No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 5
しばらくして、トオルは両手に一つずつカップを持ってキッチンを出た。片方はマグカップで、外側が赤一色のデザイン。普段自分用に使っているもので、所々欠けたり削れてたりはしているが、ちょっと愛着のあるものだ。もう一方は、白地に青の太いラインが入ったシンプルなデザインのカップ。その白と青のカップの方を美純の前に置いた。
「ミルクは?」
トオルが訊くと、彼女は思ったよりも素直に反応して「うん……」と頷いた。
「待ってて」と言って微笑みかけたトオルは、もう一度キッチンに戻る。それでまた店内はしばらく静まり返ってしまうが、すぐに『ピピピ、ピピピ、』と電子レンジが完了を示す電子音を鳴らしたおかげで、部屋の中は重苦しい沈黙にはならずにすんだ。
「はい」
「ありがと。……ごっっ、ございまひゅっ!」
美純は先程から店内に漂うコーヒーの薫りにすっかり気が緩んでしまったのか、すっかり気の抜けた返事をして、慌てて言葉を丁寧にしようとした。
顔の上下だけで軽く返事をしたトオルは、そんな彼女の様子を眺めながら近くの椅子を引き寄せて自分も腰掛けると、持っていたマグカップを傾けた。
いれたての熱いコーヒーがゆっくりと口内に流れ込むと、その香ばしくも甘い薫りが鼻腔を通って頭の芯まで廻っていく。心地よい苦味とほのかな酸味が舌の上に広がる。体の中から温められたからか、どうやら彼も気が緩んでしまったようだ。
「……くくくくっ」
急にトオルはくぐもった声を漏らし始めた。最初のうちは控えめにしていたのだが、そのうち我慢できなくなった。とうとう堰を切ったように遠慮ない笑いが飛び出た。
「ははは、はッ。……くくくっ」
なんとか笑いを押し殺そうと俯いてみたり別のことを考えたり、と努力した。しかしチラッと覗き見た美純の顔が再びトオルの笑いに火をつけてしまう。
さすがに美純も眉間に皺を寄せた。
理由のよくわからない笑いに美純だって不満を感じたのだろう。むっとした顔をして下唇がぷくっと膨らんだ。顎の先っぽに皺を作ったそんな彼女の顔があんまりに可愛らしくって、トオルはさらに吹き出してしまった。思わず顔の前で手のひらをあわせて『ゴメンね』のポーズをしてから大笑いし出した。
「……なんで、噛むのか。……ひっ……『ひゅ』って、……言った」
笑いすぎで涙目になって言われれば、確かに馬鹿にされたと思うだろう。美純は色白の小さな顔をみるみる赤くし出した。
「ち、ちょっと、何よッ!! そんなに、わ、笑うほどのことじゃないでしょ!?」
恥ずかしいのと腹立たしいのをまぜた感情が美純の目の周りをかっかとさせている。息巻く彼女は急に立ち上がろうとするが、手に持ったコーヒーカップとソーサーが一緒になってカチャカチャ音を鳴らし、顔色を変えた美純をなだめようとした。
しかしそれをわずらわしそうにテーブルの上へ荒っぽく置いて、がばっと立ち上がった美純はトオルを見下ろしてきた。
自分の言動に反省しても、もう遅い。
「いやまぁ、そうなんだろうけれど……。なんかさ、俺、好きなんだよね。一所懸命なのに全然上手くいかないの人とか物とか……」
なんとかうやむやにできないかとした弁解もさらにうまくない。トオルのそんな言いぐさに、美純はますます火が点いたようにカッとなった。
「あなたッ!! やっぱり失礼よっ。人のこと、見下してッ」
一歩迫ってきた美純の顔は、口を引き結んで目をつり上げてトオルのことを鋭く睨みつけた。その真っ直ぐぶつかってくる少女の感情に、トオルも感化されたのだろうか。
「なんか、まるで自分のことを見てるようで。半分は、思い出し笑い……かな」
思わず本音が出た。
「な、なによ、それ?」
「いや……ゴメン、気分を悪くさせちゃったよね。謝る」
トオルは視線を自分のカップに落とすと、ポツリ呟くように言った。
急に頭を下げられて何となく言い返せなくなったらしく、美純はしぶしぶな表情を作りながら、けれどゆっくりと椅子に座り直した。
それから、しばらく2人の間に会話はなかった。
店内は静まり返っていて、時折『ブゥン……』と冷蔵庫の低い稼動音が響くだけだった。
窓の外、雨はまだ止みそうにない。むしろ雨足は強くなる一方だ。けれど、その雨が窓を叩く音を飲み込むくらい深い沈黙が、今のトオルと美純の間を流れていた。
ふと、トオルは自分のカップをのぞき込んだ。中はもう空っぽだった。
新しいコーヒーを入れようかと立ち上がりかけたとき、美純の声がして引き止められた。
「あなたの……」
「うん?」
最初、彼女の声は聞き取れないくらいの小さな声だった。トオルは無意識で聞き返していた。
「あなたのそういうところ、私、嫌い……。だって、そこまで笑うことないでしょ。あなたがどんな理由でそうしたかは知らないけれど、私がどんなに一所懸命だったか、考えたこと、ある? ……嫌な人」
『嫌な人』……結構響く言葉だなと、トオルは美純の方を見て思った。
トオルは一度座り直してから、美純に向けていた視線をゆっくりと床に落とした。フローリングの床板の一枚一枚を目でなぞってみる。
「あぁ、そう。……悪いね、嫌なヤツで」
口から出た言葉は随分と大人気ないものだった。
それにちょっと自嘲した。
「……で?」
「えっ!?」
トオルの口から出てきた言葉の意味を、美純はすぐには理解することができない。
「それで……今日、君がここに来たのは、俺に嫌なヤツの認定をするためだけ?」
『あっ』と言った彼女の顔が、三段階ほど表情を変えて狼狽していく様は面白かった。
「い、いいえっ! きょ、ちがッ……今日、来たのはッ! あ、あのっ」
あたふたの見本を教材にするならこんな感じだろうと思えるくらいの見事な動揺をして、美純は言葉を噛む。急に立ち上がろうとしたお尻がすぐ脇のテーブルの角にぶつかって、その上にあったコーヒーカップがガシャガシャと不機嫌そうに鳴った。うっ、と呻いてちょっと涙目になって、でもそれ以上は声を出さないよう耐える美純の顔は、普段女の子が見せることのないような結構すごい顔つきだ。
その様子を、トオルは黙って見詰めていた。
やがて、じわじわと表情を取り戻していく彼女の顔は、水に入れると膨張するワカメを連想させて内心笑ってしまったが、さすがにもうそれは顔には出さないでいた。
「きょ、今日は、その……えっと……」
さっきまでの強気な口調の彼女はどこへやら、だ。
大慌てで言葉を探す美純は、『あ』とか『え』しか口から出てこない。
しばらくはそんなふうに狼狽やもじもじを繰り返す美純を、トオルは根気良く眺めていたのだが、しかしいつになってもそれ以上進展しない会話に焦れた彼の首は、そのうちだんだんと左に傾いてきてしまう。
だから、というのは言い訳に過ぎないのだが。
次に出てきた彼女の言葉にトオルが悪いとは思ったけれど笑ってしまったのは、誓って言うが悪意ではなかったのだ。
「ご、ご、ごめんなしゃひっ!」