り替える頃合だろうと感じた。
「安芸さん、何か要りますか?」
彼女の目の前のカップを指し示す。トオルはさっきチラッと覗き込んで翠のカップが空になっているのに気付いていた。
顔を上げた翠はちょっと驚いた様子だった。答えに困った表情をしたのは、頭の中の大部分を一つの思考に費やそうとしていたからに違いない。「あ、……はぁ」と曖昧な答えが返ってきた。
トオルはそれ以上聞き返すのを止め、新しいモスコミュールを作り始めた。
ウォッカと、ジンジャービールがあまり流通していない日本では代用に辛口のジンジャーエール。そして、フレッシュライムを搾る。バースプーンで軽くアップさせると、銅製のマグカップを氷が内側から叩く低い音が響く。
新しい一杯。
それを翠の前に差し出すことは、全てのお膳立てが整ったのを示している。
理解できない女ではないはずだ。
グッと口元に力が入り、更に表情が固くなった。ただ、そうまでして言い渋る理由はトオルにはわからなかったし、それがためにトオルが彼女への不信感を拭えないでいることも、翠自身は理解しているはずなのだ。
だんまりが続けばそれだけ不審が募る。膨らんだ警戒心は、あるところから拒絶へと変わる。
美純はどうなのだろう、と思った。
彼女のみせる様子は拒絶に近いと感じた。
美純はどこまで聞かされているのだろうか。そして、彼女がみせる表情のわけは、一体何が理由なのだろうか。トオルが訊ねれば答えてくれるかもしれないが、それには多分、場を改める必要があるだろう。
翠が喋らないのなら、美純もきっと喋らない。そういう気遣いをする子だ。
だから、たった今は翠の沈黙に付き合うしかなかった。
「……私は、今は無理なの」
長期戦を覚悟したトオルは、意識のほとんどを店の業務の方に回しかけたところだったので、美純の呟いたひと言をちゃんと聞き取れてはいなかった。
「でも、美純ちゃん。私には今しかない。もしも今、この好機を失ったら、私には二度とチャンスは訪れないと思う……」
出遅れた彼は、翠の言葉から美純のひと言を推測するしかなかった。
話は漠然としすぎていて答えを得ることはできない。
「お願いだから協力して欲しい。私は、ね。あの日のあの瞬間、絶対に『あなた』だって思った。正直に言うと、確かに他に候補者がいるわけでもないわ。でも、それはこの試みがうちの会社としても初の、それに重要な試みだから。探している人材には歌唱力、話題性、秘匿性……他にも色々求めるがあった。そして、美純ちゃんはそのどれも高いレベルで満たしていたわ。私達が必要とする人材の条件にピッタリだったの。嘘じゃない、本当よ」
「だとしても、無理。私……今は自由な時間がとっても大切なんです」
そう答えた美純の顔が上向いて、スッとトオルの顔を覗き込んできた。
「やっと……だから……」
「でも、こういう事って何時でもあるわけじゃないわ。大抵、その瞬間しか訪れないものなのよ」
「私は、……そういうのよくわからないです」
美純の答えに、翠は首を何度か横に振ってから項垂れた。
「なんでっ! どうして?! 折角、こんな機会が目の前にあるのに、どうしてそれをフイにするようなことを……」
翠は搾り出すように低い声を出した。まるで、必死で押さえ込んだ『怒り』の感情を内包した言葉に聞こえた。
それからトオルは、再び黙り込んでしまった美純と翠を交互に見比べ、最後に視線を瑠璃に向けた。瑠璃も案の定、釈然としない表情で両手を広げてため息を付いた。
「ちっとも話が見えてこないわー。……なぁんだ、美純ちゃんは大体わかってたんだ、ってくらいしか、ね。あたしも、トオルも蚊帳の外ってかんじ。ま、別にそれならそれでいいんだけれど」
これっぽちもそうは思っていない顔つきでぶつぶつと不満を言うと、瑠璃は目の前のボトルを一気に傾け、ごっくごっくと飲みきってしまった。「ふんっ」という鼻息がおかわりの意味らしい。
「あのさ。お前、俺にあたるなよな」
「いいから! さっさともう一杯ッ!!」
「それ、もう一本、の間違いだろ……って、わかった、わかった! どうでもいいよな、そんな言い間違い……」
「男のクセに細かいことをグジグジとぉ。ちょっと、黙ってなさいよ!!」
振り上げていた握りこぶしでひったくるように受け取った新しいボトルから、グビグビと飲み足りない分を喉に流し込んだ瑠璃は、不満を表すようにゴンっと荒っぽく瓶底をカウンターの上に叩きつけた。煮え切らない会話にか、小煩い男にか、そのどちらにもか。ともかく彼女の顔は憮然としている。
「スッキリしないの、嫌なのよー。だって、ムカツクじゃない」
「そういうところ、お前、ちっとも変わってないな。さっきちょっとでも感心したの、返してほしいよ」
「はぁん?!」
瑠璃が眉を釣り上げて睨んできた。トオルはヒラヒラと手のひらを右に左に振って、彼女の矢じりのように鋭い視線を避けようとする。その様子を横に座っていた美純がまた、くすくすと笑って見ていた。今度はもうその笑みを隠そうともしない。トオルと目が合うと満面とはいえないが破顔した。
だが、翠は笑わなかった。さっきよりも表情を暗くしていた。
「ちょっと! あなた、いつまで自分だけで抱え込んでるつもり?」
