Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 11
Let bygones be bygones. ―― 双城 真由子 ――
帰る直前まで心配そうな顔をしていた美純は、結局帰り際に我慢できなくなってトオルに言ったのだ。
「ねぇ、トオル。瑠璃さんがなんて言ってトオルを怒らせたのかわからないけれど、もうこれ以上怒るのは止めてあげて。……瑠璃さんだって、多分悪気があったわけじゃないんだと思うの」
そんなことはもちろんわかっていたし、だからといって仕方がないとすぐに気持ちを切り替えることが出来るのならトオルだってとっくにしている。
そう、考えたのが顔に出ていたらしい。
「私だって、一度トオルを怒らせたことがあるからわかる。……トオルが真剣に怒ったときってすごく怖いの。普段は優しくて人のこと気遣ってくれるのに、カッとなったら誰の声も耳に入らないみたいな雰囲気がある」
「そう、かな?」
美純がスッと上げた視線がトオルのものと交差したとき、彼女の芯の太さを感じたような気がした。
「うん、そう」
美純はじっとトオルを見つめたまま短く肯定した。
「許してあげようよ、ね?」
そしてトオルの方が視線を逸らすまで決して目を逸らそうとしないのだ。まるで自分の主張が通るまで絶対に諦めない、と言っているかのように。
「やっぱり、私、もうちょっと居ようかな。瑠璃さんの事、心配だし」
そう言って視線を送ったカウンターにはいつもの三分の二くらいに小さくなった瑠璃の背中が見える。美純が「瑠璃さん」と小さく声を掛けると、彼女はほんの少しだけ顔を向け、右手を小さく左右に振った。美純もそれに手を振り返しながら笑顔を作っていたが、瑠璃の眼がカウンターテーブルの上に落ちていくと、すぐにその笑みも消えてしまった。
口元を強く結んで決意の表情にすると、もう一度店内に足を踏み入れようとする。
しかしそれをトオルが体で制した。
「ちょ、トオルっ! どいて、なんで邪魔するの?!」
進路を遮られたことでムッとした美純が噛み付いてきた。
「もう、遅い。こんな時間まで居させたことだって、留利子さんに見つかったら大目玉だ」
「だ、だけど……あっ」
一瞬、反論しようと彼女は表情を険しくし、ところがすぐに何かを思い出したらしく急に俯いてしまう。口から空気が漏れて萎んだ風船のようにしゅんとしてしまった美純を見て、トオルはやっと彼女が諦めたのかと思った。
大方、留利子に怒られた時のことでも思い出したのだろう、と。
それでも彼女は最後にもう一言言おうとして、だが何度も躊躇っている。
まぁ、帰り際の憎まれ口の一つくらいどんなことを言われても笑顔で聞き流してやろうと、トオルはしばらく美純の口が動き出すのを扉の前で待っていたのだ。
けれども、そこから出てきたのは捨て台詞ではなかった。
「……それって、私が子供だから?」
「えっ、い、いや……」
「でも、女の悩みは女にしかわからない事もあるんだよ。トオルは瑠璃さんの事、ちゃんとわかってあげられるの?」
「…………」
「私だって女だもの。瑠璃さんがどうしてあんな苦しそうな顔をしたのか、理由はわからなくたって、なんとなく理解はできるよ。……それともトオルは私の事、子供としか見てないってこと? 苦しくって切なくってどうしようもないのに、だけどそれ以外の答えも見つからないような胸の痛みを経験したことがない女の子だって、そう思っているの?」
「い、いや、そんな事は……そ、そんなふうに思ったことはないよ」
「……嘘。トオルってすぐ顔に出るからわかる」
そう言われたら、何を言い返したって分が悪い。
結局、トオルは降参を示すように両手を肩までかかげてひらつかせた。
「O.K.、O.K.、わかったよ。もう瑠璃には怒らない。ちゃんと一杯奢って、乾杯する。……これでいいだろ?」
