Day by day. ≪昨日より、今日より、明日はもっと≫ 1
その日はどんよりと薄曇ったお天気模様に、人々は物憂い顔で空を一瞥するか、もしくは地面に目を落とすか、どちらにせよ一様に重苦しい気持ちを抱えて過ごすような日だった。
だから、もしも普段だったらやり過ごせるようなことが癇に障ってしまったのだとしても、今日という日の中でなら仕方ない気がした。
たとえばトオルがなんとなく口にしてしまった言葉が、真由子をさっきまでの申し訳なさそうな顔から一転して、不快感を露わにした表情にしたとしても、だ。
「ちょっと……そんな言い方ってないでしょ」
ただ、彼女の向けてくる尖った視線と表情とに、トオルが苛立ちを覚えたのには理由があった。
確かに言葉に刺があったのは認めるが、それとこれとは話が別だ。反省をするならともかく、反感を持たれて睨まれるのは筋違いに思えていた。
だから、つい言葉が荒くなってしまう。
「だけどな。勝手に決められて、段取りまで始めて、それから相談したいなんて言われても、そんなの話し合いとは言わないぞ!!」
「そのことはもう謝ったじゃないっ。一体、何度蒸し返せば気がすむの?」
叩きつけるような口調になってしまったのを後悔しても、あとの祭りだ。売り言葉には当然、買い言葉が返ってくる。
トオルは唇を噛んだ。
「なぁ、真由子。謝ればいいってものじゃない。大体、お前は大学を辞める時だってそうだったろう? 俺に相談するわけでもなく、自分で勝手に……」
深呼吸をひとつ入れ、努めて冷静に言ったつもりのトオルの言葉を、熱くなってしまった真由子は激しく首を横に振って聞き入れようともしない。
あえて言葉をかぶせてくる。
「あの時の事と今とは、全然話が違うでしょ! トオルは事の重大さに気付いていないのよ。本当にどうにもならなくなる前に手を打たなくちゃダメだってこと、わからないの?」
真由子の瞳には、一見してわかるくらい濃く沈痛な色が滲んでいた。
「私達……もう、その時期なのよ」
彼女の目はしっかりとトオルのことを捕えたまま放そうとはしない。視線を正面からまともに受け止められなかったトオルは、それから逃げるように顔を背けた。
「……だけどな」
呟いた一言があまりに小さく、それが自信のなさを表しているようで悔しかった。
トオルは咳払いをひとつすると精一杯に胸を張った。
「俺達、きっとまだ、やれることはあるはずだろ?」
だが、真由子はそれをきっぱりと否定してくる。
「いつまで夢をみているつもりなの? 私達、今夜の売上がそのまま、明日の仕入れの費用になるような生活なのよ。今夜、このままお客さんが入ってこなければ、明日揃えられる材料なんてたかが知れてるわ。まともな食材がなければ、そもそも店を開けることすら出来ないのよ」
真由子が一度深く深呼吸したのを、トオルは横目でちらっと見ただけですぐにまた顔を背けた。
こめかみ辺りに突き刺さってくる彼女の尖った視線を、トオルはじっと息をひそめて気付かないふりをするしかない。
「……ねぇ、トオル」
トオルが答えるのを、すぐ横の真由子はじっと待ち構えている。
互いの息遣いまでが浮き彫りになる沈黙。けれども、返す言葉までは浮かんでこない。
結局、さっき以上に深いため息がそんな無音の空気を押し出すのだ。
「もう、終わりなの。このお店は……潰れるわ」
瞼を伏せたのも、唇を軽く噛んだのも、二人一緒な気がした。
これまで真由子が一度もその言葉を口にしなかったのは、きっとトオルに対しての優しさだけではなく、彼女自身がその事実を受け止めたくなかったからなのだろう。
だが今、躊躇いの欠片もなく言い放った彼女の声には、低く響く覚悟の音があった。
トオルはそれでもうまく言葉が出ない。
彼にはまだ、その現実を受け入れる準備はできてないのだ。
