Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 7
「…………」
絶句、というのは頭が白くなって言葉を失ってしまうことよりも、あまりの驚きに呼吸自体が止まってしまうことが大きな原因なのかもしれない。
トオルはその時、美純から出た思いもよらない言葉に、息をするのも忘れてじっと彼女の瞳を見つめてしまった。まるで、その目の奥にあるはずの彼女の言葉の真偽でも確かめるように。
ただ、欺かれたと思うのは筋違いだし、彼がそれほど驚いた理由はもっと別のことだ。
朱奈との会話を聞かれていたことは確かに予想外だったが、それよりもむしろ彼女が自分に対してカマをかけてきたことに驚かされていた。トオルは、美純という少女が自分に対してそんなことをするとは露ほども思っていなかったのだ。
けれど、今になってしまえば分かり過ぎるくらいに分かる。そう思い込んでいたのは、ひとえに自分が美純というひとりの女性を子供扱いしていたからに違いないからだ。
まだ高校生、と。そんな認識が頭のどこにあったのは否定できない。
けれど、彼女は未熟ではあっても一人の『女』だ。
女は男を騙す生き物だ。男は騙されてただ傷つくが、女は騙しても全く傷つかないか、何倍も深く傷つくか。
そして、今、彼の目の前にいるのは間違いなく後者だった。彼女の振りかぶった剣は、相手よりも多く彼女自身を切り付けていた。
その刃を彼女に振らせてしまったのは、トオルなのだ。往来の真ん中で17歳の少女に、罪悪感と後悔とに潰されて今にも消えてしまいそうな決意の顔をさせているのも、自分なのだ。
そう思うと情けなかった。
トオルが彼女の手を握ってその場から足早に立ち去ろうとしたのは、今にも肩を震わせそうな美純を人目から遠ざけようとしたからではなく、救いようのない自分を他人の目に晒したくないからだった。
「これ……あの時の傷」
そう言って膝を折った美純が指さすのは、ガードレールの足元の高さに付いた擦ったような黒い傷だ。
トオルは頷いで、そっと微笑んでみせる。
美純は人差し指の先でその傷をゴシゴシと擦り、跡を消そうとした。だが、指先に黒ずみが移っても傷跡は自体は消えない。彼女は汚れた指先をしばらくじっと見つめ、それからトオルのほうを向くと舌を出していたずらっぽく笑った。
その表情にはまだ、さっきまでの複雑な感情の欠片が張り付いたままだ。
駅前を通り過ぎ、国道沿いを歩き、人通りの少ない場所まで来ると、二人はまるで申し合わせたかのように互いに自然と足を止めていた。
そこは、あの日の、あの場所。
トオルは屈み込む美純のすぐそばまで行くと、ガードレールに腰を下ろした。
肩から力を抜き、小さくひと息を付く。それで、胸にたまった鬱々としたものを一緒に吐き出そうとするのだが、胸の奥にこびり付いてしまった黒ずみはそう簡単には取れやしないのだ。
力なく落とす視線の先、美純の滑らかな黒髪と白く透き通ったうなじが目に入る。ガラス細工のように艷やかな肌は、穏やかに揺らぐ湖面のように澄んで美しく、トオルの目を奪ってしまう。ぼんやりと見つめていたはずなのに、いつの間にか目を放すことができなくなっている。
そんな彼の視線に気付いた美純が急に顔を上げてきたから、期せずして二人は目が合ってしまった。その瞬間なら、目を逸らそうとすればきっとそう出来たはずだ。
が、見つめ合ってしまった。
「……ん、なに?」
小首を傾げて訊ねるのは美純。それに答えられないのはトオル。
自分のことを不思議そうに見る美純の目を、じっと見つめ返せば喉の奥には苦味のようなものが広がる。なのにどうしても目を逸らすことができないのは、多分、彼女に対する後ろめたさのようなものからだ。
答えを出そうとしないのはトオルだ。
その事は、たとえトオルの側にどんな理由があったとしても、美純にとっては変わらないたったひとつの事実なのだ。
傷は擦ったって消えやしない。
だとしても、流れ出る血はじきに止まり、痛みは時間と共に薄れ、そのあとには傷を負った記憶と傷跡だけが残る。それをどんな思いで見つめるかも、それから何を学ぶかも、人それぞれだ。
なら、傷は……痛みは人を成長させるのかもしれない。強くするのかもしれない。
それが、どんなに彼女を傷つけるとしても。それこそ、朱奈の言うように。
「……なぁ、美純」
「えっ?」
トオルに向けられた無垢な笑顔。強い娘だと思う。その胸中は複雑なはずなのに。
「俺さ……一度、離婚してるんだ」
ただ、その笑顔は仮面だ。一枚剥がせば、その下には繊細で脆弱な少女の肌しかない。
美純の顔が途端に無表情に変わる。
「独立して、うまくいかずに傾いて、それが原因で家庭もギスギスして結局別れた。でも、彼女はその後も外から店を立て直そうと支援してくれたり、その目処が立たなくなれば新しい経営者を見付けようと奔走してくれた。俺には勿体ない、いい女だった。なのに、寝る間も惜しんで飛び回ったのがアダになってさ……死んだ。居眠り運転だって……対向車線のトラックに轢かれて、呆気なく逝った……」
「…………」
「あいつは俺が殺した。俺が彼女を不幸にした。……俺はもう、誰かを幸せにする自信なんかこれっぽちもないんだ。だからさ、」
トオルが彼女に向けたのは笑顔のつもりだ。だか、その顔がどんなだったかは美純しか知る由はない。
そして、彼女は顔を歪めた。
だからきっと、相当ぎこちなくもちゃんと笑顔を作れたのだろう。
「俺には関わらないほうがいいよ。お前に辛い思いをさせたくない……」
彼女を大切に思うからこその言葉だった。
そして、悲しいかなトオルはその瞬間に気付いてしまったのだ。
自分の気持ちに。
美純のことが好きだった。
唇をどんなに強く噛み締めても、その思いは決して消えてくれなかった。