Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫10
「で?」
投げ掛けるのは、不躾に聞こえるくらい端的な疑問。そういうところが瑠璃は相変わらず瑠璃だな、とトオルは思う。誰に対しても真っ直ぐで歯に絹着せぬ本音の言葉で話すのは、相手を見て態度をころころと変えるような人間よりも余程親切なのかもしれない。
その、あまりに正直すぎる言葉に、翠はキョトンとした顔だ。
「大層な会社の令嬢様が、一体なんでこんな場所に? ……まさか、うだつの上がらないコックにわざわざ会いに来たわけないわよね?」
「ありません」
今度は抜群の反射神経ですっぱりと切り返す。この二人の会話にいちいち反応していたら負けだと、トオルは耳だけは一応傾けつつも手元はさっさと片付け作業を再開することにする。
「じゃあ、目的は?」
瑠璃が更に訊ね、翠は一拍おいてから口を開いた。
「彼女――美純ちゃんに私の今やっている仕事の手伝いをしてほしくて、そのお願いに来たんです。たまたま、共通の知人から彼女がよくこのお店に足を運ぶと聞いたので、それで」
「ふーん、手伝い、ね……」
瑠璃は呟き、値踏みするような半眼で翠を見た。が、すぐに鼻白むと興味をボトルに残ったなけなしのビールに移し、それをひと息にあおった。瓶を大きく傾け、細くて白い首筋を露わにして最後の一滴まで大事そうに。ボトルの中のカットライムが浮力の束縛を失い、重力の自由を得てガラスの檻を逃げ出そうとするが、たったひとつしかない出口はほんの少しだけ自分より小さくて這い出ることは出来ない。そんな翠色の柑橘の実の結末をゆらゆらと眺めつつ、もう空になった瓶の飲み口から名残惜しそうに唇を離そうとしない彼女に気を利かせ、ちらっと視線を送ってやると、瑠璃はそれを待っていたかのように顔を向け、目くばせしきた。
トオルはそのアイ・コンタクトを十分に理解しつつも『うだつの上がらない男の顔』を用意して、皮肉たっぷりの目顔で聞き返した。当然、瑠璃の方はその意図に気付き眉間に皺を寄せる。飲み終わったボトルからようやく口を離してカウンターに置き、それでも素直に頼むのは不満らしく、唇で音のない声を作って「もう一本っ」と言った。くすくす笑いながら新しいボトルの栓を開けるトオルに「意地悪よ」と零すのを忘れないところがまた瑠璃らしくて、ますます笑いが止まらない。
「失礼に聞こえちゃったら、ごめんなさいねー」
翠に対しては前置くように、トオルに対しては皮肉にも聞こえるような器用な言い回しをすると、瑠璃は手元に届いた新しいボトルに丁寧にライムを押し込んだ。指先に付いたライムの果汁をおしぼりで拭い取り、それから急に隣りの席に座る美純の顔をじっと数秒の間、見詰めた。
深く。
その意味深な視線を感じた美純が同じように見詰め返しても、尚。
が、不思議に思って美純が口を開こうとするより先に、彼女は何かを理解したらしく二回ほど頷いた。
「ねぇ、あなたは『何を』『どれだけ』美純ちゃんに話しているの?」
「えっ?」
問いは美純へではなく、ひとつ飛ばした翠に向かってだった。
「手伝う、なんて聞こえはいいけれど、本当のところはどうなのよ? 大の大人がビジネスのことで高校生一人の手を借りることって、何? ……ごめんなさい、二人を馬鹿にするわけじゃないけれど、あたしにはちょっと理解できない……」
カウンターの上で外気との温度差から表面にたっぷりと水滴を浮かべたボトルが、一度も口を付けられないことをボヤくでもなく寡黙に佇んでいるように見える。
同じように黙りこくった翠からも、答えはない。
「勘繰っちゃうわよね、何かあるんじゃないかって……ねぇ、あなた、一体この子をどう利用したいの?」
「利用って、そういうの…………私は、違い、ますから……」
言葉はずいぶん歯切れ悪い。
ふふふ、と瑠璃は小さく声に出して笑った。
「あのね、これはあたしの経験談。お腹の中にある色々は、ちゃんとその時吐き出さないと駄目だと思う。だって、後でわかったときにはもう手遅れってことが大概よね。最後は切った貼ったの外科治療みたいになっちゃうわ。それって、傷しか残らないものよ」
ずいぶんと格好良いことを言うじゃないか、とトオルが揶揄半分で何気無く向けた目には、最初、瑠璃が小さく笑っているかのように映っていた。だが、何を感じ取ったのか、反論しようと開きかけていた翠の口元が言葉を失い、代わりに固唾を呑んで押し黙るのを見ると、トオルもまた喉元まで出掛かっていた言葉を呑み込んでしまった。
不思議に思い、よくよく見てみると瑠璃は微笑んでいるようにも、憂えているようにも見える複雑な顔をしていた。抗えないような、妙に説得力のある表情をしていたのだ。
