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Love laughs at locksmith. other side ≪Ruri Izumi≫


「いやいや、参ったね。想像以上だよ。君にお願いした甲斐があった」

「そう言ってもらえるとあたしもやった甲斐があります。正直に言っちゃうと、実は結構、自信作なんです」

「うん、そうだと思うよ。筆に迷いがない、っていうのかな。それが良い意味でダイナミックさにつながっていると思う」

「ありがとうございます」

「日本人の僕がこの国で造ったワインのラベルを、日本人の君がデザインする……これって市場にとってはきっと売り文句になるから、今後も君との関係は良好にしておきたいな」

「もちろんっ! こんなチャンスなんて滅多にもらえないですから、あたしのほうからもぜひお願いします」

「そうか、よかった」

「また精一杯、描かせてもらいます」

「ああ、そのときはよろしくね」

 話の終わりは一杯のワイン。

 自身がデザインしたラベルが貼られたボトルを傍らにしながら飲むその味は、これまで口にしたどんな物よりも格別の味だった。舌だけでなく、魂までも満たしていく気がするのは、そのボトルに貼られたたった一枚の紙きれが、しかし自分にとって生まれて初めて対価を――『評価』を手にした創作だからかもしれない、と瑠璃は感じていた。

 クライアントからは日本とバルセロナの融合、なんて漠然としたリクエストしか出されなかったから、最初はずいぶん悩んだのだ。何枚描いてもしっくりこなくて、その度に色々考えてはまた描いた。

 それでもやり遂げた。自分一人の力で。

 その達成感に今、舌も体も震えていた。興奮が体の芯の部分を柔らかく長く締め付け、じっとしていると身悶えそうだ。

 『評価』を得る、ということは自分を認めさせる事であって、つまりは自分の存在を他者に必要とさせる事。

 自覚はなくとも彼女は『それ』を間違いなく欲していた。

 生まれてからたったの一度も水を与えられた実感のない心の干ばつ地帯に、ようやく今、恵みの雨が注いだわけだから、胸の奥底から湧くその感情の実体が何なのかをちゃんと理解のはまだ難しい。

 それでも、と瑠璃は思う。

 自分は正しかったのだ。悪いのは、それを認めようとしないあの国だ。

 瑠璃がスペイン――バルセロナに留学してから一年半が過ぎていた。この国に来たのはもちろん芸術を学ぶためだったが、しかしそれは彼女の目的の半分でしかない。

 もう半分はこの国でチャンスを得ること。

 学生の身でありながらそれを得るのは非常に難しいことは重々わかっていたから、たとえ偶然と幸運だけがもたらしただろう今回の縁であっても、瑠璃は何が何でもモノにしたかった。

 彼女は自分の描いたもの、自分の形作ったものを人々に認めさせたいとずっと思っていた。

 幼い時分、それこそ物心ついた頃からすでにあったその思いは『夢』なんて呼ぶにはもっと貪欲で、ドロっとした質感の『自我』なのかもしれない。欲望とも呼べる感情は、けれど彼女が日本にいる間は一度も満たされることはなかった。

『なんでみんなとは違うことをするの?』

『瑠璃ちゃん、お空は青いものなのよ?』

 思いのままを紙に載せると、返ってくるのは否定の声、奇異の視線。

 何年も、何年も溜まりに溜まったフラストレーションが、瑠璃を自然とこの国に追いやった。

 その先がなぜバルセロナだったのかは、もうよく覚えていない。ただ、住んでみて感じるたのは、びっくりするほど水が合ったということ。言えば冗談のように聞こえてしまうだろうから口にしたことはないが、きっと自分の前世はカタルーニャ人であったと確信している。日本いた時の、補整下着を着けたような窮屈な感覚はもうない。

 この地が自分を満たしてくれる。

 若い彼女にもう一歩踏み出させるには十分な原動力だった。

  

「早くスペイン人の男に抱かれたい。それで出来ちゃった結婚して、この国に永住したいよぉ」

 もう誰に言った言葉なのかも忘れたが、そう思っているのは本心だ。

 彼女にとってこの地にずっと留まることがとても重要で、だが難しいとなればその方法まで選んではいられない。

 第一、男なんて見た目がちょっと違うだけで中身はどれも代わり映えなんてしないから、利用できる方がいいに決まっている。なにしろ言い寄ってくるのと同じ数だけ去っていったこれまでの奴らが、瑠璃の心の乾きを潤してくれたことなんて一度だってなかったから、さすがにもう奴らのことはすっぱり諦めが付いていた。

 男なんて、あの国と一緒だ。

 自分を満たすのはこの国と自分だけ。

 最近では少しずつ仕事の声が掛かるようになってきた瑠璃にとって、自分の欲求を満たすのは自分の創り出すものとそれに対する評価に変わっていた。

 だがその事を不満に思ったりも、不愉快に感じたりもしない。

 今の瑠璃は昔と違って自身の乾きを癒す方法を知っていた。それさえあれば十分だった。

 あのワインのラベルの仕事は自分でもびっくりするほどの効果があったらしく、ワイナリーのオーナーからは悲鳴のような苦情のような電話をもらったことがある。

「『あれを描いたのは誰だ』って問い合わせがしょっちゅうあるんだ。まるで僕は君の代理人扱いさ」

 街のほとんどの酒屋でもショーケースに並んでいるのは、素晴らしいからでもなんでもなく、ただ生産本数が多いからなのだろう。でも、それが逆に多くの人の目に触れる機会を生んでくれたわけだ。酒の席でのことだから本気かどうかはわからないが、突然専属契約を結びたいなんて声も頂いたくらいだ。