だから、情けないとはわかっているのに口から出るのは冗談めいた言葉しかない。
「いっそのこと、出前でもやるか?」
真由子から睨むような目で見られた。
「そんなこと言って、本当に自分が出来ると思っているの?」
「た、多分……い、いや、出来るはずさ」
彼女の向ける疑いの目を突き返すように、トオルはちょっと大げさなくらいに自信の表情を作ってみせる。それをじっと冷静な顔で見据える真由子は、やがて小さく一息吐くと肩を落とした。
「無理よ、絶対。あなたにそんな器用なこと、できるわけがない」
そう言った真由子は、ついに彼を見限ったように瞳を逸らした。
「なっ! そ、そんなこと、やってみないと……」
「いいえ、無理。だって、トオルは自分のやりたくないことを我慢してまでやれるタイプじゃない」
「う、……ぐっ」
自分をよく知るパートナーだからこその重みのある一言。その言葉を、そう簡単に否定することなどできない。
真由子はトオルの事をトオル以上によく知っているのだから。
最大の理解者が導き出した答えなら、それがきっと間違っていないと確信できるくらいに、トオルは真由子を十分に信頼している。
だから――苦しい。
これまで手を取り合って歩んできた相手が急に道を引き返そうとしたなら、追いかけるか、袂を分かつか、選択肢はその二つしかないような気がするのだ。
「閉めようよ、『カーサ・エム』を」
「いや、だけど……」
「また、二人でやり直せばいいじゃない。そうでしょ?」
諭すような穏やかな顔を向けられても、彼はそう簡単には首を縦に振ることができない。
なぜなら、ここは二人にとって大切な場所だからだ。妻の名前まで付けた、何ものにも代え難いものなのだ。
それは例えるなら、きっと我が子と言ったっておかしくはない。
「そんな……そんな、簡単に言うなよ」
「えっ?」
「お前にとったらやり直せばいいことなのかもしれないけれど、俺にとったらそうじゃないんだ。なくしたくない……絶対に失いたくない物なんだよ。最後の最後まで足掻いて、それでもダメなら一緒にくたばったっていいと、俺は本気で思っている」
その言葉に困惑した表情をする真由子。
トオルは訊ねた。
「なぁ、真由子。お前にとってこの店はなんなんだ? 生活のために収入を得るだけの場所か。それとも、俺が始めたから仕方なく手伝ってるってだけか」
「ちょっ……と、トオル?」
「考えてみれば、お前はいつも俺のやることに否定的だったよな。あれはどうしてだ?」
彼女の眉がハの字になると、その顔は怪訝な表情に変わっていく。
まるでトオルの心理を伺うかのように、上目遣いに覗き込んでくる。
「ねぇ、それって、どういう意味で言ってるの」
「どうって……ああ、どういう意味なんだろう? 俺にだってわからないよ。でも、ほぼ毎日、店でも家でも一緒にいて、なのにお前が何を考えているのかこんなにも理解できないなんて、な」
自嘲気味に笑うトオルの目は真由子のことを見ているはずなのに、彼女の表情がどんどん複雑な感情を混ぜくった色に変わっていくのを、少しも見てはいなかった。
「どうしたんだろうな……本当、どうしてこんなになっちまったんだろうな……」
トオルはそばにあった椅子にドスっと深く座り込むと、天井を向いた顔を手で覆った。
真由子がまだ何かを言っているのが耳には入っていたが、何と言っているのかまではわからない。ただ、それに耳を傾ける気もさらさらなかった。
「俺は、絶対に手放さない。この店は俺達の……いや、俺の全てなんだ」
うわ言のように呟いた言葉は、間違いなく自分に向けていった言葉だ。
トオルはよく知っていた。
真由子の事は真由子以上によく知っている自信があった。
だから半分は覚悟していたのだ。
彼女は決して自分の意見を曲げることはない。
トオルが首を縦に振れないのなら――それは二人の決別を意味することになる。