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Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 9

 その日はトオルが以前、真由子や瑠璃と出会うきっかけとなった留学生同士の集まりの日だった。真由子達が参加していた集まりは、少しずつメンバーを入れ替えつつも月に一、二回くらいのペースで不定期に開催を続けていた。

 だがどうも真由子はトオルと付き合いだしてから、毎回その誘いを断っていたようなのだ。自身が働いている間の真由子の行動まで詮索することはなかったから、そのことをトオルが知ったのはつい最近のことだ。もちろんトオルがそんなふうに希望したわけではなかったけれど、だからこそ自分の意思でそうしてくれる真由子の想いがトオルはちょっと嬉しかった。

 しかし、どうやら今回は断り切れなかったらしい。

 真由子はそのことをトオルに告げるときにずいぶん申し訳なさそうな顔をして言っていた。

「ごめんね。今回だけはどうしてもって、押し切られちゃって」

 決して謝られるようなことではないとトオルは思うのだが、そう言えばきっと真由子は否定するだろう。彼女のみせるその表情は、数センチのぶれなく真っ直ぐなトオルへの誠意を感じさせる。

 だからトオルもあえて何かを言うのではなく、遅くなったとしても仕事が終わってから参加するから待っていてほしい、と真由子には伝えた。彼女の罪悪感全てを取り除くことはできなくとも、いくらかでも軽くしてあげられるならそうしたかった。トオルが短くとも場に参加し酒を飲むのなら、真由子も少しは気を遣わずに済むかもしれない。

 特定の相手がいるからといって、他の異性と二人きりで飲んだり話したりすることに日本人は過敏すぎるのだと、この国にいると強く感じさせられる。そのことに関して、全世界とは言わないが少なくともヨーロッパ人はもっと大らかだ。

 だが、その辺の文化の違いを真由子は上手く受け入れられなかったようだ。

 トオルは思う。

 そんな真由子がいいのだ、と。

 仕事を終えて店を出たのが夜の11:00頃。向かった先はカタルーニャ広場から海に向かってランブラス通りを少し歩き、有名な市場の二ブロック手前の小道を曲がってしばらく奥に行った場所にある、いつものクラブ。

 店内に入ると入口近くに8席ほどのカウンター席、その奥にはテーブル席がいくつもある。普段はカウンターが近所のオヤジ共の溜まり場になっているのだが、今日は誰も利用していない。代わりに奥は肌の色、髪の色の異なる若者がごった返している。

 いつもは労働意欲の薄いバーテンダーのサンチェスが寝起きみたいな薄っぺらい笑顔で迎えてくれるのだが、なぜか今夜の彼の視線は店の奥に釘付けで、トオルが来たことも気付かなかった。

 客が居ようが居まいがいつだって下ばっかり観ているサンチェスがそんな様子だということは、おそらく向こうにはよっぽど彼の好みの女の子でもいるのだろう。折角来た客そっちのけで女の子にご執心なんて、これはちょっと許せないなと、トオルは片側の口の端を眉とを釣り上げて自分の考えに頷いた。

 あくまで戒めのつもりだ。

 サンチェスの背中に向けて、大きな声で「Hola!」と呼び掛けた。

「わっ、ぱっ、け……おおぉぉぅらぁ……」

 トオルの期待通りに派手にびっくりしたサンチェスは全身を大きく驚かせると、ともかく返事らしきものをして、次いでキョロキョロと周りを見回した。そしてそばにいたトオルがくつくつと笑う姿を見付けると、途端に彼は眉間に皺を寄せて憮然とした顔になった。

 トオルは当然、してやったりの満面の笑顔だ。

 だが――そのサンチェスの顔が、なぜかすぐに表情を変えたのだ。

 彼は急に困ったような苦い笑顔を作って挨拶をし直すと、すぐトオルから目をそらして横顔を隠すように俯いてしまった。ちらっと一度は何かを言おうとする素振りをみせたが、結局サンチェスの口から次の言葉は出てこなかった。

 トオルはその様子を少し不思議に思ったが、だからといって彼を問い詰めてまで理由を聞き出すつもりにもならなかったので、軽く手を振ってサンチェスの前を通り過ぎる。

 ふと、後ろからサンチェスに呼び止められた気もした。が、それを確かめようと振り返るより先に、店内の空気をビリビリと震わせるような低くて鋭い大音量がトオルを呼んだのだ。

「トオルッ!!」

 地響きのような下からせり上がってくる声が聞こえ、トオルは慌てて声の方に目をやった。だが部屋に人が多いせいかその声の主は見付からない。

「あんた、ちょっとこっち来なさいよ。……早くっ!!」

 再び声が響いて、ようやくそれが誰の声かわかった。

 壁側の席のところに立ってる瑠璃が、こちらをじっと見ていたのだ。胸の前で両腕をがしっと組んだ彼女の表情は、なぜだか口調と同じくらいにとても険しい。もしトオルが近づいていかなければ、すぐに真っ赤になって向こうから迫ってきそうな気配だ。