トオルは不承不承言った。胸の中のモヤモヤが消えてなくなったわけではなかったが、確かにいつまでもイライラしてる事に意味はないから、これがちょうどいいきっかけかもしれない。
「ほんと? 約束する?」
美純はまだ半信半疑な顔だ。
「顔に出るからわかるんだろ?」
「ぶぅぅ……」
美純が不満の音を出して頬を膨らませた。
「それとも和解のキスでもしたほうがいいか。それでお前が安心して帰るなら、してやってもいいぜ」
「いっ、ち、や……か、帰るっ! 帰えるもん!!」
慌てて踵を返そうとした美純が脇に抱えていたバッグを扉の角にぶつけて落とした。しょうがないな、と拾ってやろうとすると、彼女はずいぶん大げさな素振りでそれを阻止し、すごい剣幕で拾い上げ胸の前に抱え込んだ。
「な、なんだよ……」
「帰る! 帰るっっ!!」
「わ、わかったよ……お、おやすみ」
トオルが手を振って見送ろうとすると、餌を取られるのを警戒する猫みたいな様子の美純は、ほんのついさっきまでは笑顔で聞き流すつもりだったトオルに、意味深な捨て台詞を浴びせていく。
「私だって、……子供……じゃ……お、女だもん!!」
「は、はぁ?」
トオルは見事に怪訝な顔をしてしまった。そそくさと小走りに帰路に着く少女の背中を見送りながらカリカリと頭をかき、その背中が見えなくなると扉を閉めた。
「ふぅ……なんだよ、あいつ。急になに言ってんだ」
ひとりごちに呟きながらトオルはキッチンへと一度戻り、粗方進んでいた片付けを済ませる。
店内に残る客はもう瑠璃以外はいない。
トオルは瑠璃の前に置かれたままもうしばらく口も付けられていないバーボンウィスキーの入ったグラスを取り上げると、代わりにどっすりと濃い色をしたダーク・ラムのロックを置いた。グァテマラ産のサトウキビから造った銘柄は、見た目の色と同じくらい濃厚で甘い香りにビターな味だ。
トオルは瑠璃の隣の席を引くとドスっと腰を下ろした。
「ほら。乾杯、しないのか?」
自分のグラスを彼女の横に突き出すと、トオルは俯いたままの瑠璃に声を掛ける。
しかし瑠璃からの返事はない。
トオルは小さく溜息を付いた。
「なぁ、忘れた……とまでは言わないが、もう気にはしてない。だからお前も気にするなよ」
「…………」
かかげていたグラスを一旦カウンターの上に置くと、しばらく彼女の横顔をじっと眺めた。瑠璃は長いくて形のいいまつ毛が時々動く以外、まったく表情を変えようとしない。肩をすくめたトオルがカウンターの上に片肘をついてもずっとそのままだった。
「俺も、さ……そんな事、言わなきゃよかったって思うことは何度もあるんだ。ただ言葉ってやつは一度口から吐き出すと取り消しも取り替えもきかないから、あとから出来ることは後悔くらいしかない」
手元のグラスを弄ぶと、砕いた氷がカラカラと音を奏でた。
その音は透き通ったガラスの鈴のようでも、悲しげな鳴き声のようでもあって、トオルは少しでもその音色が優しく響くようにそうっとグラスを傾ける。
「だけどさ、生きている者同士ならあとから誤解を解く努力はできるし、もう一度歩み寄ることもできるだろ?」
グラスの中の氷を指先でつついてみる。身を捩って逃げようとする透明な塊は、グラスの中の小さな世界をほんの一瞬で一回りして戻ってきた。
「そんな心の溝を埋め合う時に飲む酒は、ちょっと甘くて少しビターなのがいい。そう思わないか」
「……何のCMよ。そんな台詞で口説かれるほど昭和じゃないわよ、あたし」
気が付くと、瑠璃が目だけでこちらを見ていた。
くっくっと笑いをもらし、トオルはもう一度自分のグラスを瑠璃に向けてかかげた。
「昔を思い出させてセンチメンタルな気持ちにしたのはお前だ。少しくらい優しくしろよ」
「そう、ね。ごめんなさい、本当にそんなつもりはなかった」
「ああ、わかってる。もういいよ」
そして瑠璃が手に持ったグラスにカツっと自分のを重ねた。
