Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫6
◆
美純が微妙な顔をしている。
カウンターの向かい側、いつもの席。出された生ハムとメロンに半分も手を付けていない。
しばらく俯いていた顔が、急にふっと上を向いた気配がした。視線が、トオルの背中をじっと捉えているのをちくちくと感じた。しかし、そんなふうにされても今のトオルには助け舟を出してやることは出来なかった。満席、とまではいわないものの、混みあった店内。同様に溜まってしまったオーダーで振り返る余裕はほとんどない。ちらっと一度だけ目を合わせて、微笑んでみせるのがやっとだ。
くしゅっとさせた口元が、そんなトオルへの気遣いだということはわかる。が、そもそもの悩みの原因がなぜか美純の席の隣りに陣取っているのだから、彼女の表情が暗いのも仕方のないことかもしれない。
たしか、安芸翠といったか。
初めて会った時の印象があまりよくないから、辛うじて名前を覚えている程度の女性だ。美純が受け取った名刺には、確かそんな名前が書いてあった気がする。その名刺も、初対面の相手と親睦を深めるために出されたというよりは、美純の携帯番号を無理矢理聞き出すためのただ対価のように突き出されたものだったから、尚更、トオルは印象を悪くしていた。しかし、折角の結婚式の当日に、新婦・梨香の友人であろう彼女とわざわざ事を荒立てたくはなかったから、あの日はトオルが大人になって引いたのだ。
ただ、今になってみれば、その場でちゃんと釘を刺しておくべきだったと反省する。
ほぼ毎日のように、美純の携帯には翠の着信履歴が残っていた。
それも、日に何度も。
翠は『カーサ・エム』に着た最初こそ、挨拶と二、三の会話を彼女の方から振っていたが、しばらくすると黙ってしまった。悩むでも、考えるでもなく、自宅のソファーにでも座っているかのような至極当たり前の顔をして。肩肘をついたその気怠い表情は、切れ長の意志の強そうな目元も無防備にするからか、雰囲気をいくらか柔らかく見せる。彼女は、時折届くメールに慣れた指先で返信するくらいで、じっと黙ったままだった。かれこれ数十分、そうしていただろうか。
まるで、そういう無言の言に美純がすこぶる弱いのを見透かしてでもいるかのように、その沈黙は長く続いた。
翠がそうしている間、ずっとカウンターのカクテルグラスはポツンと置き去りだ。
食事をするでもなく、頼んだギムレットもテーブルチャージの代わりだとでも言いたいのか、ほとんど口にしない。店の側からすればすこぶる有難くないタイプの客。
また、着信音がなった。
短く一回、今度もメールのようだ。
トオルは出来上がった二つのパスタを盛り付けながら、横目で翠の様子を一瞥した。
タッチパネルをすらりと細くて長い指先がなぞる。ターコイズブルーのネイルが鮮やかだ。ほんの一瞬、首をかしげたかと思うと、またすぐに続きを打ち始める。その間、翠の表情は真剣だ。
「ふう、……」
送信し終えると、ひと仕事終わったかのように彼女は深く息をつき、たった今使い終わった携帯をカウンターの上に置こうとした。ただ、投げ捨てるとまではいわなくともかなり荒っぽく置かれた携帯が、一枚板のカウンターに落ちて『ガシャッ』と派手な音を立てた。
それで、反射的に美純が肩をビクッとさせた。ちょうど、トオルがパスタを出し終えてキッチンに戻ってきたときだった。
トオルは眉をしかめた。
カウンターというのは確かに一人きりになれる空間でもあるが、逆につながりを作る空間でもあるのだ。そこに暗黙の上でのマナーは存在する。見たところ二十代後半か三十前半くらいの翠だ。その歳でそのくらいの常識がなければ、そもそもそこに座る権利は彼女にない。
戒めの意味も込め、威圧するつもりで鋭く向けた彼の目に映ったのは、なぜか自分のしたことに誰より驚いていた翠の表情だった。
「えっ……あの……す、すいません……ごめんなさい……」
