Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 4
餌を待つ目の子リス達のために、モッツァレッラチーズとトマトをサラダと一緒に盛りつけ、海老と野菜を入れたイタリア風のオムレツを焼く。パスタはさっぱりとしたオリーブオイル・ベースの魚介ソースでスパゲッティと、バジルのペーストを絡めたカザレッチ(ショートパスタ)の二種類。カジキマグロをグリルして、シチリアスタイルのトマトとアーモンドのソースを仕上げにかけるメインディッシュのあとには、ドルチェでニューサマーオレンジのゼリーとシャーベットの盛り合わせ。
「あ、ふぅ」
食べ終わった美純がため息ともつかない声で言ったのは、満足からか、満腹からか。
二人分と思って量もしっかり目に作ったつもりだったが、美純と朱奈はそれをぺろっと食べてしまったのだ。ただ、コーヒーを勧めたらお腹に入りきらないと珍しく断ってきたから、ちょっと無理して詰め込んでいたのだろう。
朱奈はバジルソースのパスタを口にしたとき一度だけ「おいしい」と呟いていた。
ただ、それ以外が気に入らなかったのかといえばそうでもなさそうで、よく見ていれば何度も目を見開くような素振りがあった。
言葉にされなくとも、その表情でトオルは十分満足だ。
美純にしても朱奈が喜んでくれているのを肌で感じたらしく、趣旨満足そうな笑顔でいた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした、おいしかったです」
二人はトオルにそう言ってから、今度は互いに顔を向け合って、今食べた食事の感想を話し始めていた。
「ははは、よく食べきったな」
「ええ、結構あったと思うんですけれどね」
トオルの言葉に哲平は深く頷いて同意した。もしも立場が逆でトオルと哲平が食べる側だったら、果たして完食できたかは定かでない。
隣りでコーヒーをすすっていただけの哲平が、二人の食べっぷりに感化されたらしく珍しくパスタを注文してきたので、トオルは野菜とアンチョビのペペロンチーノを作ることにした。すると、カウンターの向こう側から乗り出してきた二人の観客はその様子をじっと見つめてくる。
「どうした?」
トオルが声を掛けると、美純は「見てるだけだよ」と返してきた。朱奈のほうに視線を送ると、彼女はじっとトオルを見つめ返すばかりで言葉はない。
茹で上がりの麺を手早くソースと絡め、仕上げのエクストラバージンオイルを掛け入れて香りを立たせるよう煽ってから盛り付けると、さっきまで満腹で苦しそうだった二人から感嘆の声が上がった。
「お前、まだ食う気か?」
「ち、ちがうもんっ。ただ、美味しそうだなっ、て思っただけで……」
トオルの軽口に顔の前で手を振って抗議する美純を見て、哲平がまたカウンターを叩いて笑い、それにつられて朱奈とトオルも顔をほころばせた。
美純は恥ずかしそうに顔を赤らめてしまう。
「ううう……トオルのバカッ、人を食いしん坊みたいに言ってぇ!」
恨みがましい目を向けてこられても、カウンターを挟んでいるから対岸の火事、だ。
そうこうしているうちに、週末の穏やかなランチタイムはあっという間に過ぎ、営業時間も残り少なくなった店内には、居心地がよいのかカウンター席の住人だけ。
少しずつ後片付けを始めていたトオルは、洗い物を粗方済まし、残った食材を保存のきく容器に移し変え、それから売上の計算とレジを閉める準備を始める。
その手を、不意に鳴った一本の電話が止めた。
今夜の予約の電話だったらなんと言って断ろうかと考えながら受話器を取ると、電話口の相手はよく名前を耳にする哲平の仕事関係の人間だった。
「哲さん、電話です」
「ん? おう」
話の内容がすべてわかるわけではないが、哲平が受話器に返す言葉を聞けば少し急ぎの用事のようだった。ほとんどが「ああ」と「いいや」で済む、業務的な会話が終わると、哲平がトオルを見て言った。
「悪い、あと、任していいか」
「はい、もちろん」
哲平がバッグの中身を確認して足早に発とうとすると、その背中に美純が声を掛ける。
「お仕事、ですか?」
「ああ、急なのが一件入ったみたいでね。美純ちゃん達はゆっくりしていってくれよ」
軽い会釈で答えた美純に手を振ってから、哲平は扉を開けて外に出ようとした。
しかし、何かを思い出したのか、彼は半分扉をくぐっていた体を戻し、トオルのほうを振り返った。
「トオルっ」
「はい、何か?」
一旦手元の作業に落としかけた視線を再度哲平のほうに戻すと、彼は扉のところを指さして言う。
「入口に、ディナー休業の張り紙をしといてくれよ。あと、今日の売上は金庫の中に、な」
トオルがそれに首だけで頷いてみせると、哲平は片手を上げて「頼むな」と一言残し、店を出ていった。
哲平一人が出ていっただけなのに、『カーサ・エム』の中は急に静かになった気がした。美純と朱奈は相変わらず何かを喋ていたが、それは教室の隅でやるような顔を寄せ合ってする小声の会話だったので、店内はまるで放課後の教室のようだ。
トオルはレジの中に残っていた金額と売上を照らし合わせ、間違いがないことを確認すると、今度は一枚紙を取り出してきて、黒いマーカーの大きな字で『ディナー臨時休業』と一筆したためてみた。
しかし、普段外向きに字を書く機会の少ないコックの筆というのは、かなり散々なものだ。自分の字ながら俯きたくなるその出来栄えに、トオルは苦笑いしか出ない。
「あれ、夜ってお休みするの?」
顔の高さまで掲げてにらめっこをしていた紙の向こう側から美純の声がしたので、トオルは首肯で答える。
「急に貸切の予約がキャンセルになったんだ。週末はフリーのお客さんがあんまり期待できないから、じゃあ、たまには休むか、ってことになった」
「ふぅん……」
鼻から抜ける空気みたいな気のない声で返事をしてくる彼女。
トオルはふと思い付いて、急に手に持った紙を裏返し、美純に自分の書いた字を見せてみる。
すると、微塵の遠慮なく彼女は吹き出した。
「ブッ、ひっどぉ。それ、字?」
「あぁっ、なんだと?!」
なんとなく癇に触るその反応にムッとして、トオルは紙をクシャクシャに丸めてしまった。あーっ、と声を上げる美純を一瞥すると、トオルは新しい紙とマーカーを用意してきて彼女に突きつけた。
「じゃあ、お前、書けよ」
「いいよぉ」
ニンマリ顔で快諾した美純が、わずか数秒で書ききったそれは、トオルから言葉を奪うくらいに見事な達筆だ。
「習字は五段っ」
Vサインで得意顔をする美純が妙に腹立たしく思えて、トオルは礼を言う代わりに彼女の額を指で小突いた。
「ちょっ、痛ぁい……もう、なにするのよぉ」
叩かれたところを手でさすりながら不満顔をした美純。その手元から無言で紙を取り上げると、トオルはそれを扉の見やすい高さに貼り付けた。
その仕上がりを何度か角度を変えて確かめてみる。問題なしだ。
それから美純の方を振り返って言った。
「サンキュ、助かった」
「なによ、それ? 私、なんで叩かれたの?」
「んー、お礼?」
「そんなお礼、ないもん!!」
トオルがちょっとおどけて答えると、美純は首をブルブルと振って不満を全開に表していた。