Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 8
「……っ」
彼女が何かを言ったような気がしたから、トオルはほとんど無意識にそちらへ視線を向けていた。
そして、思わずギョッとしてしまったのだ。
まるで泣き顔みたいな、笑顔。
トオルが動揺してなかなか声を掛けられずにいると、代わりに彼女のほうが口を開いた。
「ありがと」
「え?」
どうして今そんな言葉が出てくるのか理解できず、怪訝な顔で首を傾げてしまう。ただ、美純はそんなトオルの様子がおかしかったらしく、少し笑顔の色を濃くした。
「だって、初めてだったから。トオルが自分から昔のこと、言ってくれたの。……ちょっと、嬉しかった。トオルってなかなか自分のこと話そうとしないから」
「はぁ? そう、……だったか?」
妙な展開の会話に戸惑うも、そこはなんとなく返してしまう。
「そうだよ」
そう言うと美純は拗ねたみたいに頬を膨らませ、わざとらしく「ふんっ」と顔をそむけてしまった。
「なんだよ、その態度……」
「だって、ね。トオルって、いつもカウンターの向こう側にいる感じがするんだよ。私がどんなに側に行こうとしても、絶対に一歩手前で拒絶する『壁』みたいな空気を発してるの」
誤解だ、と言っても聞きはしないだろう。そんな横顔だった。
おかげでトオルは小さく吸い込んだ息と一緒に出すつもりだった反論の言葉を喉の奥につかえさせてしまった。
二度、三度と繰り返し息を吸って吐いてみても、無駄にため息を増やすだけ。そのうちに何を言い返そうとしていたのかもわからなくなってしまう。そんな彼を横目で見ていた美純は、一体何が気に入らなかったのかムッと頬を膨らました。
「確かに、私じゃ頼りにならないかもしれないけれどさ」
そういって一歩にじり寄った彼女は、トオルの鼻先に人差し指を立てた。
「それでもっ……力になりたいと思ってるの」
不満な表情の奥には、彼女の真剣な思いが見て取れる。
それがどんな思いから来ているのか分かっているからこそ、トオルはうまく表情が作れない。胃の底に消化できない塊が落ちたみたいに、鈍くて重い感覚を覚えてしまう。
堪えるには目を閉じて、歯を食いしばるほかない。
だが、彼女はトオルがそうすることこそが不満のようだ。
「ねぇ、トオル。自分が時々今みたいな表情してるの、知ってる? 本当は苦しいのに、吐き出すのが悪いことみたいに溜め込んだ顔」
「さぁ、ね。生まれた時からずっとこの顔のままのはずだけど」
いい加減な返事をすれば、眉を吊り上げられてしまった。
「……茶化さないでよ」
苦笑いで返すのは止めにした。
なぜなら、美純の表情は思いのほか真剣だったからだ。
「思いつめてたり、苦しんでたり。そうやってトオルが辛いのがわかってても、私、何もしてあげられてない。本当は側にいって力になりたいの。でも、トオルって、まるで自分が傷付かなくちゃいけないみたいに、全部を抱え込もうとしてる」
「……そんなことないよ。お前の思い過ごしだ」
素っ気なく答えておく。そして、この会話は終わりとばかりに腰を上げようとした。
だが、そうはさせてくれなかった。目の前にすっと体を入れてきた美純が、立ち上がろうとしたトオルを制したからだ。
「ううん。そんなこと、……あるでしょ?」
そう言った美純の目が、じっと彼の目を捉えて放そうとしない。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。立ち上がりかけた中腰のまま。動けば、あっという間に丸呑みにされてしまいそうな気がした。
その、ほんの小さな心の揺れも見逃さないような美純の鋭い視線に気付かれないよう、トオルはそっと唾を呑み込む。
だが、その行為自体には気付かれなくとも、隠しきれない事はある。
ましてや、相手に思うところがあるのなら尚更、だ。
「だって、私、知ってるの」
「何を?」
美純が、瞳からさっきまで発していた強い光を鈍らせる。たっぷりとひと呼吸分の時間を使ってから、彼女はその一言を口にした。
「真由子さんのこと。……ちょっとだけだけれど、瑠璃さんに訊いちゃった」
一瞬、体の毛穴という毛穴が開いた気がした。
トオルは自分の血流が急に激しくなるのがわかったが、それを抑えることができなかった。
その名が美純の口から出るのに、驚きよりもむしろ不快感のようなものが強い。
だが、そんな鋭角的な感情がそのまま前に出てしまったのが、目の前の少女の顔色からわかってしまった。
彼はすぐに自戒して、強く奥歯を噛み締めた。
「ごめんね、怒ってる?」
「別に……」
そういうのがやっとだった。実際のところ、少しは憤りはあった。
身勝手だとはわかるが、瑠璃に対して裏切られたような思いがあったからだ。彼女なら、トオルが伏せておきたいことは察して、口をつぐんでくれるはずだと思い込んでいた。