「なんだよ、どうした?」

 たった今来たばかりのトオルには瑠璃の不機嫌の理由なんてわかるはずもない。

 ただ、どのくらい不機嫌なのかは簡単にわかる。瑠璃は頭の上から湯気でも出ているかのようにイライラのオーラを発し、眉はハの字を反対にしたみたいに鋭く釣り上げている。

「いいからッ、早く来なさいよ」

 ピリピリと肌をかすめていく尖った空気、有無を言わせぬ圧力。

 瑠璃はすぐ横にあった椅子を引くと荒っぽく腰を掛け、テーブルに片肘を突いてその上に顎から倒れ込んだ。一度「ふんっ」と大きく鼻を鳴らす。

 ご機嫌をとるにしたって離れていちゃあ仕方がないわけで、ともかくトオルは瑠璃のもとに向かった。

 店内を真っ直ぐ横切るように歩いていくと、なぜか周囲の学生達からただならぬ緊張感を感じた。ほとんどの視線が自分に集中しているのが肌でわかる。自分だけが理由を知らされていない奇妙な注目を浴びる不快感に身を捩りたくなったが、おそらくは瑠璃の癇癪の生贄になる哀れな男に向けられた同情の視線だろう。

 そばに近付くと斜に構えた瑠璃の顔を覗き込んだ。瑠璃が目だけをじろりとこちらに向けてきて、その目がトオルの目と合うと彼女は顎の先で近くの椅子を指した。さも「座れば?」とでも言っているかのような仕草にさすがのトオルもちょっとムッとしたが、ここで声を荒らげたとしても事態は多分もっと面倒になるばかりだろう。小さな深呼吸一回で気持ちを静める。

「何をそんなにカリカリしてるんだよ? ちょっとは落ち着けって」

「…………」

 瑠璃の答えはない。

 トオルは肩をすくめた。どうやら姫様のご機嫌取りはたやすくなさそうだ。大方、こうるさいイタリア人の男にでもしつこく言い寄られてご立腹なのだろう。なら一度その話題からは離れるのが吉だと、トオルは自分の目的のほうを口にすることにした。

「それよりさ。お前、真由子がどこにいるのか知らないか?」

「…………っ」 

 トオルはキョロキョロと辺りを見回しながら瑠璃に訊ねた。実はさっきから探してはいるのだが、なぜかここに居るはずの真由子の姿が見当たらなかったのだ。

「昨日、待っててくれって言っといたんだけどな。ああ、もしかしてトイレか?」

 言ってからトオルはトイレのある店の奥の方を見た。それにも瑠璃は答えなかった。

 トオルの口から溜息がひとつ。姫様の口は閉じたまま。諦めてトオルが彼女の方に振り返ろうとしたときだ。

 ――ようやく彼も周りの空気の不自然さに気が付いたのだ。

 店内がまるで津波の直前の海のような不穏な静けさだった。酒の席だというのにだれも喋らない。笑い声どころか雑談だってなく、静まり返っている。

「ねぇ、アンタさ」

「えっ?」

 けれどトオルはその時まったく気が付かなかった。目の前の彼女が噴火直前の火山のような危うさを胸に押し込めていたことなんて、ほんのちょっとだって気付いていなかった。

「いつから……そうだったの?」

 体に収まり切らなくなった感情が呻きのように彼女の口から押し出され、かすれた小さな声になる。

「えっ、なんだって?」

 トオルに悪意はこれっぽっちもない。ただ……ただ、聞き返しただけだ。

 しかしそれが相手にとってみたら、まるでとぼけているように聞こえる場合は、確かにある。

 

 激情の溶岩は火口を突き破る。


「どうして……どうしてあたしには一言もっ……なんで、黙って……」

「瑠璃、どうした? 何があった? お前……」

 トオルが不審に思って顔を近付けた瞬間、噴火は始まった。

「あたしは!! あたし……あ、うぅぅぅッ」

「おい、瑠璃?」

「やめてよっ、触らないで!!」

 トオルの伸ばした手が何かに当たって強く弾かれた。一瞬何が起こったかわからなかったが、じわじわとそこから伝わる冷たい物と熱い物を一辺に押し当てたみたいな刺激で頭が我に返る。

 トオルの手は、瑠璃の振るった腕にはたかれたのだ。

 彼女は急に立ち上がり激しく腕を振るったせいで、勢いよく体をテーブルにぶつけた。丸テーブルが上に乗っていたグラスごと勢いよく横倒しになる。大理石の床とグラスと木の角が当たって、ガラスだけが甲高い音を立てた。

 誰かが息を呑み、誰かが上擦った声を出した。

 トオルは――ただ、その床の上の惨状よりも目の前の瑠璃の表情に息を呑んでしまっていた。

 彼女は一粒の涙もこぼさないまま、泣いていたのだ。

「る、瑠璃……」

「…………どうして?」

「えっ」

「ねぇ、どうして二人共、あたしには隠してたの?」

 彼女の言葉の意味がわからない。

 だが、訊ねることもできない。

 トオルの目に映る瑠璃の姿は今にも力なく座り込んでしまいそうで、とても声をかけられるような様子ではなかったからだ。彼女が吹き上げていた感情の熱い溶岩は、急速に激情の『赤』から悲愴な『灰色』へと色を変えていった。

 涙は瞳から流れ出る代わりに、思いを押し込めた心の中に静かな雨を降らせたのかもしれない。雨は彼女の情動を洗い流し、その目に宿っていた激しいものを文字通り色を失うように鎮火させていった。

「いつから、なの? ……ううん、そんなんじゃない、……なんで、真由子なの?」

 彼女の目に最後に残ったものは、一体なんだったのだろうか。

「ねぇ、なんで……」

 それがなにかなんて、トオルはもう考えてはいなかった。

 トオルは直感していた。

 今、何をしなければいけないのかを。

 さっきからそばで立ち尽くしている顔の中で見覚えのあるフランス人の男を見付けると、近づいたのか掴みかかったのかもわからないくらい、ともかく必死になって訊ねた。彼がトオルの形相に怯え、かすれた声で答えるのを半分も聞かないうちに、トオルの体はもう店を飛び出していた。

「真由子っ!」


 

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