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Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 11

                   ◆


 ミートソースは魔法のソースだ。その味は小さな子供から大人達までも魅了してしまう。

 たっぷりと挽肉を使ったジューシーなトマト味が子供たちに人気の定番メニューなら、カリカリになるまで炒めた肉に赤ワインをしみ込ませながら煮込んでいくのは、大人のために作られた手の込んだメニュー。

 そして、目の前のカウンターに座った二人へ振舞ったのは、トオルが腕に縒りをかけて作ったこだわりのソースだ。国産の銘柄牛の挽肉を使い、余計な脂分は全部捨てて肉の旨みとワインの旨みを活かした『カーサ・エム』自慢の贅沢なひと皿。

 ただ、二人の少女には、前にしたとびきりのメニューよりももっと重要な話題があった。その内容が今や自分にも関係することとなった以上、トオルとてなかなか動かないフォークを急かすわけにもいかない。

 店内はお客も一巡し、片付けもほとんど済んでしまったから、彼女達の会話から耳をそらすための言い訳もなくなってしまって、トオルはなんとなく傍聴人の役をやらされている。まるで、三者面談のときの子供のような気分で飲むカンパリは、いつもよりも苦い。

「ねぇ、みーちゃん」

「んっ? んー」

 次に続く言葉をなんとなく察していただろう美純は、きっと本人は無意識の自嘲を口元に浮かべて、ちょっと困ったときのようなくぐもった返事を返した。

 朱奈はいつものような淡々とした表情のまま、一度だけゆっくりとまばたきをする。

「私、別に付き合えってけしかけたわけじゃない。みーちゃんって、割と引っ張るタイプだから、早く決着つけたほうがいいって思っただけ。傷も、痛みも、小さいほうが治りも早いから」

「ん、知ってる」

 口に入れていたパスタを咀嚼し、嚥下と共に小さく頷いた美純。

「私、本当は反対……」

 一瞬、目を伏せてから言った朱奈のその言葉の出処は、多分彼女の本心からだったろう。

 もしかしたら、彼女の恋の遍歴には年の離れた男との恋愛もあったのかもしれない。トオルがそう感じたのは、朱奈の横顔が美純を向いているのに、どこか別の場所を見ているようにも思えたからだ。

 傷は、その傷を負ったものしか痛みがわからない。

 当事者を目の前にしてさらりと言うところはどうかとは思うが、朱奈は朱奈で自分なりの価値観や信念を持って行動しているのだろうと感じた。そして、彼女の美純を思う気持ちは親友と呼ぶに相応しいくらい深いのだとも感じた。

「朱奈、……ありがと、ね」 

 囁くようであっても、そこに込められた感謝の気持ちが相手の思いと同じだけあれば、ちゃんと耳には届くものだ。

「でも、私、大丈夫だから」

「そう」

「うん。朱奈が色々アドバイスしてくれたのは嬉しかったし、それを無視してるつもりはないの。でも、頭で理解できたって心は別だった。どうしたって、変わってくれなかった」

 ひと呼吸分の沈黙をおいて手元の皿から顔を上げた美純の表情には、何度も空を飛ぼうと挑戦した果てに歩くことの尊さにたどり着いた者が浮かべるような、物愁い笑顔があった。

「好きなの……」

「でも、私は好きになれない。はっきりしない男って、大抵ダメな男」

 そう言った朱奈から、トオルはさも意味ありな一瞥を頂戴してしまった。

 一瞬、ムッとして何か言い返そうとは思ったが、結局は口をつぐむことにした。相手の非をひとつずつ並べ立てるような諍いは得意でもないし、その価値も見い出せない。そんな言い訳を付けて一蹴しようとした大人の対応は、引きつったこめかみを美純に見付かって逆に失笑をもらってしまった。

「お前らな、人のことをなんだと思ってんだ?」

 すんっと鼻を鳴らして不満を表すが美純の笑いはなかなか収まる様子もなく、それでもしばらくは眉を寄せて彼女をじっと見下ろしていたのだが、トオルの視線に全く気付こうとしない彼女になんだかどれもこれもが馬鹿らしくなってしまった。