口に含んだ褐色の液体は、たっぷりと年月を重ねて熟成されたからこそのまろやかな甘さと、樽から染み出したビターな後味と、しっかりとしたアルコール度数と同じくらいの優しさに満ちていた。
「あたし、いつもこうなのよね。あとになって『言わなきゃよかった』って後悔して……何回も痛い目にあって、それなのにまた同じことの繰り返し」
「みんな、大なり小なりそうなんだよ」
もう一口。そしてトオルの口からもう一言。
「だけど、俺の後悔はもう取り返すことはできないんだ。真由子はもう……」
そう呟くと、トオルは自分のグラスを両手で包み込むようにして、その液面に何かを探すようにじっとグラスの中を見下ろした。
「俺が真由子を傷付けて、俺が真由子を死なせたんだ。……俺には誰かを幸せにする機能はついていない。一生懸命そうしているつもりでいても、自分が苦しくなったときには結局、相手の話も聞こうとしない度量の小さな男に成り下がる」
「誰もそんなふうにあなたを見てないわよ。ネガティブに考えるのは止めたら? そっちの方が器を小さく見せるわよ」
瑠璃に何気なく言われた一言に苦笑する。どっちにしたって自分は大した男じゃない、というわけだ。そう考えること自体がマイナス思考だといわれればその通りなのだが、ただ一度陥った深みからすっと抜け出せるほどトオルは器用な人間でもなかった。
ふと、ついさっきした会話を思い出した。
「ははは、そうか。あいつにはもうわかってたんだ。とっくに俺って人間の底は見られてた……」
苦笑いが自嘲になった。
「あいつ? ……ああ、美純ちゃんの事?」
聞き返されたが、トオルはそれには答えなかった。瑠璃はようやく体をトオルの方に向き直すと、様子を伺うように顔を覗き込んできた。だが、なんとなく見られることが苦しくなって、身を捩るようにして少し深めに俯く。
「あんなガキンチョが、な……」
「そう思ってるからいけないんじゃない?」
簡単に返されて、トオルは思わず顔を上げて瑠璃を見た。
「あの子、今、一生懸命に大人になろうとしてるのよ。あなたに近づきたくって、一人の女として見られたくって。女のあたしから見たら、ちょっとおかしくって笑っちゃうくらいに背伸びしてる。でもね、すぐにそれも馴染むわ」
無言のまま、聞いていた。
「使い始めの頃は派手で似合わなかった口紅も、数日もすれば前に使っていたのが地味に感じるくらいになる。女はすぐに変わるわよ」
「美純が、か? まだ17歳だぞ、あいつは」
「そう? でも、あなたに釣り合うようにって頑張ってるあの子は、もう一人前の女よ。幾つかなんて関係ない。うかうかしてるとどんどん成長して、あっという間にあなたに追いついて、いつの間にか卒業してっちゃうかも」
瑠璃が口元で微笑してみせるのを、トオルは椅子に深く腰を落として眺めた。彼女が何を言おうとしてこんな話しをしたのかはわからなかったが、多分、言っていることは正しい。
確かに初めて会った時の美純の面影は、今はもう無いような気もする。
前はもうちょっと流されやすいところがあったはずだ。だが、さっき見た彼女はとても芯の強いところがあった。自分の主張を曲げようとしない、信念を感じた。
女は変わるらしい。
なら、34歳の自分はどうなのだろう?
もう二度と、と誓ったつもりだった。贖罪の意味もあった。けれどそれが本当に正しいのかなんて、自分で答えが出せるわけでも、誰かが答えをくれるわけでもない。
そんな今の自分を見て、真由子は一体どんな顔をするのだろうかとトオルは考える。
女は変わるらしい。
男は、――自分は、変わるのだろうか。
前を向く事はできるのだろうか。
トオルはグラスに残っていた酒を一息で飲み干した。20年以上の熟成を経たその液体が、昔とどう姿を変えているのかなんて、彼にはこれっぽちもわからない。
ただそれだけの時間を費やさなければこの味には到達しない、ということだけは間違いのない事実なのだ。