Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 9
何度か大きく肩を揺らして、それから一度身震いしたのは、胸に残った最後の憤懣を追い出したからなのかもしれない。
そして、再び口元を引き結ぶと、キッと上目遣いに向けられる刺すような視線。
トオルはその視線を、彼女の言葉を、どう受け止めたらいいのか戸惑った。
「なぁ、ちょっと落ち着けって。何をそんなに苛立ってる?」
叩かれた頬の痛みなど、とっくにどこかにいってしまった。
ともかく彼女をなだめようと肩へ伸ばした手を、美純は拒絶した。
「触らないで!」
叩かれた手のひらは、思ったよりも痛んだ。
「あのな、美純……」
まるで他人の子供をあやすみたいにトオルは恐る恐る声を掛ける。しかし、美純は何度もかぶりを振って、それ以上取り合おうとしない。
「わかってない! トオルは全然、わかってないよ!」
「お前な、自分ばっかり一方的に喋ってないで、ちょっとは俺の話も……」
「バカッ! 大バカ、自分勝手っ!!」
振り上げたこぶしに胸板を強く打たれた。
「さよならって……なによ。そっちのほうが、一方的じゃない。それで……自分だけは納得したつもりかもしれないけれど、私は、そんなの絶対に嫌っ!」
美純の声はもう嗚咽まじりだ。切れ切れの言葉は耳に聞き取りづらくても、意味だけは胸に刺さる。
「けど、俺はな、お前を傷付けたく……」
「傷ついてるよ! もう、こんなに傷ついてるよっ!!」
美純はトオルの言葉をかき消すように、再び激しくかぶりを振って叫んだ。
「……私は、朱奈ほど強くないの。別れても、この恋は次の恋の糧になるなんて割り切れない。だから、今は返事がなくても我慢するつもりだった。YESでもNOでもないのなら、時間を掛けていつかYESに育てばいいって、……そう思えたから普段通りの顔でいられた……だけ」
強く握り過ぎたこぶしが白っぽくなっていた。どれほど彼女の思いが真っ直ぐだか、それだけで痛いくらいにわかる。
「待つから。お願い……」
ただ、そんなにも純粋な思いだからこそ、それをどうしても自分には向けて欲しくないのだ。
美純はどんどん自分の奥深くに踏み込んでくる。けれど、そこには決して彼女が想像しているようなものはない。自分は決して大した男ではないのに。期待されても、彼女を満足させるようなモノは出てこないのに。どうしてこの少女は放れてくれないのだ。そんなもどかしさで胸がちくちくする。
「さよならなんて、嫌……」
「だめだ。そもそも、お前と俺とじゃ大人と子供だ。恋愛なんて有り得ない」
そう言うと美純は力なく首をいやいやと振った。
「トオル……お願い。私だって、ちゃんと真由子さんみたいな幸せな恋がしたい」
「真由子とは……そんなんじゃない。俺はただ、あいつを傷付けて……あいつの人生を狂わせただけだ」
「嘘。真由子さん、きっと幸せだった……」
「そんなはずは――ないよ」
胡乱な目をした美純が、なおも問いかけるように見詰めてくる。ただ、今のトオルにはそんな弱々しい視線を浴びることすら辛くて、顔を背けてしまう。
それでも、声までは避けられない。彼女の言葉からは逃げられない。
「別れてもまだトオルのことを大切に思ってるって……真由子さん、心はずっと幸せだったと思う」
「違うって。そんなことは……絶対に……ないんだ」
「絶対なんて、何で言い切れるの?」
逆に美純がそう言い切れる理由がわからなかった。傷付けてしまったのも、苦しめてしまったのも、トオル自身、実態のあるもののようにしっかりが覚えているのだから。
「俺は、自分のことが上手くいかなくなってから、小さなことですぐカッとなって怒鳴りつけるようになった。あいつが……真由子が心配して声を掛けてくれても、ちっとも耳を傾けようとしなかった。そのくせ溜め込んで、自分だけが苦しんでるみたいに思ってたから、しょっちゅう皮肉みたいなことを言って傷付けた」