 生活は充実していたし、仕事だって学生という身分を考えれば概ね順調だった。――いや、順調すぎるくらいだ。

 それに今の上々の自分を、一緒に噛み締めてくれる親友だっている。

「……だからさ、それだっけ、は……譲れないで、しょぉぉ~って」

「くっくっく。確かに瑠璃らしいっていえば、らしいけどね。でも、いいの? そんな我侭、言っちゃって。クライアントでしょ」

「いいのよっ! だって見え見えなのよぉ、アタシの体目当てなの。高い報酬ったって、……ひっ、ひっく……きっとソッチのほうまで含めた金額なのよ。そんなの、じょ、冗談じゃ、にゃいわろ……」

「もう、飲みすぎよ」

「だいっ、じょう、ぶっ!! ……まだ、飲むぅ」

 たとえカウンターの隣からどんな目で見られているかわからなくなるくらい飲み潰れても、真由子は自分を放ったりはしなかった。いつも笑って付き合ってくれた。

 瑠璃にとって数少ない、自分を認め評価してくれる存在。大事な親友だ。

 そしてこんな親友を与えてくれたのも、この国なのだ。

「もう帰るわよ、瑠璃……」

 ほんのちょっとしか開かなくなった瞼の向こうで苦笑いらしい表情をみせている真由子に、最近では決まり文句みたいに言うようになった一言をもらす。

「トオル……呼ぼ。歩くの、や……」

「だからいつも言ってるのに。飲みすぎちゃダメだって。こんなに無用心な女の子、他にいないわよ」

「そのための、用心棒じゃない」

「彼、また怒るわよ」

「いいのよ、言わせておけば」

 男なんて、とは続かなかった。その不満を口にするよりも先に酔いと睡魔が勝ったからだ。けれど瑠璃はそんな綿菓子みたいに甘くて溶けるような口惜しさとたっぷりの満足感に包まれ、今夜もいつもの背中で揺られた。


 満たされた日々。

 欲しかったものを与え、常に乾きを潤し続けてくれる場所。

 それが彼女にとってのバルセロナ。

 人は水なしでは生きていけないから。


 その日はなぜか真由子の姿を学校でも見なかったから、なんとなく一日一人だった。

 別に他に話す相手がいないわけでもなのだが、瑠璃は実はあんまり人と話すのは好きではないタイプだ。

 というよりも彼女は会話をするのが苦手だった。

 話したいことがあるのに他人の話を聞くのはなんだかウズウズするし、それに答えるよりも先に自分の話を聞いてほしい。

 喋りたいことがあるから話すのに、なんで譲り合いみたいな事をしなくちゃいけないのか彼女には理解できなかったし、相手に合わせなるなんてもどかしくて絶対耐えられない。おまけに相手からは露骨に不快な表情までされるなら、そんなのこっちから願い下げだ。

 だから結局、消化不良な気持ちのまま授業を終えて、欲求不満のまま街をブラブラし、なんとなく入ったカフェで最初の一杯だけコーヒーを飲んで、次からずっとワインを飲んでしまったとしても仕方がない気がした。

 一人で淡々と飲むワインがこんなにも効くとは知らずに。

 気が付くと頭がほわほわとしていて、しばらくしたら眠くなった。今日はさすがにまずいだろうと思ったから立ち上がって帰ろうとしたのだが、すでに体に力は入らなくなっていた。

 半ば習慣的に電話をしていた。

 相手は仕事中だったらしく最初は迷惑そうな口調だったのだが、そのうちに怒っているとも焦っているともつかない荒っぽい調子になって捲し立ててきた。

 瑠璃は電話口の相手から言われるままに自分の居場所を伝えようとして、急に底の抜けた壺に手を突っ込んだみたいな感覚に落ちた。

 なんとなく入った店だったから、どこをどうやってたどり着いたかもわからなかったのだ。

 店内を見回しても店名らしいものは見て取れなかったし、目に付いたのはカウンターの上にでかでかと書かれたメニュー表が左半分スペインの公用語で右半分が現地語の『カタラン』だったということくらいだった。だからそのままを伝えたら、さらにギャンギャンと怒鳴られた。

 それ以上は取り立てた特徴はなかったし、だんだん電話していること自体が面倒くさくなってきたので、瑠璃は一方的に電話を切ってしまった。すぐに着信があったのは無視して、携帯をバッグに仕舞い込んだ。何度もなる着信音が催眠効果でもあるかのように、瑠璃は次第に意識が遠くなるのを感じていた。


