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Love laughs at locksmith. other side ≪Shuna Makino≫

 幼い頃から兄は彼女の憧れの対象だった。

 二つ年上の兄はいつだって気を掛けてくれて、体が小さいことで周りから馬鹿にされたり、いじめられたりすることの多かった彼女のことをよく庇ってくれた。

 兄はいつも自分の前に立っていた。そのせいか、彼女はいつも後ろから兄の背中を見て育った。

 兄は、彼女の自慢だった。尊敬もしていた。

 大好きだった。


                   ◆


 入学した高校は去年から共学になったばかりの元・女子校で、三年生のクラスには男子生徒は一人もいない。そのせいなのか休み時間になると彼女のクラスの周りには上級生の女子が顔を出し、用もないのにチラチラと教室内を覗き込んできたりした。

 今もそうだ。

 正直、ウザいと思った。

 理由は明白。

 男、だ。

 クラスには入学式の際に新入生代表で壇上に立った男子がいた。中学での成績がよくて、生徒会長もやっていた、要するに教師の覚えめでたいような奴だ。

 その上、そこそこ身長も高く容姿もまあ悪くない、となれば焼肉屋でいえばカルビみたいな、アイスクリームでいえばチョコミントみたいな、女子なら誰でも一度は憧れる男子の出来上がりだ。

 かくして、全校生徒の約半分のお眼鏡に適ったこの男子の周りにはいつだって黄色い声とピンク色の視線が付いて回るようになり、教室には休み時間の度に他クラス他学年の女子生徒がひと目見ようと訪れるようになった。

 まるでどこかの動物園のパンダの檻みたいだ。

 だが、実際のところは小・中学校の頃も大して変わらなかった。そういう奴は大抵学校の中に何人か居て、いつも周りからちやほやされていた気がするが、そんな連中に限って彼女の記憶の中には名前すら残らなかった。

 だから、入学したての頃はその男子もいつかきっとそんな中の一人になると、そう思っていた。

 なのに、そんな口に入っても味の残らない空気のような男の存在が、自分のその後の毎日に大きく影響を与えることになるとは、当時は思ってもみなかった。

 入学してから三ヶ月、高校生活にも少しずつ慣れてきた夏の入りかけ。

 二限目の現国と三限目の歴史の授業の間の短い休み時間。

 別にトイレに行きたいわけでもないし、喉も乾いていない。予習なんてしなくたって次の授業は得意の科目だから、彼女は前の授業のノートを広げたままの机の上に突っ伏して、60秒が十回過ぎるのをじっと待っていた。

 けれど、それは半分もしないうちに飽きてしまった。

 だから、首だけ捻って窓の外を眺めようとした。

 そうするといちいち視界に入ってくるものがある。

 それが太陽とか富士山なら、まだマシだ。

 なのに、あろうことか隣りに座っているのは件の男子で、そいつが隣りに居るおかげで彼女の学校生活は同級生の嫉妬の眼差しに晒され、上級生からの身辺調査まがいの事を請われる、かったるい毎日になってしまったのだ。

 全くもって、迷惑な男。

 しかも、名前まで覚えてしまった。

 山田だ。

 こんな電話帳の後半のページで渡辺と一緒になって幅を利かせるような奴が、自身の中にまで領土を広げてきたかと思うと遺憾だったし、この在り来たりな名前の男子が隣りに居なければ、自分の生活はもうちょっと穏やかだったんじゃないかと思うと、彼女はどうしても八つ当たりたい気分になるのだ。

 ふと、背中越しに聞こえてくるのは、顔を見なくたってわかる今井咲菜と六道祥子の声。

「あの子、山田君の隣りの席だからって、またいい気になってるんじゃない?」

「もしかして、彼女気取りぃ? やだー、超、ウザいんですけど」

 こんなふうにクラスメートから聞えよがしに言われることはしょっちゅうで、それにはもういい加減慣れたのだが、上級生から呼び出されて殴られたり蹴られたりするのは、正直、辟易だった。

 大体、あの男の趣味や好みを聞いたからってどうするんだ、と。それに、もし行動に移すような勇気を持ち合わせている人間なら、こんなふうに人づてに聞いたりせず、自分からさっさと本人に訊ねるはず。そんなんだから三年間何事も無く過ぎ去っていってしまうんですよ、と。

