Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 8
季節が一巡りすると料理人は随分大きくなる。
3ヶ月もすると人との関係に慣れ始め、半年もすると店の事に慣れ始め、そして1年すると作ること事態に慣れ始める。それと扱う食材も季節が一周すれば大まかなものとは一通り手合わせしたことになるから、いっぱしとまではいかなくても半人前くらいの自信は持っているものだ。
「トオルー、あたしお腹すいたぁー」
「そんなもん、勝手に食えばいいだろう? メニューはどれにする」
「んぶぅー、どれも気分じゃない……」
ランチメニューとにらめっこをする瑠璃に、トオルは渋い顔をする。
「そういう時は、食わなきゃいいんだよ」
「それは絶対無理なんだよねぇ。実はもう、立ち上がれないくらいお腹……すいた」
「あのな。一体どうしたいんだ、お前は」
急に瑠璃の目が、まるで獲物を見付けた猫のようにきらりと光った気がした。直感的にトオルは自分の一言を後悔する。瑠璃の顔が、思い通りにことが運んだ時に彼女がよくする、不敵な笑みを浮かべたように見えたからだ。
「それって、わがまま、訊いてくれるってこと?」
瑠璃はできるだけ丁寧に言葉を選んで言った。そういう時だけ彼女は、ことさら一言一言がゆっくりだった。そんな彼女の見つめてくる視線とたったの一言に、トオルはどうしてか背中に支えでも立てかけられたような気がした。
「うっ……まぁ、出来る範囲くらいは、なんとか……」
「ホントッ? やった!」
瑠璃は顔の前で手のひらをパンッと合わせると、小さい子のように明るく微笑んだ。しかしすぐに表情を変え、今度はそのままの手に頬を寄せ、小首を傾けると妙にしなっぽくして声を出した。
「実はあたし、今は絶対お肉の気分なんだけどー、鶏肉だけはダメなのよね。今日のランチって……なんとかなんない?」
「あ、あのなっ……」
なんとか抵抗を試みようとするトオルに対し強く出てくるかと思いきや、瑠璃は呆気ないくらいに簡単に頭を下げた。
「ねっ、お願い! マンマに訊くだけ訊いてみて。それでダメなら大人しく別のを頼むからさ」
「あ、くっ、なんで俺が……そんな事」
「一回だけっ! 今日の一回だけだからさ! トオルぅ、お願いよぉ」
甘えた声でせがまれる。そういう時の顔はいつも目一杯色っぽくするから、どうしても落ち着かなくなってしまうのだ。これをやられると、大抵トオルは反論できなくなってしまう。
「…………い、一回だけだからな。訊くだけだからな。ノーでも、文句言うなよ」
「サンキュ、トオル!!」
どうしてそんな笑顔を最後まで取っておいたんだ、というくらいの満面の笑顔で背中を押されたら、なんとかそのわがままを叶えてやりたくなってしまうのがトオルの悪い癖でもある。三回くらい深呼吸してから姿勢を正し、いざマンマに事情を説明しようとするのだが、話の半分くらいしか聞いてないうちにバンバン肩を叩かれてしまった。
「あんたに任せるから、食べたい物を作ってやりな」
そう言われて、なんでもなく済まされてしまった。
一年経つとまともに仕事している人間なら大概のものは見ているし、失敗も人よりすれば同じ分だけ立ち直ってもいた。イエスとノーの境界線だって、実地訓練みたいな中で朧気ながらに見えてきてはいるから、本当に『たま』にだけれど自分の身の丈以上の仕事を任してもらえるようになる。背伸びをすればやっと届くようなそれを、トオルはいつのも何倍も真剣になって取り組むのだ。
「うーん、普通? でも、まずくはないよ」
なのに、それをあっさりと切り捨てるあたりが瑠璃だった。
この国に来てから二回目の夏を迎えていた。
この一年が長かったとはトオルは思っていない。むしろチームにいた頃の数ヶ月の方が以上に長く感じていたくらいだ。苦痛に感じていたあの時間も、しかし今となってはいい思い出だ。あれがあったからトオルはこの国に来たわけだし、そのおかげで日本にいたら絶対にすることのないような色々な事も経験することが出来た。
サッカーを辞めたばかりの頃は、それが脱柵の象徴みたいに思えて二度と関わらないと固く決意したような気がするが、今はそのことにしてもずいぶん柔軟に考えられるようになっていた。もしまたなにかの巡り合わせで自分がサッカーをやることになったとしたら、多分精一杯努力するだろうとトオルは素直に思えた。ただ、今の仕事に追われる毎日に、その時間があるとは思えないが。
それでも不満はなかった。今のトオルは毎日が充実していた。息を吸って吐くことと同じくらいにここでの生活は当たり前で、それ以外は考えられなかった。
しかし、ここまで自分がやってきたことを考えると、或いはこの一年はとても凝縮した長い一年だったと言えるのかもしれない。トオルがこれまで過ごしてきた学生時代の毎日は、もっとずっとシンプルだった気がする。
だからだろうか。
それだけの密度の濃い時間が過ぎていれば、そんな些細なことは少なくても自分の周りの人間には周知の事実だと、思い込んでしまっていたのかもしれない。
トオルは最初、なんでそんな話になっているのか理解もできなかった。その話題の中心に自分がいることが、不思議でならなかった。