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Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 6

「みーちゃん、ごめん。私、帰る」

 美純の方を振り返った朱奈の顔が、一体どんな表情をしていたのかはトオルからは見えるはずもなかったが、美純の目が丸く大きく見開かれたのを見れば、それだけでなんとなくわかるというものだ。

「ちょっ、朱奈ッ……なに? どうしたの?」

 慌てて引き止めようとした美純に、朱奈は小さく首を横に振った。

「ありがとう。ごちそうさま。また、学校で」

 そう言うと、足早に店を出ていこうとする。

「しゅ……」

 一歩踏み出し、美純が彼女の名前を呼ぼうとして続かなかったのは、朱奈が意思のある瞳をトオルに向けたからだろう。

 美純はそれで自分が席を外していた間に、二人のあいだに何があったかを直感したはずだ。短く息を吸い込んで、そのまま唾と一緒に飲み込んだ音が聞こえた。

 トオルは自分に対して真っ直ぐに向けられている視線から、目を逸らしてしまいたい衝動を心の歯を食いしばって耐える。自分の方から先に顔を背けるのは、大人としてのプライドが許さないような気がしたのだ。ただ、そんな些細なプライドを杖にして頼らなければならないくらいに朱奈の一言がしっかりと響いているのだから、その胸中が顔に出ないようにうまくやれたとは思えない。

「…………」

 彼女が何かを言ったような気がしたが、それを聞き返す間もなく朱奈は踵を返し、店を出て行ってしまった。扉がバタンと音を立てて閉まると、『カーサ・エム』の中はまた深い沈黙に落ちていく。

 息苦しいくらいの密度の空気。

 まるで缶詰の中にでも押し込められた気分だ。

「ねぇ……トオル」

 先に缶の蓋を開けようとしたのは美純だった。

「どうしたの? 何があったの?」

 当然のように訝しげな表情をして、トオルが一番答えづらい事から訊いてくる。

 けれど、今のトオルは彼女の顔を振り返って答える気にはなれない。俯いたまま、テーブルの上の空のカップに視線を落とし、そこに話しかけるように言うのが精一杯だ。

「まぁ、ちょっとね……」

 言葉を濁した。情けないとは思ったが、またプライドが顔を出した。

 ただ、言い淀んだトオルの心中を一体どう解釈したのか、美純は急に頭を下げたのだ。

「ゴメンね、朱奈がなにかキツい事、言ったんでしょ」

「ん? ……あ、いや」

「あの子、思ったことをすぐ口にしちゃうから、それでよく周りとぶつかっちゃうの。でも、本人は全然悪気はないんだよね。だから、朱奈のこと、許してあげてほしい」

 そう言うと軽く笑顔をみせる。慈しむような優しさを浮かべたその表情は、彼女があの友人のことをどれくらい大事に思っているかを知るには十分だった。

 そして、朱奈もまたそうなのだ。

 だからあの子はトオルの事を許せなかったのだろう。

 トオルの態度が朱奈の目にどう映ったのかはわからないが、煮え切らない状態のまま何気なく美純と会話する彼の姿を見て、美純のためにどうすることが一番なのか彼女なりの考えがあっての言葉だったはずだ。

「……怖いなんて思ってない、か」

「えっ?」

「いや、なんでもない……」

 出ていった言葉をかき消すように首を振ると、トオルは立ち上がった。

「さあっ、そろそろ閉めるぞ。美純、忘れ物するなよ」

「あっ。……うん、ちょっと待ってて」

 促すと、美純はカウンター席の棚から自分のバッグを取り出し、慌ただしく帰り支度を始める。

 トオルは倉庫兼更衣室のように使っている小部屋で、コックコートからYシャツと年期の入ったジーンズに着替えると、ブーツに足を突っ込む。準備の済んだ美純を促し、照明を消すと、二人は『カーサ・エム』を後にした。



                   ◆



 特に会話もないままに、二人は並んで道を歩いた。行き先を訊ねもしなかったから、体は勝手に駅へ向かって進んでいる。

 美純の家はひとつ隣りの駅だ。このまま真っ直ぐ帰るわけでもないだろうが、トオルの帰り道の途中に駅があるから、送るならそこまでがちょうどいい。

 それに美純も大人しく付いてきていた。ひまわりみたいな色をしたキャミソールに、ジーンズ地のショートパンツ姿の彼女は、踵の低いサンダルをぺたぺたとしながら、トオルのすぐ横を歩いている。

 普段は滅多に外を出歩かない時間だったから、トオルは人の多さに思わず圧倒されてしまった。ちょっとした神社仏閣くらいしか観るもののないこの街に、意外なほど多くの人が収まっているように感じたのだ。いつも見慣れた景色と違う街の雑踏を初めて通る道のように感じながら、あちこちキョロキョロと見回して歩く。

