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Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 10

 一瞬、息を呑んだ。

 そして、急に近付いてきた美純の顔が――留めることも避けることもできないうちに、彼女の柔らかい感触だけがトオルに重なる。

 触れ合っている部分から微かに震えているのがわかってしまった。多分、彼女は軽々しくこんなことをするタイプではないから、仕出かすにはありったけの勇気を振り絞ったはずだ。見れば、眉間に皺が寄るくらい必死に目を閉じている。

 そんな美純の精一杯は、とても優しい感触だった。

 やがて、唇は彼女のほうから離れていった。トオルが美純を見つめると、彼女はちょっと目を逸らした。初々しい表情。

 しかし、そんな少女らしい仕草は一瞬だけだった。

 美純はすぐに顔を上げた。今度は固い決意の表情でじっとトオルを睨みつける。

「なら、もういい」

「えっ?」

 右手の人差し指をびっとトオルに向け、宣言した。

「私、好きにする。勝手にトオルのことを許して上げるし、トオルが自分のことを責めた分だけ私が代わりにトオルに優しくする。もう止めたってダメだからね! たった今、決定しました」

 言い切ると、今度は無理矢理に顔をくしゅっとして、美純は笑った。今日、何度目かの笑顔を作らせてしまった罪悪感に胸がちくちくっとする。

「ゆっくりでいいんだから……。トオルのペースでいいから、真由子さんが好きになったトオルをもう一度取り戻して」

 17歳の少女にどれだけ気を使わせてるんだ、と。

 無性に情けなくなった。

「なぁ、なんで俺なんかにそこまでするんだ?」

「だって…………好き、なんだもん……」 

 ボソッと言ってから、美純は顔をかすかに赤くし、急に辺りをきょろきょろと落ち着きなく見回した。

 そして、またキス――

「トオルのことが」

 急に頬が熱くなる。そんな彼の表情を見つけたからか、美純は少し笑った。それから彼女はため息くらいの小さな深呼吸で今度は真剣な顔になる。

「私ね、今、もうひとつ決めたの。今日から私が真由子さんの代わりに恋人になってあげる」

「は? お前、何言ってるんだ?」

「でも、いつまでも身代わりはイヤだから。トオルの中でちゃんと真由子さんとのこと決着つけたら、その時はお別れして。それからでいいから、今度は改めて私と付き合うこと」

「あのな、お前。そんなこと、勝手に決め……」

「勝手じゃないよ?」

 断言するかのような強い口調。

「全然、勝手じゃない。今のままトオルが真由子さんの事、ずっと抱え込んで苦しんでても、トオルも真由子さんも不幸だよ。そんなの絶対彼女は望んでない。だから、私が二人を助けて上げるの。ちゃんとお別れさせてあげる」

「おい、お前、ふざけてるのか?」

 彼女の一方的な言いぐさに無意識に声が荒くなった。でも、そんなトオルを見ても美純は、まるで自分の正当性を訴えるかのようにゆっくりと、しっかりと、首を横に振った。

「トオルが全部いけないんだよ。意地っ張りで、頑固で、ひねくれもので。そのくせ、いつまでも自分の中に真由子さんを縛り付けてる。バカみたい」

「なっ?!」

「……多分、真由子さんは泣いてると思う。好きな人に悲しい顔をさせるなんて、ホント、最低。今のトオルはそういう人でしょ?」

 妙な説得力を感じてしまって、返す言葉がない。

「真由子さんのこと、ちゃんと終わりにして。それで私のほうを向いて」

 意志の強そうな眉。きつく結んだ口元。

「二股なんて、本当は嫌だよ。でも、相手が真由子さんなら我慢する。トオルがちゃんとお別れしてくれるまで、私の恋を二人にあげる。だ、から……ね」

 言葉が急に途切れた。見ると唇は何かを言おうとしているが、音にはならず、ただ小さく震えるばかりだ。

 美純がみせていた表情も、生意気な口調も、全部が精一杯のがんばりだったのだと理解する。崩れると一辺にぼろぼろだ。最後は声も震えていた。呼吸と呼吸のあいだに呻きのような嗚咽が混じる。