 トオルが呆れて深いため息と一緒に肩の力も抜いた、その時、だ。

 不意に店内に外の肌寒い空気が滑り込んで来たかと思うと、入口の扉に付けたベルが鳴って新たな客の来店を告げた。

 トオルは直前のモヤモヤとした気分から素早く切り替え、営業用の顔を作ってそちらに向けると、いつものように出迎えの挨拶をしようとした。

 そして、急に体が強ばった。

 口の形が『い』のままで固まってしまう。

 それは視線の先の女性も同じだったらしく、口は『え』の形のままに、目は映っているものが見間違いではないかと確認するように何度も瞬きを繰り返している。

 やがて、女性は視界に入っていた二人が間違いなく自分の見知る二人だと認識すると、今度は目を細め、低く響く声で彼女達の名前を呼んだ。

「四方、さん……槙野さん……っ」

「エッ?!」

 聞きなれたその声に条件反射で肩をすくませた美純が、恐る恐る振り返り、すぐに事態を認識したようだ。

「留利子センセー…………こ、こんばんわぁ」

「『こんばんわ』、じゃないでしょうっ?! 四方さんだけかと思ったら、今度は槙野さんまでこういうお店に入り浸って! もう、やめて頂戴。先生、二人が心配よ」

「は、はぁーい……」

 カツカツとヒールの音を鳴らし、美純達のすぐそばまで迫った留利子は二人の前にすっくと立つと、それぞれの顔をじっと睨みつけてたしなめる。

 そして、一番最後はなぜかトオルにも鋭い視線を突きつけてきた。

 お前もしっかりしろ、ということだろう。

 トオルはうまく返事を返すこともできずに、顎の先を指でかきながら苦笑いをしてみせた。無論、そんな顔をしたくらいでは情状酌量が得られる訳もない。

「ともかくっ!!」

 相変わらずよく響く声が一同を一喝した。三人とも自然と背筋が伸びてしまう。

「女子高生がっ、こんな時間にっ、こんなところでフラフラしてたらっ、一体どんなトラブルに巻き込まれるか、あなた達だって想像できるでしょう? 金輪際、……」

「先生」

 説教の途中に口を挟まれ、「えっ」と苛立った声を出した留利子が、最初に見たのはトオルだった。しかし声の主はトオルではない。顔の前で手を振って否定すると、留利子は次いで美純と朱奈、二人の顔を見比べた。

 すると、朱奈のほうが右手を上げ、珍しく抑揚のある口調で申告したのだ。

「別に、私にはやましい事なんてありません」

 そう言うと、自分はもう無関係とばかりに腰を少し浮かしてカウンターに向き直し、すでに冷めて固まってしまったミートソースのパスタを食べるつもりなのか、何度かほぐしてからくるくるとフォークで巻き出した。

 朱奈の、その言葉の意味にすぐ気付いたものはいなかった。

 しかし、湖面に落ちた石が作る波紋はやがて湖畔に届く。

 ハッとしたのがその目の動きでわかった。瞬間、一切表情を落とした留利子の顔が、振り向くと美純の顔の前でピタリと止まった。

「……私にはって、なにそれ?」

「えっ!? ……えーっとぉ……」

 美純はリアクションに失敗した。

 留利子は見逃さない。まるで美純の中にその疑念の答えがあるのだというように、じわりじわりと彼女に迫る。脅したり、怒鳴ったりの下手な尋問よりも、数倍効果のある無言無表情を向けられた美純は、文字通り蛇に睨まれた蛙の状態だ。

 まずい、とすぐに感じた。美純がこういうシチュエーションに強いはずがない。

 トオルは自分自身がまず表情に出さないよう顔中の筋肉を固くしたまま、美純の背中には精一杯念を送った。

 ――絶対に……絶対に振り向くんじゃないぞ、と。それだけはダメだ、と。

「四方さん、あなた、もしかして、先生に言わなくちゃいけないことがあるんじゃないの?」

 一言一言が重石のようにずしりと伸しかかってくる、ゆっくり、低い口調。

 表情こそこちらからは見えないが、きっと必死になってシラを切り通そうとしているだろう美純を強く応援する。もしも、美純とのことが留利子にバレれば、当然ただでは済まないはずだ。最悪、学校や彼女の両親を巻き込んだ大騒ぎに発展してしまうだろう。

 いつか、きっとそういうことにもなるだろう、とは考えていた。

 ただ、こんなにも早いと心の準備すら追いつかない。

 トオルは留利子から見えない位置で手のひらを強く握り締めた。拳から美純に向かって力を送り込んでいるような錯覚があった。

 もう少し、もう少しだから頑張れ、と。彼女の背中を後押しするような思いで。

「四方さん、隠していることがないなら、ちゃんとそう言って。でないと先生は……」

 ないと、たった一言。

 それだけ言えばいいのだ。あとはだんまりを決めてしまえばいいだけだ。

 トオルは緊張のあまりいつの間にか肩に入っていた力と胸に溜め込んでいた息をそっと押し出し、それからゴクリと固唾を呑み込んだ。

「と、トオルぅぅ……どうしようぅ」

「なっ、俺かよ?」

「だって、もうばれちゃった」

「ばれてない、全然、ばれてないから!!」

「えっ」

 情けないくらいに困った顔をした美純が、言葉通りにトオルに泣きついてきた。

 トオルは全身にガチガチに入っていた力が向け落ちるような脱力感に襲われた。そして、まず最初にしたのは溜息と目を被うことだった。

「えっ、ちょっと、シェフ?! なに、……一体、どういうことなの?」

 予想もしていなかったのか激しく狼狽する留利子を前に、歩み寄ってくる美純をどう受け止めたらいいのか、トオルは天井と照明に向かって問いかけたい気分だった。



 

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