 ふと、気が付いたのは妙な気配を感じたからだ。

 顔を上げると店の外がすっかり暗くなっている。眠ってしまったのはほんの一瞬、ということではなさそうだ。店内を見回すと、さっきまでいた客は総入れ替えしたかのように全部違う顔に変わっていた。店員だって女の子からおじさんに変わっていた。

 さすがにちょっと気恥しい気がして姿勢を正す。

 なにも寝かしっぱなしはないじゃない、と不満を店員に言いたい気もしたが、ともかく店を出ようかと椅子の背もたれと腰の間に手を伸ばした。普段、時間に縛られれ気がして腕時計をつけない瑠璃にとって時間を知るための唯一の道具は携帯電話だったから、まずはそれをバッグから取り出すはずだった。

 ところが――ないのだ。

 あるはずのところにソレがない。

 お気に入りのビトンのバッグ、その形と大きさピッタリの空間が背中と椅子の間に空いていた。まったく同じ大きさの穴が胸のなかにもぽっかりと空いたような気がした。一瞬、間をおいてその穴を飛び出してきたのは、驚嘆と冷たい汗。瞼が瞬きを忘れたんじゃないかというくらい固まってしまって、開いたままの目は視界の右から左をゆっくりと横切った。

 後悔してもどうしようもない。

 それはわかっているのに幾つもの感情がうねって、絡まり合って、それは結局後悔のような形を成す。泣いたって仕方ないのに瞼の裏側からじんわりと滲むものを感じる。

 唇が動いたが、声にはならなかった。

 ただ彼女の頭の中身と唇の意見は一致していた。


 どうしよう――


 電話がないから誰にも連絡は取れないし、財布がなければタクシーだって拾えない。パスポートだけは家にあるからともかく、学生証やクレジットカードや、ともかく必要な物のほとんどはあの中だ。

 そう思ったら急に体の奥から黒くてゾワゾワとした冷たい何かが顔を出した。奥歯がカチカチと音を立て始めた。慌てて唾を飲み込んで、気持ちを落ち着かせようとしたが効果はなかった。

 カチカチ、カチカチ、と。寒くもないのに体まで震えてきた。このまま永遠に立ち上がれないんじゃないかというくらい、膝まで震えて力が入らなくなった。

 頭の中がざっと色を失って、目の前の景色がだんだん白く変わっていく。

 その視界の中に急にどんっと何かが投げ込まれて、それだけが妙に鮮明で現実感があった。

 バッグだった。

 見覚えがあるものだと気付くのに、たっぷり数秒は掛かった。

 それがなんで突然ここに現れたのか理解するにはもっと時間が掛かった。息苦しくなって、呼吸するのを忘れていたのに気付くのと同じくらい長く掛かった。

 顔を上げて、目の前に立っているのが誰かに気付くのはすぐだったのに、その目元に争った跡があるのに気付くのは、正直に告白すると翌日のこと。

「馬鹿野郎、俺はあれだけ……いつも……」

 叩かれるんじゃないかと思うくらい鋭い視線を投げ付けられて初めて彼を怖いと思ったのと、感情を必死で押さえ込んでいるらしく「帰るぞ」と一言低く搾り出した声に、ギュッと心臓を締め付けられた気がしたのはほぼ同時くらいだった。

 あとは腕を強く引かれ、後ろからずっと背中を見て歩き続けただけ。寮に着くまでの間ずっとそうだった。

 その背中はひとつ年下のはずの、今までこれっぽちも気にも止めたことのない、大きな背中なのに。

 瑠璃は掴まれた手のひらに伝わる熱よりもずっと熱い、奇妙な『何か』が喉の奥に集まって小さな塊になっていくのを感じていた。それはひと足ごとに膨らんで、熱くなって、やがて重さに耐えかねて落ちる果実のように胸の奥に沈んでいった。

 

 それはどんな水よりも、この国で出会ったどんな人やどんな事柄よりも、あっという間に彼女の渇いたところを潤してしまった。まるで砂漠が海にでも変わったかのように、想いは水となって後から後から溢れてきた。


 瑠璃は寮に着いても顔を上げることができなかったし、満足にお礼を言うこともできなかった。

「あ……あり、が……」

 結局その夜、彼はほとんど口を訊かなかった。多分、かなり怒っていたんだと思う。

 でも、瑠璃が見送った背中はなんだかとても大きくて頼もしかった。

 おかげで彼女はその背中が見えなくなってもまだ、胸の奥はずっと熱いままだった。



 親友には隠し事などしないし、なんでも相談するべきだと、瑠璃は思う。

 だからすぐ翌日には真由子に飛び付いて、話したのだ。

「ねぇ、真由子。アタシね、……好きな人が出来ちゃったの……」

「嘘? 急にどうしたのよ。悪いけど、瑠璃らしくないって思っちゃう」

「し、失礼ね! アタシだってそういうことに無関心ってわけじゃないのよ」

「くすくす、わかってるわよ」

「ぶぅ……」

「で、お相手は誰? もう、告白したの?」

「それがね……ねぇ、言ったら協力してくれる?」

「うーん、どうしよっかなぁ」

「もう、意地悪言わないでよっ!!」

「ふふふ、わかったわよ。ちゃんと協力します。……で?」

 親友はいつも隣にいて、私のことを思ってくれていた。


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