「あっ」

 急に美純が小さく呟いたのが聞こえて、彼女の視線の先を探すと小さなクレープ屋を見付けた。店の造りが新しいから最近出来たばかりなのだろう。車一台分くらいの幅の本当に小さな建物、小窓から顔を出した女性がまだ湯気のたつクレープを客に手渡していた。

 ずいぶん昔に流行った気がするが未だに廃れずに残っていたんだなと、トオルはちょっと感心してしまう。仕事でドルチェを作ることはあっても、それを食べることは少ないから、巷では一体どんなものが売られているのかはちょっと興味はあった。

 しかし、様子をのぞき込もうとして、隣りにもっと目を輝かせているのがいれば、どうしたってそっちの方が気になってしまう。

「なんだ、お前。まだ、食いたいのか?」

 言うと、目だけがトオルのほうを向いて答える。

「一個全部は無理だけど、ほんのちょっとは食べたいかも……」

「あのなぁ」

 腹の中にはたっぷりフルコースが詰まっているのに、欲望が必死になってクレープ一口分のスペースを開けようともがいているわけだ。想像すると可笑しくて、思わず笑ってしまった。

「なによぅ、思うだけならいいじゃない。本当に食べるわけじゃないんだから」

 ツンとする美純に急に背中を押されて、よろけるように一歩踏み出す。

「おい、そんなに押すなって。人とぶつかるだろ」

「う、うるさいなっ」

 力まかせにグイグイと押してくる美純をなだめようと思い振り返るが、美純は片手を伸ばしその顔を押し戻そうとしてきた。

「な、なんだよ」

「いいのっ。前、見て歩けっ!」

 下を向いたまま上擦った声で言う美純に、やれやれと肩をすくめ溜息する。背を押されるがままの不自然な行軍で駅を目指して歩き、すれ違う人の間を器用にすり抜け、時折目の合う見知った顔には困惑顔を作ってみせた。仕入れに使っている魚屋のおばさんの冷かしには、手のひらをヒラヒラさせて適当に答えておく。

 しばらく歩いて駅前のロータリーに出ると、二人はようやく人の波から開放された。

 幅の狭い道に路面店がいくつも軒を並べた通りだったから人口の密度が高かったようで、駅前はそれほどごった返してはいなかった。

 呼吸をすると空気が透き通って感じる。まるで海中から顔を出した瞬間のような安堵と清々しさのようだ。

 1から12まであるバス停は中途半端な時間だからか並ぶ人影も少なく、トオルが三日に一度は立ち寄るハンバーガーショップも閑散としている。

 ただ、人目が多いなかでは大して気にならなくとも、逆に限られた視線に晒されると敏感に反応してしまうこともある。近くを通り過ぎる顔の多くが同世代の女子だというのもあって気恥しさを感じたのか、美純は急に背中を押す手を下ろした。

 推進力を失ったトオルはその場に立ち止まってしまう。

 不思議に思って肩越しに目だけで様子を伺うと、彼女はさっきよりも深く項垂れ、まるで自分の行動を反省でもしているかのようにみえた。

 トオルはひとつ息をする。

 吸って、吐いて。ため息のような、胸の中のいくつもを洗って流していく深呼吸。

 その小さなひと呼吸の合間に、美純が短いひと呼吸を挟んだのが肩の動きでわかった。

 吸って、そしてその吐き出した彼女の息にのって出てきたのは、かすれるような小さな声。

「……朱奈に……なんて言われたの?」

 か細い声は先程までの雑踏の中ではきっと聞き取れなかっただろうかすかな音。トオルは一度、「えっ」と聞き返そうとして、けれど一旦躊躇した。

 このまま聞こえなかったフリにはできないか、と。

「ね……トオル?」

 しかし、そんなあざとい考えはシャツの裾を掴んだ手が許してはくれない。その手に込められたのは大した力でもないのに、そこからは十分すぎるくらいの決意を感じたのだ。

 答えない訳にはいかない気がした。

 けれど、どう答えたらいいのか、言葉に詰まった。考えて、真実からほんの少しだけ離れた嘘をつく。

「大したことじゃないって。店のこととか、お前がどのくらいちょくちょく来るのか、とかな。なんでそんな事を訊くのか、理由までは訊かなかったけどな」

「嘘。……そんなはずない」

「嘘なんかじゃないさ」

 トオルは彼女がその言葉を信じるに足るよう、ちょっと深めの笑顔を作ってみせる。それはさっきの言葉を真実に変えるための調味料みたいなもの。

 だが、すっと上げた美純の目には、そんな隠し味程度では騙せないはっきりとした意志があった。その瞳の色は、今まで彼女が一度も見せたことのない深い色だった。

 急に周囲の音が聞こえなくなったように思えたのは、きっと彼女の唇が言葉を紡ぐひとつひとつの動きに、神経のすべてが奪われたからだ。

 トオルは唾を呑み込んだ。その音だけが妙に大きく響く。

「ううん、嘘……。だってね、私、本当は聞こえちゃってたもん。トオルと朱奈が話すの……」  

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