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Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫7

「よかったら、新しい一杯、お勧めします?」

 何気なく聞こえるように言ったのは、気まずくなってしまった二人の間の空気を自然と有耶無耶にする、トオルなりのいわば助け舟のつもりだった。視界の端っこに美純の不機嫌な視線を感じるが、それには敢えて気付かないフリをしておく。

「…………」

 答えはなく、返事もない。視線はずっとカウンターの上に落ちたまま。

 ただ、そんな彼女の邪険な態度が、気に入らないトオルのことを頑なに無視しようとしているからでもなく、かといって今夜はすごすごと退散する気になったわけでもないのだと、彼はその時なんとなく気付いていた。長いまつ毛に隠れがちな瞳の彩が、ゆらゆらと揺らめいてそう言っていたからだ。

 多分、機嫌を損ねてしまった美純に対してどう接したらいいのかわからないのだろう。

 鉄のように固くした表情とは正反対に、あまりにも感情露な瞳。

 安芸翠という女性の性質の一片をトオルがほんの少しだけ理解した瞬間だった。

 ひとつのことにのめり込むと、そのすぐ隣りのモノまで見えなくなってしまうくらいの固執。人とは少しズレたところに置かれた視点とこだわり。まるで未来を覗く眼鏡のような女だ。それは明日のことを知ることができる代わりに、たった今が見えない不完全な道具のよう。

 そんなふうに『何か』に彼女を置き換えて想像してみてから、もう一度あらためて顔を覗き込んでみると、どうしてか急に親しみやすさのようなものを覚えてしまった。それくらい、彼女は無警戒で素直な曇りない目をしていたのだ。

 トオルは翠からの返答を待つのを諦め、振り返った先の棚から銅製のマグカップをひとつ、取り出した。ロシア産の透き通るようなクリアな味わいのウォッカを、ドライで苦味の効いたジンジャーエールで割り、フレッシュライムを絞って、そっとアップ。彼女の目の前に差し出した。

 すると、翠の目は一瞬驚いた色をしてから、すぐに表情をまじまじと変えた。好奇心を色にたとえるなら、たった今の彼女の目の色がそうだ。

「……なに、コレ?」

 トオルは自然と笑顔が出てしまった。

「んー。モスコミュールって、知ってます?」

「知ってるわよ、それくらい。っていうか、なんでカップなのって話よ。普通、グラスで出すでしょう? それとも、私に対する嫌がらせ?」

 新たな興味の対象をそう結論づけたらしく、彼女は一旦まっさらな顔をしてからムスっと表情を作り変えた。ぷっくりとボリュームのある下唇の端を釣り上げると、それだけで十分に不満そうに見える。

「ダブついた在庫に頭を悩ませた者同士の悪あがき、というか。それがハリウッドで生まれた、モスコミュール本来のサービス・スタイルなんですよ。……意外だな、ご存知ではありませんでしたか?」

 二言目は作為的に、だ。

「ぐっ……。ふぅーん、そぉ……」

 曖昧な返答には肯定も否定も含まれていない。

 プライドは高め、自尊心はほどほど。こういうタイプは努力は惜しまないが、そもそも努力自体が不得手な人間が多い。最初から最後まで第8レーンを走りきってしまうような、よくいえば『努力家』。ただ、アウトコース目一杯の遠回りの道程は、普通の人間なら当然避けて通る泥土の道なわけで、結果、こういうタイプの大半が弄れば弄った分だけ、積み重ねてきた徒労の黒歴史を披露してくれたりするのだ。

 はたして、彼女の場合はどうだろうか――?

