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Sweet,Sweet,Sweet ≪チョコとバニラと蜂蜜だって、こんなに甘くはない≫ 1

 

 この辺りは盆地の中に町があるから、吹いてくる風は周囲に見える山や丘や木々の生い茂る場所を通ってからここまでやってくるのだろう。まだ自然の多く残る土地特有の土や水の存在を感じさせる柔らかい空気をのせてトオルの横を通り過ぎていったのは、そこに熱気と湿度をまぜ合わせて出来た夏の風だ。

 去っていったあとに残るのは、むっとするくらいに濃くて深い翠緑の香り。鼻腔の奥まで入り込んでくるその刺激は、喉元に苦みに似た錯覚を塗りつけ、やがてゆっくりと消えていく。

 太陽が頂点から少し傾いた午後。

 普段、滅多に降りることのない駅。見慣れない景色。

 そのせいか、空に積み上がった入道雲までいつもと違う気がしてしまう。

 駅前にはコンビニエンスストアと年期を感じさせる暖簾のかかったそば屋がそれぞれ一軒。ちょっと離れた場所に郵便局と、全国チェーンのデパートによく似た名前の胡散臭そうなスーパーマーケットの立て看板が見える。

 トオルは今ではおそらく誰も使わなくなった電話ボックスの陰で日差しから身を隠しながら、前を通り過ぎていくたくさんの影を眺めていた。白いブレザーとタータンチェックのパンツやスカートに身を包んだ少年少女が、ぞろぞろと列を作って自動改札へと吸い込まれていくのをなんとなしに見送った。

 この場所に来てからまだ15分と経っていないのに、もう何度、腕を組み直してしまったか。

 立ち止まると、すぐに手持ち無沙汰に感じてしまう。

 それは、しばらく自分以外の誰かに歩幅を合わせることがなかった証拠だ。

 長くそうだったから、誰かと待ち合わせるという行為自体がずいぶんと久しぶりで、そういう時間の使い方を体が忘れてしまったらしい。もしも今だに煙草を止めていなかったら、彼の足元には幾つも吸殻が落ちていたに違いない。

 所在無く、トオルは足元に散らばった見えない吸殻をつま先で掃いて集めてみた。

 やがて、交差点を渡ってきた集団の中にその顔を見付けることが出来た。

 左右を男子生徒に挟まれ、話しかけられると笑顔で振り向き、それに答えている。時折、ひとり挟んだ隣りの友人にも会話を振りながら、少女は列と同じスピードでゆっくりとこちらに向かってくる。

 背中まであった長い髪を、最近少し短くしたのは暑いからだそうだ。そんな男みたいな理由で髪を切ったのに、彼女はなんだか一段と女らしくなってしまった気がする。その髪が夏の日差しを吸い込むと艷やかな深緑色に見えるのも、瞳の色がグレーがかった黒なのも、彼女の顔を前よりずっと近くで見ることが増えたからこそ気付いたことだ。

 待っているトオルの姿を見付けたのは朱奈の方が先で、彼女が指さしたのを見て美純は表情を明るくした。ずっと離れた川向こうにでも知らせるみたいに大きく手を振られたが、こっちは恥ずかしくってどう返したらいいかわからない。

 話す声が聞こえるくらいの距離まで近付いてから、美純は朱奈や隣にいた男子生徒達に手を振って彼らと別れ、トオルのそばに駆け寄ってきた。

「ごめん、待ったよね?」

「ん? …………と、」

「えっ、なに、どうしたの?」

 横を通り過ぎていく朱奈が小さく会釈をしてきたので、トオルはそれに手を振って返したのだ。

 最近は朱奈ともよく顔を合わせるようになっていた。

 あの日、留利子に自分達の関係を知られてしまうきっかけを作った彼女は、ただ、ちゃんと話してみると至って真面目でしっかりした子だった。成績も優秀で、校内では期待の生徒らしい。真面目で実直、故に曲がらない――朱奈はそんな不器用な娘だ。だが、だからこそ美純が彼女を信頼するのも頷ける。

