Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫3
「ふう……」
白のタキシードを着込み、髪も整え、準備万端の平太がブライズルームの一人がけソファーにどっかりと腰をおとした。
ひとつ大きな欠伸。
目尻に滲んだものを右、左、と指の腹で拭うが、拭ったそばからまた欠伸をしている。食傷気味な表情を浮かべているのは、どうやらついさっきまで数人に寄ってたかってアチコチ弄り回されてうんざりしたかららしい。
「なんだ、なかなか見事な新郎っぷりじゃないか?」
「羨ましいか?」
皮肉をたっぷりと塗り付けたセリフに、平太は迷い犬みたいな情無い顔をした。ただ、助けを請われてもこればっかりは無理というものだ。結婚式の日の新郎の役回りなんて新婦の引き立て役でしかないとはいえ、まさか代理なんて立てるわけにもいかないから、彼は今日一日、梨香のためのお飾りに成りきらなければならない。
「朝っぱらから準備、準備。始まる前には打ち合わせ。写真を撮ったり、挨拶したり、髪を弄られたり、直されたり……」
「まぁ、そういうもんだからな」
「……大きな声じゃ言えないんだがな」
「何だ?」
わざとらしく周囲の様子を伺う素振りまでしてから手招きするから、どんなに聞かれるとまずいことなのかと思えば、実に下らない内容だった。
「もう、こんな事いいから早く飲みてえよ」
「馬鹿。いいから大人しくしてろ」
悪戯小僧のような笑み。
式も結婚生活もようやく今、スタートラインに立ったところだ。なのに、始まる前からこんな調子では先が思いやられるというもの。
トオルはそんなろくでなしな新郎に呆れて失笑してしまった。
「それはそうと、急な話だったよな。式の日取りが決まったの、一ヶ月前だろ」
「しょうがないだろう。近々で式場を押さえられるのが今日しかなかったんだから」
「別に、慌ててやる必要もなかったろうに」
平太はやや表情を曇らせた。
「お前な。俺の大事な嫁さんの一生に一度を、でっかい腹でさせる気か?」
そんな横柄なセリフを、なのに申し訳なさそうな顔で言うのだ。
惚気、と簡単に受け取るにはトオルも歳をとりすぎている。
平太は決して思慮の浅い人間ではないから、それが色々と考え抜いた結果だということくらいわかっていた。ここに至るまで二人が、特に梨香がどれだけ苦悩したか知る身としては、妻への愛情で出来た夫の我儘に付き合ってやるくらいの思いはある。
だからトオルは、敢えて本音をこぼして迷惑そうな顔を作った。
「呼ばれる方にだって都合ってものがあるんだ。俺だって今日は店を閉めてきているんだぜ」
妻にのぼせた馬鹿な夫に振り回されるのも、今日だけなら目をつぶってやれる。
なのに、だ。
「代わりに世界一の女を拝めるんだ。安いもんだろう?」
億面もなくこんなことを言い返してくるのだから、一体どうしたらこの男のことを悪く思えるものか。
トオルは平太の胸板を小突いて、苦い笑みを浮かべたのだった。
昨日の夜に急に電話をもらい、式が始まる前に一度顔を出してくれと呼び出されていたので、トオルは美純を連れて彼らの元を訪れていた。用事があったのは美純の方らしく、今は梨香と二人で何かを話している。
訪ねたブライズルームはアイボリーを基調とした壁紙と、白と褐色で統一されたテーブルや椅子、装飾品が置かれた非常に落ち着いた空間だった。壁の一角には部屋全体が映り込むくらいの大きな鏡がはめ込まれ、奥にはどうやらシャワールームもあるようだ。
室内に入った途端美純の目を引いたのは、今日梨香が着るだろう二着のウェディングドレスだった。
一着はシンプルなデザインに手の込んだ刺繍の入った白のドレス。もう一着はフリルやリボンがたっぷりの青いドレス。美純はしばらくそれに目を奪われ、文字通り恍惚とした表情を浮かべていた。
さすがにトオルはジロジロと見たりはしなかったが、ぱっと見ただけでその二着は梨香にピッタリのデザインな気がしていた。
新郎でもないくせに何を考えているのか。
内心、ほくそ笑んでしまった。
「ピアス、渡せたのか?」
あまり長居するのも悪いと考え、美純と梨香の話が済んだあと早々に部屋を後にすることにした。待合室に向かう赤い絨毯の廊下を二人で歩きながら、トオルは美純にそう訊ねた。
「うん。すっごく、喜んでくれた」
美純は、着ているミントグリーンのショートドレスみたいなくしゅくしゅの淡い笑顔を浮かべて頷いた。
「大事にしてくれるって。今日も、お色直しのときに付け替えたいって。やっぱり、あれを選んでよかった」
「そうか」