 トオルは自分の口元が悪戯っぽくほころんでしまうのを抑えられず、翠の目に映らないようにそれとなく俯いた。

 無論、翠はそんな彼の様子に気付くはずもない。

 彼女の方も自分が憮然とした表情をしているのを見られたくなくて、無理に顔を隠すようにマグカップを傾けていた。が、むしろ隠れていない目の部分が強調されて、思ってることが丸わかりだ。トオルは咳払いしようとして思わず数回むせ返してしまった。

 心配そうな顔をした美純に首を振って安心させてから、すーっと呼吸を整える。

「あの……脅すつもりじゃありませんけれど、こいつ、一度へそを曲げるとなかなか元に戻らないんで、覚悟しといたほうがいいですよ」

「…………え。」

 ため息よりも重たい音がした。

 がたたっ、と音を立てて腰を浮かせた気配もした。

「ちっ、ちょっとぉおー!! それって、どういう意味よっ?! 私がいつ、そんなふうに……」

 自分のことを言われて眉をハの字にした美純が憮然と抗議してくるが、今はこの話題を美純の側で膨らますつもりがないのを目顔で示し、無理矢理黙らせる。

「まぁ、あなたの思う通りにやり繰り出来るとは限りませんが……それでもよかったら、こいつとの間を取り持つくらいのことはしますけど」

「エッ?!」

 翠がトオルの顔を見て、一度はっきりと瞬きをした。再び開いた瞳も尚、トオルを真っ直ぐに見据えている。

 じーっ、と。

 トオルの言葉の本心を探るような視線で透かし見るかのように、奥まで。じっと。

 そうやって彼を向く瞳の色が赤みがさすくらいに熱のある褐色なのに、今更ながらトオルはその時初めて気づいたのだった。

 だが、それはそうなのだ。

 面と向かい合って視線を絡ませて会話するなんてことは、会ってから今まで一度もなかった気がする。ましてや、彼女の方からなど。ついさっきまで、トオルは翠から避けられているというよりも、むしろ相手にされていないくらいの極低温の空気をヒシヒシと感じていたのだから。自分とは接点のない身分であるかのように冷遇されてきた自信なら、トオルには十二分にあった。

 ところが、美純のことを持ち出した途端、これだ。

 益々楽しみがいがある。

 自分になかなか興味を示さない女を振り向かせるのは、難攻不落の城を堕とすのに似た大望を感じさせるものだ。美純をダシに使ってまで切ったカードがどれだけ効果を示してくれるか。無意識のうちに息を潜め、彼女に気づかれないようそっと固唾を呑んで次の言葉を待つ。

「……本当? 本ッ当に、協力してくれるの?」

 ――かかった、とトオルは思った。そして、思わず心の中でほくそ笑む。

 確かな手応えを感じ、ゆっくりと釣り糸を手繰り寄せる。餌は大好物を御馳走したのだから当然お気に召しただろう。あとは勢いよく飲み込んだ針がしっかりと喉奥に喰い込んだ瞬間を見極め、釣り上げるだけだ。

「ええ、もちろん。……但し、条件は有りますけれど」

 翠の表情がふっと警戒する。

「何よ、条件って?」

「いや、別にそんな大したことではないと思いますよ」

「そんなの、わからないわ」

「疑い深い……」

 呟くと、簡単にムッとしてしまう。顔に出るのも隠せない。翠にさっきまでのイニシアチブはもう欠片も残っていなかった。トオルの切るカード、切るカードが、どれも見事にハマっていくようだった。

「俺はただ、聞きたいことがあるだけですよ」

 サッサッサッと片手で煽る鍋の中でスパゲッティにソースを絡めながら、反対の手で持った瓶からエクストラヴァージンのオリーブオイルを流し込んで香りを出していく。すでに鍋は火から外し、予熱でもって調理していく。

「聞きたいことって、一体、何よ?」

 長く美しい眉毛が、左から右に真っ直ぐ一本の線になったような表情で翠は言う。

 出来上がったパスタをふた皿に盛り分け、仕上げに上からチーズを削り掛け、そこでトオルは一旦顔を上げて『ニヤリ』と笑ってみせた。すぐにパスタの皿を手にキッチンを出て、運んだ先の客席で一言、二言会話を楽しんでから戻り、今度は営業用の笑顔に作り替えて向けた時にはもう、翠のフラストレーションは額に深く皺を寄せるくらいに臨界スレスレだったらしい。さすがにトオルも、これは度が過ぎたと反省した。