もうこれ以上、触れて欲しくない。
この話題を続けたくない。
頭を振って、これで最後だとばかりに絞り出す。
「夫婦の仲はギクシャクして最悪だったんだ。でも、悪いのは全部、俺だ」
告解はした。なのに、美純は許してくれない。
「それで、真由子さんはトオルのことを嫌いになった?」
「当たり前だろ。そんなどうしようもない亭主に、愛想尽かさないわけがない」
「それだけで……そう、思うの?」
「それだけって……」
美純は急にすっくと立ち上がると、わざわざトオルの正面に移動してきてから、鼻先に自分の顔を突き出してくる。
これでもう一度視線を逸らすようなことをすれば、ただの臆病者だとでも言うように。
「ねぇ、トオルのほうは真由子さんのこと、どう思ってたの?」
「…………」
「嫌いだったの? それとも……」
トオルはうまく答えられない。
ずっと、愛していたと。真由子のことを大切に思っていたと。確かにトオルの中の感情はそうだった。
でも、そんなのは口に出して言うことは出来ない。自分は苦しい時、真っ先に真由子にあたってしまった。傷付けてしまった。
そんな自分に「彼女を愛していた」と口にする資格はない。
ふぅ、と吐息が頬にふれた。気が付くと美純の顔がすぐそばにあった。
困ったような、呆れたような顔。
「私ね。真由子さんの気持ち、わかるんだよ」
「……?」
「多分、真由子さんはトオルのことを嫌いになって別れたんじゃないと思う」
唐突過ぎて、言葉の意味が理解できない。
「だって、ずっとそばにいると近すぎてかえって心が伝わらなくなること、あるもん。きっと真由子さんは、ちょっと放れてお互いに気持ちを確認する時間を作ろうとしたんじゃないかな?」
見詰めてくる眼差しは真っ直ぐ。
その目の根拠は何なのか。
「馬鹿。そんなはずないだろう……それとも、まさかお前は真由子がそんな事のために離婚までしたっていうのか?」
優しさで言っているのだとしたら、悪だ。
なのに、美純はぶれることなく真剣な表情のまま頷いた。
「……あのな、いい加減にしろよ」
「えっ?」
「お前にはまだわからないかもしれないが、離婚ってのはそんなに軽い行為じゃない」
トオルは忠告する意味で声を低くした。
これ以上は踏み込むな、と。
しかし、美純はやめない。
「でも、そうしなくちゃ二人が駄目になっちゃうって思ったら?」
その瞳に曇りはない。彼女にとって、それは確信なのだ。
「わかるんだ。だって私とお姉ちゃんもそうだったから。距離をとって会わない時間が増えたから、逆に心の距離が縮まった。相手のことを考える余裕が出来た」
「お前と、美空が……?」
「うん。私達、ね。お互いがお互いのことを思っているようで、でも本当はちゃんと相手のことを見えていなかったんだよ」
二人は辛い思いをしていた。そのことはトオルだって知っている。互いが互いのためを思い、どうしたらいいのか悩んで、必死になって、なのに不器用で傷付け合ってしまった、美純と美空――
「もしもあの時、お姉ちゃんがカナダに留学してなかったら……。私達は今もまだ、家族の形を探し続けてたかもしれない」
思い出し、儚い微笑を浮かべている。そんな彼女の頼りなくみえる表情の中には、ただ経験したからこそ信じて疑わない小さくて固い信念のようなものが見えた。
トオルは、それを無視することができない。
「大切に思うから。だからこそ、会わない時間も必要なんじゃないかな」
「そんな、はずは……」
「『ない』って、本当に言える?」
「…………」
言葉が続かない。わからない。
心に疑念が生まれてしまえば、口先で認めることもできない。
美純がそんなトオルの表情を見て、そっと首を横に振った。
「私だってもちろん、絶対そうだなんて言えない。ただ、もしも私が真由子さんだったら、多分そうしてると思う」
なぜ、と問いかけたかった。それが顔に出ていたのかもしれない。