 上級生相手だから精一杯遜って言ったつもりだったが、キレられた。

 肩、胸、腹、脛。呼び出されては、制服越しに見えないような場所ばかり狙われて、何で殴られたのかは忘れたが、腰の右上の痣は今だ消えずに残ったままだ。

 彼女という人間は思ったことは口にしないと気が済まないタイプだったから、そういったトラブルはこれまでの人生だって少なくなかった。ただ、なんでもかんでも全部そうするわけでもないし、思っていたって口にしない方がいいこともある、というのは頭では理解していた。

 だから、敢えて口にはしなかったのだ。

 この男子の存在は、彼女にとって一グラムの重みもないのだ、と。

 一度、やたら噛み付いてきたクラスの女子が煩わしくて、「席、代わってあげるから、机の中身全部出しなさいよ」と言ったら、あっさりと断られた。

 結局、そいつらにしたって変わらないわけだ。

 授業中の横顔を独占するのに支払わなければならない対価は、クラスの半分の妬みと上級生からの陰湿な嫌がらせ。それでもなお、と思わせるまでの魅力を感じているわけではないのだ。

 なら、本人の意思とは関係なく偶然そのポジションを手にしてしまった彼女は、こんなエアカルビチョコミントな男のおかげで災いに巻き込まれた、憐れな被害者だ。

 そんな癇に触る毎日の積み重ねが、彼女の中にフラストレーションを溜めていないはずはなかった。だからだろう、多分冗談で言われたに違いないその一言にカッとなってしまったのも、気が付いたら手を上げてしまっていたのも、半分くらいはそれが原因だ。

「……槙野ってさ、本当は俺のこと、好きだろ?」

 ニヤニヤと笑いながら、さもお見通しみたいな顔をされて、諸悪の根源にそんなことを言われた。

 そいつのおかげで悩みを話せるような友達だって出来ないのに。

 すれ違うのも、顔を合わせるのも嫌な奴ばかりなのに。

 それでも彼女が毎日ここに来るのには、他に逃げ込む場所もないから。

 反射的にひっぱたいてしまったことに気付いても、彼女は少しも心が痛まなかった。ずっと前から、もっと別のことで心が擦りおろされるくらいに痛い思いをしていたから。そしてその痛みと苦しみは、耐えても、耐えても、耐えても、この先どこまで経っても消えてなくなることはない。

 なのに、痛みの元を断ち切ることすらできないのだ。

「あんたなんかに、私の、なにがわかるの……」

「い、いや……別に、……」

 たった一回叩かれただけで動揺して言葉の続かなくなったその男は、見てはいけないものを見てしまったかのようにゆっくりと彼女から目を逸らしていた。彼女もそれ以上は喉の奥に蓋をしたみたいに言葉が出てこなくなってしまったから、仏頂面で椅子に座って口元を引き結んで、誰にも側に近づかせないような雰囲気を発していた。

 怒り、ではなかった。

 その時の彼女の心中を言葉にすると、一番近いのは『渇き』かもしれない。

 その渇きを癒すには潤すしかないのだ。けれど、彼女の手にした水差しは固く蓋をされたままで、決してそこから飲むことは出来ない。

 彼女がその中の水を口にするのは許されないのだ。

 それからしばらくすると、同級生達の陰口も上級生達からの制裁まがいの行為も少なくなっていった。

 おそらくはあの日の殴打事件のことが影響しているだろうし、それともうひとつには彼女にちゃんとした恋人が出来たことも理由に違いない。

 ただ、実際のところそれらは彼女にとって些細なことだった。学校に来る一番の理由は前とちっとも変わらなかったし、付き合っている彼とはそろそろ別れるつもりだ。

 その彼は、どうしたって自分の中の影を払拭できるような人ではなかった。

「あと、8ヶ月ちょっとか……」

 彼女が言うと、隣りでぽわぁーとした顔をしていた友人が不思議そうな表情になる。

 この学校に入学して、初めて出来た友人だ。クラスは違うし、話も合わないことが多いが、なんだか妙に気は合った。

「……なに、8ヶ月って?」

「んー、……内緒」

「ちょっと朱奈ぁ、意地悪ー。そういうの、すっごく気になるでしょ」

 このまま順調にいけば、多分、大丈夫。

 そんな確信があった。

 彼女自身も優等生の部類だが、あの人はもっとそうだった。

 来年になれば、彼女の兄は都内の大学に進学するはずだ。

 通学には2時間半掛かる。

 おそらくは一人で暮らし始めるはずだ。

 もう、一緒にいるのは辛かった。

 槙野朱奈は子供の頃の憧れを強く抱いたまま、今もまだ大好きな背中から目を逸らせずにいた。

 

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