 静かにひと息付いてから、カウンター越しの翠の耳元へ顔を寄せる。

「安芸さん。あなたは一体、美純に何をさせたいんですか? 俺は、それが知りたいんだ」

 表情を真顔にして、トオルはそっと訊ねた。

 そして、今度は彼の方からじっと翠の瞳の奥を覗き込む。赤褐色の双眼が一瞬だけ冷静さを取り戻したように見えたのだが、それは本当に一瞬だけだったようだ。

「それって、どういう意味よ?」

「前にお会いした時、あなたは美純に『一緒に仕事をしたい』とか『可能性を感じた』なんて言っ…………」

「ええ! ええッ!! 言ったわよ!」

 彼が言葉を言い切るよりも先に、翠は捲し立てるような口調で短く鋭く言い放った。質問に質問で返したトオルを見据える目元が不愉快そうに釣り上がり、瞳の奥が赤く火をつけ、熱を帯びていた。

「確かに、言った。それは否定しない。でも、だからなに? それって、あなたには全然関係ないことじゃない?」

「確かにそうです。俺にはこれっぽっちも関係ないことかもしれない」

 まるでその時の瞬間を思い起こそうとでもしているかに、トオルは深い瞬きをひとつした。

「あなた……もしも、妨害しようってんなら……」

 そこまで口にした翠を理解させるように、少し低くて重みのある声色で言う。

「そんなことを言ってるんじゃないでしょう? ある日突然、初対面の人間から『歌手にならないか』なんて言われたって、普通は唆されているようにしか聞こえないですよ、って俺は言ってんだ。あなたにはそれくらいもわからないんですか?!」

「なんでよ? 名刺は渡したでしょ。決して怪しい会社じゃない。私だってちゃんと肩書きのある人間なのよ。なんなら、会社に問い合わせてみればいいわ」

「ふぅーー、…………ったく」

「アーティストになれるかもしれないのよ? 夢みたいなことが叶うかもしれないチャンスなのよ? なのに、チャレンジしてみようって気にはならないの? そんなの、おかし……」

 一方通行の道を進んでいくようかのに次第に熱くなっていく翠を見て、トオルは煩わしそうに首を振った。

「ストップ、ストップっ。違う。そうじゃない。そんな事じゃないんですよ、今、話しているのは」 

「……?」

 翠はギロッとトオルを睨み付けてきた。

 ただ、トオルのほうはそんな彼女に臆したり怯んだりすることもなく、穏やかな表情を浮かべてから、捕えた翠の視線を拐うように左に流した。そこに居た、美純を振り向くように仕向けた。

「あっ……」

 そもそも不信感を抱えていた白い目で、美純はじっと翠のことを見据えていた。翠はそのことに今の今まで少しも気付いていなかったようだった。絶句したあと、彼女の瞳の中の温度は一辺に冷めてしまったようだ。さっきまでついていた火はあっという間に鎮火して、残ったのは燃焼で酸素を使い果たした、息苦しそうな顔の翠。

「これでわかったと思いますけれど、多分、美純だってそう思ってるんですよ」

 トオルの言葉に美純が小さく頷いた。

「たとえ、あなたの中にどれだけ確固たるな思いがあったとしても、そのことに人一倍の情熱を注いできたとしても、そのまんまの形で投げつけられちゃ、ぶつかるコッチはただの痛みしか感じない。そんな自分本位なやり方なんて誰にも伝わらないんですよ。ましてや、相手は17歳の女の子だ」

「んん……む……」

 ぷっくりとした唇が弱々しく歪む。

 本当に、ただ未来を見るためだけの眼鏡のようだと、トオルは呆れて失笑まじりのため息を吐いてしまう。

「まったく……」

 分かれよ、目の前のことくらい――とつい出掛かった言葉をぐっと飲み込み、彼は面倒臭そうに頭をかいた。 

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