美純が顔をくしゅっとさせて笑った。
「だって、トオルって、怒ると急に周りが見えなくなっちゃうから、気持ち、静める時間を作ってあげないとダメだもん」
17歳の少女は、まるでそれを自分より年下の相手に理解させるように喋る。
敵わない。それが悔しいくらいにそのとおりだから、言い返すこともできない。
「トオルのこと、私だってずっと見てたんだよ。いいところも、悪いところも、幾つも知ってる。結婚してたんだから、真由子さんはもっともっとトオルのこと、知っててもおかしくないと思う」
当たり前でしょ、と。むしろ、トオル自身が気付いてないことのほうが不満で、唇を尖らせて。
「多分、真由子さんはトオルのことを大好きだったから決断できたんだと思う。会ったことなくてもわかる気がする。きっと優しくて、それにすごく心の強い人……」
今度は確信の表情。
でも、そうだ。確かにそうだった。
真由子は優しかった。
サッカーを、夢を失いかけて前を向けなくなっていた自分を励まし、寄り添い支えてくれた。同じように苦しむ二人なら、一緒に苦しみを越える喜びがあると示してくれたのも彼女だ。
それに彼女はいつだって強かった。トオルが苦しい時はいつだって笑顔で隣りにいてくれた。
仕事でも、プライベートでも彼女はパートナーだった。24時間365日、常に隣にいるような生活をしていたわけだから、トオルが辛いときは真由子だって同じように辛いはずなのだ。けれど、彼女はいつだって顔には出さず、トオルに手を差し伸べてくれた。
それなのに、その手を突っぱね相談ひとつせず、がむしゃらに一人で突っ張っていたのはトオルのほうだ。彼女のくれる言葉に耳を傾けようとしなかったのは自分だ。
あの頃のトオルは『自分が真由子を幸せにするのだ』と、固く決意していた。苦労をかけてしまったぶんはいつか何倍も幸せにして取り戻すつもりだった。その思いだけが何歩も先をいって空回りしていた。歯車の噛み合っていない自分を理解してはいたが、どうやったら負のスパイラルから抜け出せるのかはわからなくて、結局やみくもに駆け回るだけだった。
そんな自分がもどかしくて、いつも苛々していた気がする。
でも、そんなのはトオルのエゴでしかない。真由子が本当にそれを求めていたかどうかなんて、確かめるどころか考えもせず、うまく形にもならない幸せを彼女に押し付けようとしていただけだ。
今、歳を重ね経験を積んだ自分になってようやく気付いたこと。
遅すぎた。
結局、だめな男なのだ――
トオル自身、気付かないようにしていただけで本当はとっくに知っていたのかもしれない。
真由子と別れ、一人になったあと。
苦悩に俯いてしまったときでも。
後悔に前を向くことができなくなったときでも。
彼女が、ずっと自分のことを見守っていてくれたことを。どこかで支えてくれていたことを。
だから自分はやってこれたのだ。
愛されてないはずなんてない――
「真由子さんはトオルのこと、きっと信じてたんだよ。苦しくても、いつか必ず前を向ける人だって」
だとしても、だ。
トオルには愛される資格はない。
たとえ記憶の中の真由子がどんなに優しくしてくれたとしても、それを受ける権利はない。
彼女の命を奪ったのは、やっぱり自分だ。
自分に『力』がなかったから、代わりに彼女が自分の『力』になろうとしてくれたのだ。必死になって走って、トオルの分も肩代わりして。いっぱいいろんなものを抱え込んで、無理をして、やがて抱えきれなくなって。寝る間も惜しんで飛び回り、自分の生活とトオルの未来とを守ろうとした挙句――真由子は死んだ。
彼女の命を奪った事故の原因は、その『二人分』を抱え込んだツケだろう。
トオルの無力が真由子の命を奪ったのだ。
そう、思おうとしていた。そう思わなければ、その罪悪感に自分を責め続けなければ、きっと自分は誰かに助けを請おうとしてしまうから。
それは駄目だ。この人生は彼女への贖罪のためのものだ。