しかし、目の前の少女はそんなトオルの穏やかでない胸中のをすぐさま感じ取ったのか、両手を振って否定してきた。
「ち、違うよっ、瑠璃さんのほうから喋ったんじゃないからね。……ただ、ひとり言っぽく言ってたのを聞いちゃって、気になったから後で訊いたの。『その人って、どんな人なんですか』って。あの日の瑠璃さん、すごく酔っ払ってたから、何度も問い詰めたら最後は喋ってくれちゃって……」
年上を庇う健気な姿をみれば、それ以上文句も言えるはずがない。
「わかった、わかった。大丈夫、全然、怒ってないよ」
「本当? 瑠璃さんのことも?」
「怒って、ないっ。……これでもう、いいだろ?」
彼女は固い表情のまま頷いた。
「それに真由子の事を訊いたんなら、俺がどんな人間かもうわかったんじゃないのか」
急にトーンを下げて言った彼の言葉に、美純は目をくるっとした。その表情はトオルの言った事が飲み込めないといったところか。
トオルはちょっとだけ気が重くなった。
「あいつを追い詰めたのは俺で、あいつを死なせたのも俺。それは事実だ。たまたま法に触れてないだけで、俺は人殺しと変わらない……」
「そ、そんなっ! 違うよ、そんなふうに考えるのって、絶対におかしい」
大きく横に首を振って言う美純にちょっとイラついた。彼女が悪いわけでもないのに、ただ根拠もなく簡単に否定されたのが気に障った。
「どうして、そう言える? 俺が真由子になんて言って傷付けたかも知らないんだろう?」
「う、うん……」
揚げ足を取るような言い方をすれば、美純なんてすぐに黙らせることができた。
優しくないな、と思う。彼女はただ、トオルのことを思って言ってくれているだけなのに。
だけど、美純のその思いを素直に受け止めるつもりはない。
認めてほしくない。受け入れてほしくない。
悪いのは、トオルなのだ。
真由子を傷付け死なせてしまった罪をこの先も償い続けるためには、責めなければいけない。
誰にも自分を許してほしくない。
「なぁ、もう俺に関わるのはやめたほうがいい。今日でさよならにしよう」
「えっ……」
何を言われたのか、美純は一瞬わからなかったようだ。驚いた顔でトオルを覗き込んできた。固く張り付いた表情が次の瞬間、まるでぼろぼろと剥がれ落ちるように悲痛な表情に入れ替ていく。
それでいい。そう、思った。
決してきれいに別れる必要はない。
悪いのはトオルだ。
トオルは小さく微笑んでから、自嘲するような口調で言った。
「俺なんて、ただのバツイチのオッサンだ。こんな下らない男のことは、さっさと……」
「…………ッ、っ!!」
言い切るか言い切らないかのうちに、トオルのそばをヒュッっと空気が抜けるような音がした。
次の瞬間。
バチン、と突然耳元で何かが破けるような乾いた音が響いた。
急に視界がぐるっと周り、突然、目の前から美純の姿が消えた。ただ、実際はそう錯覚しただけだ。トオルはじわじわと顔の半分が熱を帯びていくのを感じ、ようやく自分に何がおきたのかを理解し出した。
顔を上げれば、そこには小刻みに肩を震わせる美純が立っていた。
彼女の焼けるような視線が突き刺さってくる。
「私の……きな人を、……そんなふうに……言わないで、よ」
途切れ途切れな言葉は、半分もうまく聞き取れない。
「み、あ……や?」
「いつも、そう……他人のことには親身になるくせに、自分のことになると急に冷たくなる。はぐらかして、絶対に誰にも本当の自分を見せようとしない。……それって、ずるい。対等じゃない」
口元を引き結び、肩を震わせ、感情を必死で押さえ込んでいる美純を見て、トオルは声を失ってしまう。
少女とは、こんなにも怒りを露にすることができる生き物なのか。
「対等とか、そういうのは関係ないだろう? 第一、俺は、別にそんなつもりは……」
「嘘。初めて会ったときもそうだったもん」
ぴしゃりと一言で返される。
「人には優しくするくせに、自分が優しくされそうになると逃げる。自分を悪く言ったり、話を逸らして誤魔化したり、そうやってわざと人と距離を作ろうとする。でも、トオルがそんなふうにしたからって、みんながみんなその通りに思うと思ったら大間違いだからっ」
吐き出して、肩を怒らせる。深く息を吸い込む。美純はいつものように感情を抑ええようとはせず、とうとう怒鳴った。
「知ってるでしょ! あのお店の、あのカウンターが好きな人がいっぱいいるの。その理由がわからないはずないでしょ? 自分のこと、ただのオッサンとか言わないでよ! 下らない、とか言わないで!!」
ぐいっと一回腕で目元を拭うと、彼女は胸に残っていた最後の一言を吐き出した。
「あなたが大好きなのっ! だから、そんな事……トオル自身が言うのだって許せない!」