 当たり前だ。彼女はまだ17歳の少女なのだ。

 くしゃくしゃになってしまった顔を今更隠そうと彼女は俯くが、下を向くと張り詰めたものが落ちてしまい、頼るものを失った美純は弱々しく肩を震わせた。

「…………」

 ボロボロ、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。ハンカチなんて気の利いた物は持っていないから、トオルは慌てて自分のシャツに彼女の顔を押し付けるように抱きしめた。

「私、……イヤな女の子だよね? 自分勝手だよね? トオルの心の傷にわざわざ触れるようなことしてる。トオルが真由子さんのことを本当に大事に思ってるの、わかってるのに」

「ん――」

「しゅ、朱奈にも、言われたの。絶対にうまく……いきっこないって。だ、だから、最初は忘れようとしたの。でも、出来なかった……」

 トオルの胸の当たりから聞こえてくるくぐもった声は、耳よりも先に直接胸に響く。

「どんどん、好きになっちゃうの……忘れようとしても、昨日より今日の方が好きになってるの。明日は今日よりもっと好きになっちゃいそうで、私……」

「…………」

「嫌われてもいいからちゃんと自分の気持ちを伝えようって、思ってた。でも、伝えたら今度は嫌われたくないって思っちゃって……私のこと、絶対好きになってほしいって、どんどん欲張りになるの。自分がこんなにもわがままだなんて、思ってなかった」

 我儘なものか。

 トオルはいだく腕に力を込める。少女の髪から甘い匂いが漂う。

 酔いに似た目眩。 

「好きなの、トオルが。どうしても好きなの……」

 今日、何度目かの告白。

 もう心が拒絶できない。解きほぐされた部分がすでに彼女と同化しているかのような、胸の奥がじんわりと熱を持っている感覚に落ちていた。

 そのあたたかな熱が体を動かす。

 形の良い顎に指を掛け上向かせた。重ね合わせる。

 この子となら変われるかもしれない。歩みは少しずつでも、自分の中に生まれた心の変化は確かなものだ。長年凍ったままだったのが今、ゆっくりと融けて始める――

「わかってる。俺だって…………」

 トオルが近付くと美純は静かに瞳を閉じた。

「私、す……ん……っ」

 言葉の続きは重ね合わせた唇と唇のあいだに落とす。


 この場所は二人が初めて出会った場所だった。

 あれは、転がってあちこち擦りむいた、傷だらけの出会いだった。その出会いが今日、こうやって恋に至るまでは、カウンター越しの長い時間と、お互いを大切に思う心が必要だったのだろう。

 今、この場所は新しい意味を持つ場所になった。 

 ここは、ようやくたどり着いた二人の『始まり』の場所だ。 

 

                 ◆


 内装業者から引き渡されたばかりのフロアの中に、二人して選んだ黒で統一したテーブルと椅子が搬入されていく。

 ガス台やら冷蔵庫やら、そういったサイズの大きな物はすでに設置済みだったから、次に運び込まれる荷はカトラリーや皿、鍋などか。たった二人でやる、たった十数人で満席の店なのに、車の荷台から次々に下ろされる箱詰めされたそれらの数を見ると、一体なにが始まるのかと他人事のように興味津々で傍観していた。

 その時、多分トオルは自覚のないまま笑っていたのだろう。

 ふと、くすくす笑う声が聞こえた。

 振り向くとカウンターに並べられた椅子に早速腰掛け、そんなトオルのことをなんとも楽しそうに眺めている真由子の木漏れ日みたいな視線に気付く。

「あなた、ニヤニヤしてたわよ?」

 子供の頃、クリスマスの前日に両親が隠していたプレゼントを見つけてしまったときのことを思い出した。もうすぐそれが自分のものになる、確かな未来を待つ息苦しさと甘い憂鬱。