そんな彼女に、瑠璃が不満の矛先を向けて言い放った。
「チャンス、チャンスってたぶらかして、一体、美純ちゃんに何させようとしてるの? もし変なことさせようとしてるなら許さないわよ。この子、あたしのお気に入りなんだから」
「あっ、ちょっ……瑠璃さんッ?!」
ぐいっと、目の前の身体が急に隣りに引き寄せられた。
抱き寄せると、キャキャッと黄色い声を上げていきなり美純の感触を楽しみ出した瑠璃に、美純の方はかなり驚いたらしく、腕の中で身動ぎしながら悲鳴みたいな声を上げている。
さすがにこれはちょっとやり過ぎだとトオルは思った。周囲の客も若干眉をひそめているのが見て取れる。その反応も当然だろう。
「お前らなぁ、他にもたくさんお客さんがいるんだぞ。じゃれるなら外に行ってやれよ」
トオルが忠告しても瑠璃にはあまり効き目はない。
「なによ、羨ましいくせに」
「…………う、羨ましい……くせにー」
おまけに、釣られて美純も言い出す始末だ。照れがあるからボソボソと躊躇いがちに。いくら彼女にそんなふうにされても、今は一店主として毅然とした態度を取らなければならない。
「い・い・か・げ・ん・に、しろっ!」
「にゃっ、にゃっ! ほれっ、ひたいッ! ほほふッ、ほれ、ふごく、ひたいっ!!」
瑠璃に抱き締められて動きの自由のきかない美純の鼻を摘むと、グイグイ引っ張ってやった。ちょっとおきゅうをすえてやるつもりだったから、くぐもった声で必死に助けを求められても、彼はしばらく許すつもりはなかった。
美純は最初、動かすことの出来る首だけを振って激しく抵抗した。
しかし、トオルは右手を離さなかった。
そのうちに目がだんだん涙目に変わってくる。
さすがにちょっとやりすぎたかなとトオルも反省した。が、その時、彼は急に右手に激しい痛みを感じ、反射的に美純の鼻から手を放した。
「っっ痛ぅ! ……おい、本当に追い出すぞ」
見れば親指と手首の間辺りに見事に歯型がついている。
トオルが犯人の至近距離まで顔を近づけて睨みつけても、相手は悪びれる様子もないどころか、わざとらしく舌舐りまでしてみせた。行動も我儘っぷりも、まるで野生動物みたいな奴だ。
「やーよー。だって、まだ飲み足りないんだもーん。しばらく離れる日本での飲み納めだし、今日はじゃんじゃん飲むんだから」
ようやく開放されて痛む鼻をフガフガとしている美純に、瑠璃は強引に頬ずりして「ねー?」と同意を求めている。そんなのは未成年に求めるものじゃないぞ、とトオルは頭を抱えたくなる。
「もう、何本目だ? いい加減、飲みすぎだろう」
「まだ、四、五本でしょ。これくらいがスターターには丁度いいわ」
にしし、と不敵に笑って、彼女は瓶に残っていたビールをまたひと息で飲みきってしまう。確かに瑠璃の酒の強さはよく知っていたから、この程度の酒量ではどうってことないことくらいわかっている。ただ、すぐ隣りには未成年もいるのだから、大人しくほろ酔い程度に抑えておけよと警告するつもりだった。が、どうやら釘の撃ち方を間違えたらしい。火に油、というよりは酒を注いでしまった気がする。
「あの……翠さん、大丈夫?」
その時、だった。
美純が急に隣りの翠の様子を気にしたのだ。
トオルはハッとなって振り返った。
「えっ…………ああ、うん。平気……」
俯きがちで、確かに言葉数も少なくなったようには感じていたが、それはただ隣りの二人が五月蝿いから一歩引いているのだと思い込んでいた。美純の声に反応して顔を上げた翠の頬は、なんとなく赤みを増しており、目はやや潤んで光を溜め込んでいるようだった。
アルコールの毒が、彼女のほうには緩やかに効果を示してきたらしい。
「安芸さん、ちょっと酔っちゃいました?」
「ううん、酔ってない……」
そういう言葉じりがえらく頼りない。やれやれ、とトオルは肩をすくめ、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出すとグラスに注ぐ。それを翠の前に差し出そうとした。
「ねぇ、チャンスって……何? あんた、ちゃんと説明しなさいよ」
が、それまでと打って変わった真剣な声で瑠璃が彼女を問い詰めたのだ。
トオルは手に持ったグラスをカウンターに置く直前でピクッと身体を固くした。視線がゆっくりと瑠璃のほうを振り向いた。その表情が明らかに強い意志を持って翠を問い詰めようとしているのを感じ、一旦は彼女を止めようとした。が、ほんのちょっと心が揺らいだ。
相手は自分の彼女を不明な何かに巻き込もうとしているのだ。
それが気にならないはずはない。
「チャンス……」
「そう言ってたでしょ、この子に。『好機だ』とか」
瑠璃が更に問うた。もうとっくに美純を腕から開放し、意識は翠のほうだけを向いている。
「…………アプリの事? ユーザー参加型の、アーティスト育成ゲームって……前に説明したと思ったけれど……」
「なに、それ?」
瑠璃がちょっと理解できない顔をして、さらに翠に迫ろうとした時、それを制したのは何故か美純だった。
「瑠璃さん、それズルイ。反則だよ」
「ちょっと、美純ちゃん?!」
「こういうのは駄目だと思う……翠さんの代わりに私が知ってることを答えるから、やめて」