 彼女の言葉に嘘はない。

 それがいいか、悪いかは別として。

 トオルがそうするのに気付いた美純も、彼女のほうを振り向いてもう一度手を振っていた。自動改札の向こう側に吸い込まれていく朱奈達を見送ったトオルは、だが、ふと視線を感じて逸らした目をもう一度向ける。

 そこには、一緒にいた男子生徒の敵意に似た視線があった。

 トオルの目に気付いた彼は、すぐに顔を俯けるとホームへと向かう人並みに吸い込まれてしまったが、その目は確かにトオルを鋭く睨みつけていた気がする。

「トオル?」

 呼ばれて振り返ると、美純は小首を傾け怪訝な顔でトオルを見ていた。

 彼はすぐに口角を上げて笑顔を浮かべてみせる。

「どうかしたの?」

 首を横に振った。説明するのもこそばゆい。 

 だから、言葉を返す代わりに彼女の手を取って握った。そうしてやると、彼女は安心に近い納得をするのだ。有耶無耶にされているとも気付かず、代わりに美純の目はひだまりを見付けた猫のように細くなる。

 頭を撫で、喉を鳴らしてやりたくなるような、そんな屈託のない表情。

 きっと、あの少年が欲して止まないのは美純のこんな淡い表情なのだろう。奪い取ってでも自分のものにしたいのかもしれない。だからこそ、向けてくる感情は尖り鋭くなってしまうのだろう。

 それは多分、若さが生み出す熱量だ。

 『カーサ・エム』で顔を合わす時には感じることはなくとも、こうやって彼女のいる『世界』に足を踏み入れるとそのことをつくづく思い知らされてしまう。

 美純と自分の間にある隔たり。美純はそれを感じてはいないのだろうか? 彼女もまた、その胸の中に若さの熱を帯びているのだろうか?

 ずっと昔、トオルがスペインに飛び出した頃、彼にもまだそんな熱量があったはずだ。けれど、10数年も経てば激しく燃え盛っていた炎だって、やがて燻り消えてしまうものだろう。

 トオルは、美純のことが好きだ。その気持ちに嘘はない。だが、自分には彼女と同じ時間、同じ熱量で生きることはおそらくもう、出来ないのだ。

 その疼痛にも似た悩みが、美純と付き合い始めてから消えないでいた。

 

 待ち合わせたのは単純なデートの約束ではなく、明日の準備のためだ。

 トオルは仕立ててもらっていたスーツを受け取ると、美純と一緒に店を出た。コックなんて商売をしていると、普段あまり切ることのないフォーマルな衣装というやつは、どうしたって優先順位の下の方になってしまう。だが、この前何時着たかもわからないような古い一着は、見せた途端に開口一番美純のNGを喰らってしまった。

「だって、そんなの着たら失礼でしょッ」

 結局、二週間前に彼女の見立てで作ることになったスーツは、出来上がって試着してみると自分だってそれなりに見える大したものだった。美純も満足そうにニンマリと笑っていた。

「なぁ、ちょっと何か食べていかないか?」

 店を出てからしばらく歩き、通り沿いに幾つか飲食店が目に付くようになって、トオルは美純を誘った。

「スーツの礼もあるし、ご馳走するからさ」

「うーん……でも、私、実はちょっと見たいところがあるんだよね」

 そう言って美純が指さしたのは、一見ちょっと胡散臭く感じるような、天井からやたらとバッグやネックレスの吊るされたアクセサリー・ショップだった。

「ここに……入るのか?」

「そう。変かな?」

「いや、別に……」

 うまく返事ができない時はうまく表情も作れないらしく、トオルは引きつってしまった口元を大袈裟に撫でくって誤魔化そうとする。

「大丈夫だよ。ここの店長さん、お姉ちゃんの知り合いだし」

「えっ、美空さんの?」

「うん。高校時代のクラスメートなんだって」

「そうなんだ」

 手を引き寄せられてトオルはその店の内に足を踏み入れた。

 そして、息を呑んだ。

 まるで緑の王国のような場所だった。

「なっ?!」

「綺麗でしょ。私ね、翡翠って大好きなんだ。子供の頃から、ずっとこの色が好きなの……」

 陳列された商品に目を落とす美純の表情は、なぜか遠くを見ているようだ。

 

 

    

 

  

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