Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 5
時計を見るともうすぐ16:00。ランチタイムは閉店の時刻をむかえる。
初夏の太陽は今だ頭上高くに居座っているのか、日差しは真っ直ぐ刺さるように地面を照りつけ、夕暮れの気配はほど遠い。
窓の外の様子にだんだんと一日が長くなってきたのを感じる。
いつまでも明るい夏は、まるで働き者のための用意された季節のようだ。
大半の片付けを済まし、片手には珍しく自分だけのために入れたコーヒーのカップを持ってキッチンを出ると、トオルはカウンターの一番端の席を引いて腰を掛けた。深呼吸を一回と、背中を伸ばすのを一回、それから口をつけたコーヒーの苦味が、いつもよりも短めの一日の労働を労ってくれる。
会話というよりは、美純が喋るのに朱奈が耳を傾けるだけの一方通行な二人のおしゃべりは、放っておけばいつまでも続きそうだった。
仕事のあとのぼんやりとした頭は彼女達が話すその内容をちっとも飲み込もうとしなかったが、友達同士遠慮なく話す今の美純の姿は、普段このカウンターで年長者と会話する彼女の様子とは違って、なかなか新鮮にみえた。
「美純、そろそろ閉めるからな」
「あっ、もう、そんな時間なんだ」
会話を遮るのも悪い気はしたが、さすがにずっとこうしているわけにもいかず、トオルは二人に声を掛けることにした。
『カーサ・エム』は店内の見える場所には時計を置いていない。それは時間を気にせずゆっくりとしてもらうためのゲストへの配慮だ。そのため美純はバッグから出した携帯で時刻を確認すると、その経過の速さにちょっと驚いた顔をしていた。
朱奈に一言声を掛け、彼女は帰り支度のために化粧室へと立つ。
休日ということもあってか、今日の彼女の目元や口元はいつもよりほんのちょっとだけ艶やかだったから、手入れには少し時間がかかるだろう。
そして、カウンターにはトオルと朱奈の二人が残った。
途端に店内は湖水に落ちたような深い静寂に包まれてしまう。
ただ、この静まり返った空間をまるで空気が薄くなったように感じてるのは、もしかしたらトオルだけなのかもしれない。朱奈の横顔は美純と話している間も今も、ほとんど表情を変えることはなかったからだ。
この少女は独特の空気感を纏っていた。
言葉少なくて、表情も少ない。年の離れているのもあいまって、何を考えているかつかみきれない。
正直、ちょっと苦手なタイプだな、とトオルは感じていた。
だからといって無言を通すのは接客業としては如何なものかと、頭を捻って話題を探す。
「君、美純とは同じクラスなんだ?」
「はい」
「学校では、よく一緒にいるの?」
「はい」
相手の返答から会話のきっかけを探る手は失敗だ。ならば、と質問の傾向を変えてみる。
「美純っていつもよく喋るだろ。今日も一方的に喋り続けてるし。ねぇ、どうやったらあの子にこっちの話を聞かせられるのかな。コツとか、あるの?」
小さく微笑み、わざと肩をすくめてみせた。まるで同じ苦労を抱える仲間同士のような顔で、トオルは朱奈の言葉を引き出そうと試みる。
しかし、彼の方を振り向いた朱奈の口からは、その質問の答えとはちょっと違った内容の返事が返ってきたのだ。
「みーちゃん、今日は無理して喋ってる。普段はあんなに喋らないです」
「えっ?」
「クラスで友達と話すときは、すごく言葉を選んで喋ってる。でも、今日は喋ってないと落ち着かない感じ」
「そう……かな?」
言われても、ちょっと想像がつかなかった。トオルの知っている美純といえば、思ったこと、考えたことをそのまま口にする屈託のない少女の印象だ。
「あ、でも私には普通にヤダとかダメとかは、言うかも」
「ふぅーん。じゃあ、仲がいいんだね」
「…………」
朱奈は瞳をくるっとさせ、小首を傾げた。彼の言った言葉の意味がよくわからなかったのか、訴えかけるような視線でもってトオルのことを見つめてくる。
「ああ、いや……言いたいことを言えるくらいに君のことを信頼してるって、そんな意味だったんだ。ゴメンね、解りづらい言い方をしちゃって」
トオルは片手を軽く振って詫びたのだが、朱奈はそれに対して返事もしないし首も振らなかった。まるで自分には関係の無い報告を耳にしたときのように、表情ひとつ変えずに聞き流した彼女を、トオルはちょっと不思議なものでも見るように捉えていた。