しかし、そんな雰囲気は彼女がちょっと肩を竦める素振りをしただけで消えてしまうくらい、薄弱なモノでしかなかった。
彼女はもう一度笑い、それはただの微笑みでしかなかった。
「多分、ね。普段のあなたはビジネスの世界で色々な武器を使いこなして交渉してるんだろうけれど、今の相手はただの女子高生なのよ。普通の女の子相手に件の交渉術なんて、逆に警戒心を高めるだけじゃない?」
「…………」
「大丈夫よ、手の内みせたって出し抜かれるような相手じゃないし。どんな目論見で彼女に近づいているのかくらい、ちゃんと教えてあげればいいのよ」
その『目論見』という言葉に、翠は強く反応した。表情をキッと鋭くした。
「泉さん、あなたは私に何を言わせたいんですか?」
「言わせるとかそういうことじゃなくて、美純ちゃんには知る権利が……ううん、知るべきなのよ。それとも、あたしが居るのが気に入らない? 部外者だから席を外せって言われればそうするわよ」
「そんなつもりで言ってません」
「ついでに、そこのコックも追い払う?」
「そんなつもりじゃないって、言ってるでしょう?!」
瑠璃にしたら軽い冗談のつもりだっただろう。
その時、翠が初めて瑠璃に対して不快感を露わにした顔をした。
瑠璃は両手を肩まで上げて、首を振ってみせる。
「ごめんなさい、気分を悪くさせて。でも、あたしは客観的な立場からみて、あなたは美純ちゃんにそのままを言えばいいんじゃないって思っているだけよ」
だが、翠は今度は引かなかった。何か強い感情を無理矢理押さえつけているかのように、双肩が小刻みに震えていた。
「どうして? どうして、邪魔をするの?」
「邪魔なんてしてないわよ」
「してるでしょう? だって、突然現れて、関係もないのに割り込んできて、引っかき回して」
「そう? でも、そう思ってるのは、多分、あなただけよ」
「なによ、それ」
翠の表情が更に険しくなった。
「……そもそも、ね。あなた自身がどんなに必死に奔走して、あちこちに手を廻してるように思っていても、それで影響を受ける人も変化を起こす人もほとんどいないってこと。わかる?」
「それって、どういう意味?!」
ふぅ、と瑠璃は深く息を吐いた。
「まったく……頭は良さそうだけど、理解の悪い娘ね。だから、あんたは勝手に一人で空回りしてるって言ってんの」
さも面倒にでも巻き込まれたかのように、頭を振って憂鬱を追い出して。
その瞬間、『ああっ……』と思った。トオルは何かを言おうとして、すぐに止めた。もう、手遅れだと感じたからだ。
十中八九、翠のようなタイプの女はプライドが高い。
その相手をこんなふうに扱ったなら――結果は火を見るより明らかだ。
勢いよく立ち上がって、そのせいで倒れたストールの背もたれがフローリングの床に当たり低い音をさせた。立ち上がる際に激しく手をついたカウンターの上のカトラリーは、どれも彼女の形相に怖じ気付いたのかカシャカシャと音をさせて震え上がっていた。身体の向きを変えるのに一歩だけ踏み出したヒールが、床を踏み抜くくらい激しい火花を散らしたような気がした。
トオルは彼女を取り押さえるか、瑠璃を庇うか、どちらにしろ身体は無意識にカウンターを飛び出す準備をしていた。
が――。
大きく見開かれた瞳の中から、まるで水をかぶったみたいにスッと熱が引いていき、翠は立ち上がった体勢のまま身動ぎ一つしなくなってしまう。
「……?」
トオルはそんな彼女の様子を怪訝に思ったのだが、すぐにそのワケに気付いた。
翠はすぐ隣りに座る美純の冷たい視線に射抜かれていたのだ。
美純の眼は明らかに翠を警戒していた。自身の言動がどれだけ彼女を不穏にさせているのか、その険しい表情から痛いくらいにヒシヒシと感じたのだろう。翠からは横から見ていてすぐにわかるくらいはっきりと反省や後悔の念を感じることができた。
しかし、トオルは別の意味で驚いていた。
あそこまで興奮した自身を、きっかけがあったとはいえ翠はほんの一瞬でリセットしたのだ。そんなこと、普通に考えたら簡単ではない。『剣を収める』なんて言葉が存在するのは、それがそもそも非常に困難なことの例えだからなのだ。
「……ほら、やっぱり。理解は悪いけど頭はいいのよ、あなた」
ひとつ向こうの席から瑠璃は、人ごとのようなぼんやりとした顔をして、二本目のコロナ・ビールにちびちびと口を付けていた。
「冷静になればちゃんとわかる人間でしょ? だったら、どうすればいいか考えなくちゃ、ね。『どうして美純ちゃんの力が必要なのか』、『そのために何をしようとしてるのか』、あなたはまずそのことを彼女に伝えるべきって、思わない?」
決して強制ではなかった。ただ、翠は俯くように頷いていた。