「俺は……そんなんじゃないよ。ただの……」
首を振った拍子に力なくこぼれた彼の言葉に、なぜか美純は顔をムッとさせた。
「それ、もう禁止っ」
「えっ……」
「だって、真由子さんに失礼だと思わない?」
彼女の人差し指の先が、トオルの鼻先を戒めて、離れていく。
「あと、私にも、だよ……」
それから美純は寂しそうな沈んだ表情をして、自分の胸にそっと手を当て、目を伏せた。
何かが、トオルの胸をかき乱していく。
「ねぇ、トオル。……もう、あなたを好きになった女の子をがっかりさせるようなことを言わないで。私も、真由子さんも、トオルがトオルだから好きなんだよ。ときどきカッとなって周りが見えなくなっちゃうところがあっても、それ以上に私達はたくさんあなたのいいところを知ってるもん」
長いまつ毛がゆっくり一回、瞬いた。
「本当はずっと、真由子さんのことで苦しんでたんでしょ。だけど、真由子さんはきっとトオルのことを恨んでなんかない……」
「やめてくれっ! そういうのは、聞きたくないんだ」
遮るように言ったが、美純は止めない。
「……きっと最後の最後まで、トオルのこと好きだったと思うよ」
顔を上げ、じっとトオルを見据えて言う。今度はトオルが力なく首を振る。
「俺は……無理なんだ。そんなふうに自分に都合良く解釈することなんて、出来ない……」
これまでだってそうだった。
みんなが彼に優しい言葉をかけてくれた。事情を知る誰もが、トオルを励まし、元気づけようとしてくれた。
その優しさに身を委ねれば少しは救われるかもしれないと、何度思ったことか。
だが、それは真由子のことを過去に置き去りにすることが対価の、彼だけのために用意された優しさだ。耳を傾ければ確かにトオルは一時の癒しを得るかもしれない。けれど、その優しさは痛みを紛らわす覚せい剤と同じで、彼の中の真由子の記憶は別の何かを上塗りされ、胸の奥に放置されるのとなんら変わらない。
なにより罪悪感を感じた。
トオルは彼女をずっと愛していた。別れたあとも嫌ったり憎んだりしたことはない。多分、今でも心はそうだ。
それがたとえ救済を求めた結果だからといって、大切な人の記憶から片時でも目を背けるようなことは許せなかった。まして、誰かに優しくされ、少しずつ心が癒されることで彼女を――真由子を愛していたという事実までもが自分の中から薄れ、やがて消えていってしまうのはどうしても耐えられなかった。
怖かった。
優しくされることも。癒しも。言葉も、全部。
だから彼は拒んだ。
それなのに、だ。
美純が口にする言葉にトオルは拒絶も反論も出来ないでいた。彼女の言葉は、まるで真由子自身の言葉であるかのようにトオルの胸に自然に浸透してしまうのだ。
「トオル……自分のこと、無理に嫌いになろうとしないで。自分を傷付けようとしないで」
「そんな事して、なっ……」
彼女の言葉を払いのけるように振るった右手を、逆に美純に取られてその小さな手のひらに包み込まれてしまった。その優しい指先に抗うこともできない。唇の端から鈍い呻きが出そうになって、慌てて唇を噛んで堪えた。
「真由子さんの大好きだったトオルを、トオルが嫌いになろうとしないで……自分を悪者みたいにしないで。そんなこと、真由子さんは絶対に望んでないと思う。そんなの、真由子さんがかわいそうだよ」
彼女の手のひらから伝わってくる思いに心が揺さぶられる。五本の指はどれもひんやりと冷たいのに、熱い。
「トオルだって、本当はわかってるんでしょ? 違うの?」
それを問われても、苦しいだけ。答えなんて、あったって口に出来ない。
それを言ってしまったら、自分は真由子を失ってしまうような気がしたから。
だから、トオルは目を伏せ、精一杯無表情な声で答えた。
「俺は、やっぱり自分のことが許せない。いや……許したくないんだ……」
「トオルって……ただの意地っ張り」
ふわっと、顔の前で空気が揺らいだ気がした。