彼が次の言葉を探している間、朱奈はじっとトオルのことを見据えたままだった。
彼女は気だるそうな、まどろんでいるような表情でこちらをのぞき込んでいた。それがきっと彼女のニュートラルな表情なのだとはわかっても、なんだか見下ろされているような居心地の悪さを感じてしまって、腰を浮かせて座り直したり、空になっていたのも忘れてコーヒーカップに口を付けしてしまう。
美純が戻ってくるのを、心のどこかで期待し始めていた。
早く化粧室の扉が開かないかと、そんなことを考えてしまった時だ。
ふと、彼女ほうから口を開いてきたのは、トオルからしたら本当に意外なことだった。
「あの……」
「ん?」
トオルは目線を扉から朱奈のほうに戻した。すると、朱奈は小さくひと息ついてから、しっかりとした口調で言ったのだ。
「どうしてみーちゃんに、返事してあげないんですか?」
「えっ?」
その言葉が、トオルをさらに驚かせる。
「……嫌いなんですか? それとも興味もないんですか? それならそうと、ちゃんと言ってあげればいいのに」
「い、いや、別にそんなふうには思っていなくって、ね」
すると朱奈はことさら目の色を黒くしてトオルの瞳の奥をのぞき込んでくるのだ。
「どっちでもないなら、どっちでもないって言えばいいじゃないですか? ……すいません、先に言っておくと、私、思ったことを口にしないとダメなタイプなんです。言いたいことがあったら、考えるより先に口から出ちゃう」
これまでの彼女とは打って変わって饒舌な口ぶりに、トオルは二の句がつげなくなってしまう。
「みーちゃん、私に相談してきたんです。ずっと年上の人を好きになったって。思い切って告白したけど相手にもしてもらえなかったみたいって。なんとか忘れようとしたんだけれど、どうしてもうまくいかないって。でも、なんでみーちゃんだけ苦しくて、そいつは苦しくないのって思ったら、私、納得いかなかった。悔しいから、せめて顔だけでも睨んでやろうって思って連れてきてもらったんです。そうしたら、あなたはまるでみーちゃんの告白のこと、なかったみたいに普通に振舞っていて……」
「い、……えっ?」
肩で息を吸って深呼吸のようにすると、朱奈は胸にたまった思いをひと息に吐き出すように言う。
「ひどい。彼女を苦しめるの、やめてください。どうしてあんなに必死に喋ってるのか、ちゃんと考えて上げてほしい」
気が付くと気だるそうにしていた表情は鋭くトオルを睨まえていた。トオルは少女の言葉に押されて、思わず唾を飲み込んでいた。
「ちゃんと自分の口で言う勇気がないんなら、私が代わりに言ってあげましょうか?」
挑発的な言葉は、しかしようやくトオルの頭にも事態を把握させるきっかけとなった。
「君は、ずいぶんと失礼な事を言ってくれるね。高校生の恋愛観だけで語られるほど、俺だってなんにも考えていないわけじゃない」
朱奈は顎にきゅっと皺を寄せ、初めて顔に感情を表わした。トオルの言葉を不快に思ったのが丸分かりだ。
「考えてない。みーちゃんにあんな顔させてるのに、考えているはずがない」
「違う。うまくいきっこないから、黙ってるんだ。それに、わざわざ傷付けるような言葉を聞かせて解決するより、時間をかけて少しずつ忘れたほうがいいこともあるんだよ」
そう言ってトオルがついた溜息を、朱奈は眉に皺を寄せた険しい顔で見ていた。
思ったことがすぐに口に出る、といったのは確かにその通りで、滑るように飛び出した彼女の言葉は、トオルの眉をつり上げるには十分な威力だった。
「意気地なし。傷付けたくないんじゃなくて、傷付きたくないんだって、言い直して」
「……っ、おい。調子にのるのもいい加減にしたほうがいいぞ」
トオルは声を低くした。しかし、朱奈は怯む様子もなく続ける。
「これからいっぱい恋をして、いっぱい別れて、傷付く。その繰り返し。私はそれを怖いなんて思ってない。怯えてるのは……あなたのほうでしょ」
「ふ、……うぅっ」
それ以上言葉が続かなかったのは、店の奥でガチャっと音がして、扉の向こうから美純が顔を出したからだとトオルは思いたかった。
だが、胸の奥がズキズキと痛んで仕方ない。二の句をつげないのは、朱奈の言葉が思ったよりも深く突き刺さったからに違いないのだ。
塞がっていたはずの傷口に尖った先が触れた。その疼痛が思いのほか強かったからだ。