Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫8
「多分、ね。こいつにとって、名前を間違えられること自体はきっとよくあることなんだと思います。なのに、こんなに神経質になっているのは、あなたという人間が我々にとってまだ得体のしれない何かだからでしょう?」
「得体の……しれない?」
「あなたの目的は十分わかった。でも、あなたの動機がわからない。美純に執着しているようで、その実、彼女のことを知ろうともしていない。『名前くらい』だけど、『名前すら』でしょう? そんなんじゃ、美純だって不愉快にお……」
「違うのっ」
また、会話を途中で遮られた。
ムッとして、彼女に向けていた視線を逸らしたくなる衝動を抑える。一度、目を伏せて気を沈めようとするが、意志をもったかに抵抗する瞼が重くて開くのに一苦労する。
「……何が違うんです?」
精一杯、感情が声に出ないよう努めた。
「もう、今更弁解のしようもないけれど、悪かったと思ってる。私って、駄目なの。思い込みが強くって、一度焼き付いたイメージがなかなか消せなくなっちゃう。だから、美純ちゃん……」
すると、彼女は急にスッと立ち上がり――
「ごめんなさい」
そう言って、頭を下げた。
歳の10は離れているだろう美純に対して、真摯に、謙虚に。
意外だった。プライドの高そうな女だと思っていたから、尚更だ。言い訳や取り繕いをして、絶対に非を認めようとはしないだろうと思っていた。が、彼女の瞳には美純に対しての裏ない反省の色しか写っていない。もし、そう見えるのが偽装なのだとしたら、この翠という女は相当な悪女だろう。だが、その心配はないはずだ。トオルがさっきからカウンター越しに見ている彼女の目は、まるで鏡のように彼女自身の感情を過敏に映している。
この女は多分、そこまであざとくはない。
ただ、トオルにそのことが伝わってきたとしても、肝心の美純にうまく伝わっているとは限らない。口を真一文字に結んでウンともスンとも言わない彼女は、まだ少女なのだ。若さ故、一度生やした角をそう簡単に引っ込められなくなってしまう気持ちもトオルは十分理解できたし、自分の失敗を失敗と素直に認められる大人を理解できるようになるには、彼女にもっと多くの経験が必要なのもわかる。
妙な感じだった。
トオルは別に、美純を面倒事に巻き込もうとしている翠を良く思っているわけではないのだ。この会話だって、言ってしまえば体よく彼女を追い払うために切り出したものだ。なのに、いつの間にか目的を忘れ、気が付けば彼は翠との会話を楽しみ始めていた。鋸葉状の葉を一枚一枚剥し、真ん中にある花の蕾を探し出すかのように、自分に対してなかなか険のある態度を緩めようとしない翠という女の性質を少しずつ暴いていくことに、興味や一種の興奮を覚えていた。
出会ったときの印象こそ悪かったが、今では多分、翠という女性はトオルの中で好きな人間の部類に入っている。
劇的な変化だ。そう思うとなんだか急に面白くなって、トオルは自然と向かいに座る二人に見付からないよう控えめにほくそ笑んだ。
しかし、だからだろうか?
何故、美純を――――尚更、それが引っかかった。理由を知ることが、翠の本質へ近付くことのように思えた。そして、いまやそのどちらもがトオルにとって関心の対象だ。
ひと通りオーダーをやりきったあとの手をソープで洗い、ひと息つこうと冷蔵庫から黒ビールの瓶を取り出す。見るとそれが庫内に残る最後の一本だったが、ほとんどの客が食事を済ませ、あとは食後のコーヒーを楽しむばかりだから構わないだろうと思い、栓を開ける。
ほろ苦い味わいと口当たりのボリューム感をいい意味で裏切る穏やかな喉越しが、労働のあとの渇きと疲労を労い、癒してくれる。
けふっ、と小さくげっぷを漏らし、それからなんとなしに二人の顔を眺めてみた。
目を逸らし、翠を視界に置かないよう努める美純と、再び席に腰を下ろし、微かに表情を曇らせている翠。二人の微妙な距離は『時間』が縮めてくれるものではない気がした。考えるところがあったせいか、トオルは自然と気抜けたような顔をしてしまっていた自分に気付き、眉から下の表情を引き締める。
翠に訊ねたい幾つかのことを、彼は会話の手練手管を駆使して聞き出すことも悪くはないと思っていた。が、トオルは敢えてそれをしないことにした。変に遠回りな言い回しよりも、シンプルに訊きたいことを訊ねたほうがより彼女の本音を聞ける気がしたからだ。そして、多分、それこそが美純の知りたいことのような気もしていた。
トオルは翠の座るカウンターを右手の中指で軽くノックして、小声で問いかけた。
「安芸さん。なんで、美純なんです? やっぱり、俺にはピンとこない……」
ふっと顔を上げてきた翠の視線に、トオルはさらに問い掛ける。
