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Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 10

 携帯電話は継らない。

 どこへ向かったのかもわからない。

 それでもトオルは走った。辺りを見回し、彼女の背中を探し、自分の直感を頼りに駆ける。

 立ち止まっていたって彼女が見付かるわけはないのだ。

 それに止まることなど出来なかった。

 そんなことをすれば、途端に膨れ上がった不安が彼の胸を押しつぶしてしまう。

「真由子……どこに」

 不安や焦りや悲観的な思考はそう簡単には消し去ることなどできないから、一度芽を出したそれらから顔を背けるにはどうしたって走るほかない気がした。 

 トオルは荒くなった呼吸の合間に歯を食いしばる。すると早くなった脈動の間に先ほどの記憶が入り込んでくる。 

 トオルの頭の中に瑠璃とのやり取りが蘇る。


――ねぇ、どうして二人共、あたしには隠してたの?――


――いつから、なの? ……ううん、そんなんじゃない、……なんで、真由子なの?――


 瑠璃と真由子の間に『何か』があった。

 そうでなければ瑠璃があんな顔をするはずなんてない。それに真由子も……

 トオルは街を走り続けた。

 人通りの少ない夜のランブラス通りを何度見回しても、やはり真由子の姿を見つけることは出来ない。深夜営業をしているカフェやバーのスタッフに彼女を見掛けたか訊ねてみても、皆一様に首を横に振るだけだ。

 焦りばかりが募る。喉奥にある鈍い熱が肺をじりじりと焼く。

 思考の緩慢になった頭の中はだんだんと白に塗られ、胸は早鐘をついたように高鳴り、額や前髪の先からはひと足ごとに大粒の汗がこぼれ落ちた。街灯もない暗い路地の奥を覗き込み、人のごった返す飲食店の中に目を走らせ、それでも彼女の姿を見付けることはできない。

 石畳の上を駆け抜けた。昼間は大道芸で賑わうペラヨ通りとの交差点までたどり着き、そこで一旦赤信号に足を止められた。

 夏の夜なのに少し肌寒く、肩からは熱気が立ち昇っている気がする。何度も大きく息を吸い吐きすると、こめかみ辺りから伝って落ちた汗が顎の先から雫になってこぼれていく。

 呼吸が落ち着いていくにつれて次第に体は疲労を自覚し始めたようで、膝に手を付きそうになる情けない自分を振り払おうと、トオルは背筋に力を入れて強引に視線を持ち上げた。

 その時だ。

 不意に見覚えのあるシルエットが目に飛び込んできたのだ。

「真由子っ!」

 トオルは思わず声を出していた。視線の先のカタルーニャ広場、街灯の明かりからちょっと離れた芝生のそばに一人佇む真由子を見付けた。

 その瞬間、靴底は石畳を強く蹴っていた。

 深夜、交通量が少なくなったとはいえ、世界有数の観光都市で脇目も振らずに車道に飛び出した。ダイムラーベンツのエンブレムが付いたゴミの収集車がヒステリックにクラックションを鳴らして彼を責め立てるが、トオルはそんなことはお構いなしで一直線に前を横切った。

「真由子っ!!」

 俯いていた真由子はその声で顔を上げ、辺りをキョロキョロと見回した。そしてすぐにトオルの姿を見付けると、驚きと困惑が混ざった苦い表情をみせた。反射的に逃げ出そうとするが、しかしなぜか彼女はそれを呆気なく諦めてしまう。その場で二、三歩踏み出しただけで立ち止まり、また足元に目を落とした。

 そこに180cm近いトオルの大きな体がぶつかる勢いで真由子の細い体を抱きとめたものだから、腕の中からは小さく「うっ」と声が漏れた。けれどトオルの口から出たのは謝罪でも優しい気遣いの言葉でもない。