その表情を見れば梨香がいかに喜んだのかがわかるくらいだ。
トオルもつられて自然と笑顔が浮かんだ。
「よかったな。きっと、お前の思いが伝わったんだろ」
「へへへっ、だといいな」
梨香が美純から贈られた品に感慨を覚える理由は薄々察しが付いた。
彼女と平太は、以前トオルが話を聞いていた限りでは式を上げることを諦めていたのだ。
というのも、平太の父親は非常に厳格な人物で、たとえ理由がどうであれ未婚のままの関係を続ける自分の息子を許そうとしなかったのだ。
その上、梨香は懐妊した。きっと、伝えることもできなかったろう。
結果的にほぼ絶縁状態になってしまった父と子の関係。
それを和解に導き、今日の日を向かえるまでに至ったきっかけ。
「――そんなの、ダメだよ。絶対にダメ!!」
美純が平太達と初めて出会ったあの日、『カーサ・エム』で言ったひと言。事情なんて知るはずもないから、彼女は自分が思ったことを真っ直ぐ言葉にしただけだろう。
ただ、人間、歳をとるとどうしても余計なことまで考えて、心が固くなってしまう。
背中を押してくれる、何か。
そんなものに頼らなければ踏み出せない重たい一歩というのもある。
美純のあの一言がなければ、きっと平太は父との関係を改善しようとはしなかったはずだ。
今日という日を迎えられたことも、彼ら家族の形があるべき様に戻ったことも、あの日のひと言があってこそ――
あくまで推測だった。
それでもトオルは美純のことをちょっと誇らしく思っている。
「ところで……さ」
「ん?」
「さっきは梨香と何を話してたんだ?」
女同士の会話の内容を訊こうとするなんて、なんだかちょっとやってはいけないことのような気もするが、結婚式の当日朝にわざわざ新婦から呼び出されてまでする会話、というのはちょっと気になった。
ただ、それは別に秘密にするような内容ではなかったらしく、顔を上げた美純は一度ニコッと笑ってからあっさりと答えてくれた。
「無理に招待したのに来てくれて、ありがとう、って」
「…………」
「それと、私は誰も知ってる人が居ないから、自分の友人側の席にするよりトオルのそばの方がいいかと思って席次を組んだって。そのせいでオッサンばかりの席になっちゃってゴメンね、って言ってた」
「ああ、確かにそうか」
言われてみれば、美純は梨香や平太と知り合ったのも最近で、今日の招待客の中では毛色の違う存在だ。いくら梨香のためとはいえ、何時間も居心地の悪い思いをするのは正直辛いはずだ。
「それで、ね。もしも男の人に言い寄られたら「私、お金持ちのおじ様としかお付き合いしません」って言いなさいって。コックさん達みんなお給料安いから、それできっと追い払えるわよって言われた」
そう言ってから美純はくすくすと笑い出した。おそらく、彼女は梨香がそう言っているときの表情でも思い出して笑っていたのだろう。
まったく、梨香らしい対処法だ。
「それより、今日、披露宴で歌うんだろ。そっちのほうはどうなんだ?」
待合室まで移動し、空いていた二人がけのソファーを見付けて腰掛けた。
式まではまだ時間があるからか、その場にいるのはほとんどが親族のようだった。新郎、新婦のどちらの親族かもわからない相手を、顔のパーツや輪郭に見られるDNAの共通点を頼りに二分するのはなかなか面白い時間つぶしだ。目が合うたびに「本日は……」というお決まりの挨拶を繰り返しながら、ふとトオルは思い出したことを美純に訊ねた。
彼女は「うっ」といって言葉に詰まってしまった。
「おいおい、なんだよそのリアクションは。大丈夫なんだろうな?」
「んんー、まぁ、なんとか……かなぁ」
もごもごと答えてから、ちょっと自信なさそうな顔をして天井のほうを見てしまう。
「不安だなぁ」
「そんなこと言わないで。私だって、梨香さんにどうしてもって頼まれちゃって、断りきれなかっただけなんだもん」
音がしそうなくらいに肩を落としたって、今更どうにかなるもんじゃない。
「私、人前で歌ったことなんてないのに……」
「嘘つけ、お前、しょっちゅう鼻歌歌ってるじゃないか」
「そんなの全然、別物でしょッ!」
追い打ちをかけるつもりはないが、あとから知るよりは先に言っておいたほうがいいと思ったので、トオルは出来るだけ刺激しないようにそっと美純に耳打ちした。
「披露宴、百人近く来るらしいぞ」
「う、うぅ……やっぱり、辞めとけばよかった……」
相当に困った顔だ。
しばらくして、美純は披露宴の司会の女性に呼ばれて部屋を出ていった。打ち合わせとリハーサルとのことだったが、彼女はあまりの緊張にトオルの励ましの言葉も耳に入っていないようだった。