 くつろいでいないでお前も体を動かせと、睨みつけて言ったのは半分照れ隠し。

 彼女の胸にだって、トオルと同じように期待が詰まっているはずなのだ。

 だから、その微妙な温度差を埋めたくて、トオルは真由子に訊ねた。

「なぁ、真由子。お前だったらどっちの写真を飾ったほうがいいと思う?」

 掲げたのは額に入れた二枚の写真。

 ひとつはトオルの今を作った大切な場所、マンマの店『ガト・ネグロ(黒猫)』の写真。

 もうひとつは二人の今を作った大切な場所。あの日の夜、飛び出していった真由子を見付けたランブルスコ広場。

 どちらもトオルにとっては思い出の場所だ。それは多分、真由子にとってもそうだろうと思っていた。

 なのに、彼女ときたら小さな嘆息を一つして、興味もなさそうに片目をつぶる。

「別に。どっちでもいいし、なんならどっちも飾ればいいんじゃない」

「あのな、こんなでかい写真を二枚も飾ったら邪魔くさいだろう?」

「ふーん、そう……」

 気のない返事は自分だけが盛り上がっていた熱に水をかけられた思いだった。

 ただ、それにしたってそこまでお座なりな態度はないだろう、とトオルはがっかりを通り越してムッとしてしまう。

「ちゃんと見て、考えてくれ。俺とお前の店だ」

 すると真由子はちょっと驚いた顔になって、腰を少し浮かせるとトオルを真っ直ぐ見るように座り直す。そして、さも当たり前のことを今更言わされる迷惑にうんざりといった顔をした。

「このカウンターにこれから来ることになるお客さん達は、みんな、あなたに会いに来るのよ。わざわざその写真を見にここに来るわけじゃないわ」

「いや、俺は店の装飾の話をしてるだけで……」

 トオルは急に代えられてしまった論点に、苛立ちの矛先をずらされてしまって釈然としない。

 ただ、真由子はそんな彼の様子をちっとも気にする素振りもなく、今度は両手を大きく広げ、まだ一度も人の手の付いていないカウンターの上に上半身をうつ伏せにした。

 右のほっぺたで木材を善し悪しを確かめるかのように、カウンターの感触を楽しんでいる。

 腹立たしさは、通り越すと呆れや苦笑に行き着くようだ。

 トオルはさながらご機嫌な猫のようにする妻に舌打ちまじりの苦笑を投げ付けてから、自分だけで大量のダンボール箱を開封しようと動き始めた。

 その背中に向けられた言葉。

「写真は今日も明日も変わらないわ。ご飯も作ってくれないし、気の利いた話題も振ってこない。……でも、あなたは違うでしょ?」

 振り返ると、寝転んだままの姿から覗かせる彼女のうつろな笑顔の中には、彼女なりの答えがあった。

「この場所はきっと、あなたとあなたが作る料理が好きな人達でいっぱいになるの。だから、私は飾る写真なんてなんでもいいと思ってる。あなたが毎日少しずつ魅力的になれば、それでいいのよ」

「馬鹿馬鹿しい。そんな甘いもんじゃないだろう。もっとマーケッティングとか、戦略とか、な……」

「そんなの、もっと大きなお店がすればいい事よ。こんな小さなお店だもの、まずはトオルと私を好きになってもらえなかったら、どんなものを出したって、何を置いたって、お客さんなんて来てくれないわ。あなた、そんなこともわからないの?」

 小首を傾げ、肩をすくめて言うのは彼女の癖だった。

 いつだってそうなのだ。年上の女の言葉には妙な説得力がある。だから、お決まりの顔で認識の甘さや浅い視野のことを指摘されると、結局トオルは反論できなくなってしまう。それでも関係がギクシャクとしないのは、彼女の言うことが概ね正しいことと、彼女の言葉に自分への期待や信頼があるのを知っているから。

 頭を掻いてバツの悪そうに眉間に皺を寄せるトオルに、体を起こした真由子はニッコリと笑顔を浮かべて言うのだ。

「頑張って、いい男になって頂戴。ね、ダーリン」

 彼女の言葉はいつだって彼のために。その意志はいつだって揺るぎなく、真っ直ぐに自分へと向けられているのをトオルは知っていたから。


 ――――Day by day.


                   

 

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