「バカか、お前はっ!! こんな時間に一人で……襲われでもしたら、どうするつもりだった?!」

「心配しすぎよ。普段だって、結構一人で歩いてるもの」

 そう言う真由子はしかし、トオルの目を見ようとはしない。彼の着るダンガリーのシャツの縦縞でも数えているのか、トオルの胸辺りをじっと見つめるばかりだ。

 鼻の奥がつんと痛むような不快感を感じた。普段の真由子だったらトオルの言葉を頭から否定するようなことは滅多に言わなかったし、わざとはぐらかすような言い方もしない。

 トオルは首筋を虫が這いずるみたいにぞわぞわと頭に血が上っていくのを感じた。

「いい加減にしろ。こんな浮浪者の多い場所に女一人、ぼーっと突っ立ってるのがどんな結果を招くか、お前にわからないはずないだろう」

 言葉にした途端、怒りに右の瞼が引きつった。

「別に……気が付いたらここに居たってだけでしょ」

「いい加減にしろ!」

 真由子の肩を掴んで引きはがし、無理矢理に視線を上げさせると、トオルは激しく怒鳴りつけた。

「一体、何があった? どうしてそんなに自暴自棄になる?!」

「なって、ないわよ……」

「いや、そんなことない。瑠璃が原因なのか? あいつも様子が変だったし……なんならこれから行って、俺が頭を下げさてやろうか」

 急に真由子の表情が、半宵の暗がりの中でもわかるくらい明らかに曇った。

「……それは、だめ。お願い、やめて」

「じゃあ、なんで!!」

 問い詰めようとするトオルの胸に、真由子の手のひらがすっと触れた。

「ごめん。でも、お願い。瑠璃は関係ないから」

「真由子……」

 触れていた手のひらが、トオルのシャツを掴んで握り締める。彼女の手はその胸の中のどんな感情からかはわからないが小刻みに震えていた。

 ほんの一瞬視線を逸らそうとして、すぐにまたトオルを見据えた目は、今度は真っ直ぐだ。

「お願い。これは私の問題だから、瑠璃は少しも悪くないわ。ちょっと慌てて動揺しただけだと思う。だから、心配しないで」

「心配しないでって、そんなこと……」

 トオルは真由子の言葉に思わず困惑してしまうのだが、まだ納得出来ない彼の言葉を遮るように、真由子はゆっくりと首を横に振った。

「忘れて。わたしも忘れるから。だからもう、この話は終わりにしたいの」

 自分がそんなふうに出来ない以上に、彼女のほうがもっと困難な事を懇願されてしまったら、トオルにはなんて言って説き伏せたらいいのかわからない。

「……ね、お願い」

 普段は対等みたいな顔で付き合ってくれていても、こんなときだけは年上の貫禄で微笑する真由子に、トオルは釈然としないものをいっぱい抱えたまま頷くしかなかった。

「わかったよ」

 一つ、ため息が挟まってしまう。一度ゆっくりと瞬きする。

 視線を戻せば、そこにはいつもの真由子の顔があった。整った目元がすっと細くなった。

「もう、言わない。それでいいんだろう?」

「ごめんね。でも、ありがと」

「ああ」

 自分の中で決着はついていなくとも、そこが二人にとっては終着点になってしまった。だからトオルは自分が抱えたままのモヤモヤを、なんとか丸めて呑み込む決意をするしかなかったのだ。

 それはつまりトオルにとって瑠璃との決別に近いものだった。

 真由子と瑠璃、二人の関係がこれまで通りにいくとは思いにくい。それなのに今までと同じように瑠璃と接することなど、トオルには出来そうにない。

 結局、瑠璃とはこの時からしばらく顔を合わせることはなかったのだ。


 

 それから一週間くらいたったある日。

 トオルがビザの滞在期間の関係で帰国も検討していることを真由子に相談すると、真由子のほうはトオルに相談もなく勝手に大学を辞めてきてしまった。

 あまりの事態にトオルは驚いて言葉も出なかったのだが、真由子は真由子なりにトオルの気持ちが帰国に大きく傾いているのを感じていたのだろう。

「私、日本に帰ろうかな……」

 自分の存在こそがトオルをこの国に縛る一番の理由だと、真由子が気付いていないはずはなかったから、彼女がトオルのためを思ってそうしたのだとしてもきっと嘘ではない。

 ただ、トオルにはわかっていた。

 それはきっと思いの半分だ。もう半分はおそらく自分のために、だろう。

 芸術の世界では目指す場所にたどり着けないと薄々感じていた彼女が、もしも挫折の理由にトオルを使ったのだとしても、彼には責めるつもりもなかった。

 トオルだって、一度は経験したのだ。

 自分の全てをかけても登れない大きな壁にぶつかったとき、その喪失感を自分で埋めるのは壁を登るのと同じくらい難しいことだから。

 それが優しさでも愛情でもないといわれれば、確かにそうかもしれない。ただ、たとえ逃げても真っ直ぐ進まなくとも、人は生きていかなくてはならないのだ。

 生きていくために支え合う相手が、同じ苦しみを乗り越えた仲なら当然心強い。

 互いに寄り添い、励まし合った男女なら、そこに何かが生まれてもおかしくはない。

 日本に帰国したトオルと真由子がそれからも愛を育み、そして数年の後に結婚したのは、夢破れた者同士が身を寄せ合った成れの果てではなく、互いを想う優しさと純粋な愛情の結実だ。


 そして若い二人があの地で諦めた『夢』の代わりに辿り付いたのは、新しい『夢』。

 ――『カーサ・エム』だった。

 愛する妻の名を看板に刻み、トオルの新しい夢が始まったのだ。

 今度は二人で……


 

 

 


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