彼女はしばらく自分の右手とそこにあるシルバーグレーの携帯を、まるで自分のものではないような不思議な面持ちで見詰めていた。が、周囲の沈黙と視線とに気付いて我に返ると、近くの席に座る客にはもちろん、美純やトオルに対しても申し訳なさそうな顔を向けて小さく何度も頭を下げた。その様子に驚いて、今度はトオルのほうが吐き出そうとしていた言葉を全部どこかにやってしまった。
ほんの一瞬、緊張の走った空気は、そんな翠の誠意ある態度ですぐに和やかになる。周りに座る客達は敢えて言葉にするわけでもなく、表情や素振りで水に流すことを示し、また自分達の世界に戻っていく。あからさまにホッとした表情になる翠と、逆になんだか一人置いてきぼりを喰ったみたいな気分のトオル。
「…………」
モノグラムなデザインのバッグにそそくさと携帯を仕舞う翠の様子を、カウンターを挟んだ反対側からじっと眺めながら、トオルはなんとなく胸の中に引っかかりを感じていた。
妙な気分なのは、何も自分の立ち位置が一転したからだけではない。
確かに、まだろくに話したこともない相手だ。どんな人間かなんて先入観でしか判断していなかったかもしれない。しかし、初めて会った時からずっと抱いていた翠への印象を全てと見るべきではないのかもしれないと、漠然とそんなふうに感じ始めていた。身勝手な言葉、他人の迷惑も顧みない行動、強引なやり口。トオルにしたら許せない。ただ、だからといって彼女を全否定するのもどうなのか――
そんなことを考えている間に、翠はぬるくなったギムレットをクッとひと息に喉の奥へ流し込んでいだ。
「ふぅ……さすがにもう美味しくないわね」
そう言って苦笑いをみせた。そこに悪意も皮肉もなく、単純に口に入れたものへの素直な評価だと感じられる音だった。
「ねぇ、ちょっと。私に美味しいの、もう一杯頂戴」
翠は空いたグラスを人差し指でつつく。首を傾けてみせる素振りが普通の女性なら魅力的に感じるのに、なぜか彼女がそうすると挑発的なポーズに見えてしまうのは、不思議というよりは不幸かもしれない。
切れ長の眼。造形の整った鼻筋。すっと細い顎。持って生まれた素材はどれもハイスペックなのに、それらが集まって彼女という人間の容姿を構成すると、途端に威圧感を感じさせるようになってしまう理由は、トオルにはうまく説明できない。
ナチュラルに損をしている女、ということだろうか。
新しく入れたギムレットは、また、たったのひと息で彼女の喉奥に落ちていく。
「うん。美味しい」
今度はそういった彼女を、美純もちょっと驚いた顔で見ていた。
「あの……それって、結構強いお酒なんじゃないんですか?」
「んー。そうね、そうかも」
美純の問いに軽く答えて笑顔をみせる翠を、トオルはじっと見詰めた。
「三杯目は……今度は違うものにしようかなぁ。あと、お腹も減っちゃったし」
ひとりごちって、彼女は壁に掛かった黒板の日替わりメニューを物色し始めた。そのまま、翠はしばらくじっと黒板を眺めていたのだが、急に眉をしかめて肩肘を付くと、ふっと視線だけが美純の顔を覗き見るようにして訊ねる。
「ねぇ、この店のおすすめって、何?」
「えっ?」
美純がポカンとした。
「だって、ここ、よく来るんでしょ? えっ……と、確か『ビジュン』ちゃん、よね?」
「…………」
「えっ?! あれ、違った? だって、梨香さんの披露宴の席次には、そう……」
戸惑う翠に、美純はちょっとムッとした顔で返す。
「『美純』って書いて『ミアヤ』って読みます。失礼ですけど、私、先日お会いした際に名乗ってますから」
言い切った口元をグッとすぼめ、顎先に皺を寄せて、美純はちょっと憮然とする。その表情を見て、翠は『しまった』と眉をしかめ、唇の端を噛んだ。二の句を継ぐ代わりに小さな舌打ちをしたのがトオルにはわかってしまった。
なんとなく、翠という女を見たそのままで判断してはいけないような気がした。