「確かに俺だって、美純の歌をうまいなとは思いましたよ。でも、今時、カラオケBOX辺りに行けば、歌のうまい子なんて他に幾らでも見付かるはず。なのに、だ。あの結婚式の日から二週間近く、あなたが頻繁に美純へ電話やメールでコンタクトを取ろうとするのは何故なんですか? そこまでこいつに固執す……」
「そこまで、って? ……ええ、そこまでよ。そんなの、当然でしょう?」
翠は急に立ち上がり、またもトオルの会話を遮った。
彼女はそういうタイプなのだ、と――もう三度目ともなれば、いい加減諦めるべきなのかもしれない。話の腰を折るどころか、会話する気力までへし折るのは、もしかしたら一流の交渉術だったりするのかと、トオルは呆然を通り越して失笑してしまった。しかも、目の前の彼女はまだこれっぽちも言い足りてない目をして、ぷっくりとした唇を精一杯固く噤んで、そんな表情で翠は会話の主導権をトオルに返したつもりでいるようなのだ。
トオルはとうとう白旗を上げた。
「わかった、わかった。もう、頼むからアンタの意見を全部聞かせてくれ」
道でも譲るかのように、右手を差し出してみせる。
すると、それを待っていたかのように、翠は突然早口で喋り出した。言葉の濁流は、ダムから溢れ返った水のようにトオル目掛けて押し寄せてくる。面食らったトオルは、慌てて大きく息を吸い込むことしかできなかった。
「いい? あなたの言うように、歌のうまい子なんて確かに世の中にはたくさんいるわ。でも、ね。歌のすごい子はそうそういないの。あなたは、あの日の彼女の歌を聴いて何も感じなかったの? 普通、あんなトラブルの中で、それでも無理に歌い始めたら、でしゃばりだとか空気が読めないとか大概難癖つける奴が一人か二人、いるものよ。でも、酔っ払い倒したオヤジも、神経質そうなおばさん連中も、誰も何も言わない……言えないわよね。圧倒されて声なんか出せなかったんだから」
翠はそこで一旦口を噤むと、スッと視線を落とし美純を見た。
その瞳がなんだが大切なものを愛でるかのように細められ、同時にその中に憧れや羨望のようなキラキラとした輝きを溜め込んでいるのを、トオルは見付けていた。
翠の唇は、またすぐに滑らかになった。
今度も捲し立てるような大量の言葉の礫に、トオルは抵抗する術なく、じっと息をひそめるだけだ。
「歌を唱うのにだって技術はいるわ。訓練を重ねて、テクニックを身に付けたり、音域を広げることも絶対に必要だと思う。でも、本当にすごいアーティスト達はそれだけじゃなくて、歌に説得力があるの。誰も抗えない、耳にしたら声も出せない迫力とか凄みみたいなモノ……。私は父や祖父の仕事の関係で子供の頃からそういう人達を見てきたから、なんとなくだけどわかるの。古くは、坂木一九さんとか田島四郎さん、最近だとタケダテモさんとかAnemoneのKeyちゃん。……なんていうか、見えるの。空気が『ビリビリビリッ』て震えるのが。それって、まるで雷とか竜巻みたいな規格外のエネルギーな感じがするのよ」
文字通り、嵐が過ぎ去るのをじっと待つ気分だった。
様子を伺うように翠の顔を覗き込むと、彼女は思い出したかのように最後にもう一言、付け加えた。
「私には絶対に成し遂げなければいけない大きな目標があるの。でも、それは私の力だけでどうにかなるものじゃないわ。だから、パートナーを探してた」
「それが、美純だって、あなたはそう言うんですか?」
「ええ。彼女なら……ううん、美純ちゃんしかいない。私にとって、彼女との出会いはチャンスなの。これをみすみす手放したりなんか、絶対に出来ない」
「チャンス、か……」
言葉をなぞるように呟く。まるで、その言葉の意味を確かめるかのように。
そんなセリフを恥ずかし気もなく言う人間に、トオルは本当に久しぶりにあった気がしていた。ずっと昔――多分、トオルがガムシャラになって毎日を駆け抜けていた時期。バルセロナでの最初の春。そんな昔まで、一瞬で思考は遡っていた。
ハッとなって、胸が痺れた。
思い出したのだ。
それは、あの頃――19歳の自分だ。
痺れが不意に疼痛に変わった。自然と眉間に皺が寄った。口にした黒ビールが、妙に苦かった。
何かを感じて視線を向けると、そこに美純の視線があった。
じっと、トオルの目の深いところまで見詰めてくるような美純の瞳。
なんだか、そこにしか逃げ場がないような気がして、トオルは身を潜めるように彼女の瞳に助けを求めていた。疾風に吹き飛ばされないように、掴まって、肩を小さくして。
そんな時だった。
ガシャガシャっと荒っぽい音を立ててドアが開いた。
ゴトゴト、ガラガラと音を立て、随分大きな荷物が店内に押し込まれた。
「ふぅー、まったく。なんで、この国にはポーターがいないのか理解できないわ」
そのあとから店の敷居を跨いだのは、珍しくフォーマルなグレーのパンツスーツに身を包み、髪をキュッと結い上げた瑠璃だった。
「ぶえなす・のーちぇす~。……ったく、日本の夏は女の敵ね」
一瞬、息を止めて、それから小さく吸った息を嘆息に変えて吐き出した。
面倒くさいのが来た、とトオルは顔を覆いたくなった。