Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 7
◆
――日曜日のスペイン人はとても怠け者なのだ。
これはトオルを含めた『日本人的な目線』だからこそ思うことかもしれない。
ただ、仮にヨーロッパ全体からみれば当たり前のことだとしても、今まで社会人や労働を経験したことのないトオルにすら怠惰だと思わせてしまうのは、彼が日曜はランチの場所を探すにも難儀するからなのだ。
日曜日のバルセロナはチェーン店のファーストフードと働き者の中国人、それと観光客目当ての値の張る店くらいしか食べ物を扱っていないといっても、大袈裟ではない。
おまけに寮のコックも日曜は休みをとる始末。つまりは自分達で自炊するか、外で食べるかの二択を迫られるわけだ。
トオルだって、せいぜいカレーくらいなら作ることはできる。
ただ、この国で必要な材料を揃えようとしたら、多分そこそこ旨いランチが一回は食べれる。普通のやつなら二回行けるか行けないか、だろう。日本の食材は手には入るがやはり高い。そんな贅沢な食事は貧乏留学生にはまずノーだし、そうはいっても毎週毎週ナイフとフォークで安チャイニーズというのも味気なくて耐えられない。箸がおいてある店もあるが、そういう店は敷居が高いか値段が高いかなのだ。
新しい土地に数ヶ月も暮らすと、人間、自然とテリトリーのようなものが形成されるらしく、「そこから出るくらいなら馴染みのところで」と諦められる時期は、残念ながら一周してしまったらしい。飽きっぽいのは日本人の気質のひとつなのだ。
「あー、腹は減った……けど、食いに行ける場所のメシはどれも飽きたよ。空腹なのに何にも食べる気にならない……」
「あははは、お前の悩みは贅沢だな、トール」
斜め横に座る金髪のオランダ人の少年が、カラカラと笑って言った。トオルはそれに天井へ向けていっぱいに広げた両手で答える。起き抜けの体はあちこちの関節がパキパキと鳴って、なんだか律儀に返事をしているようだ。
「おまけに眠気はたっぷり……。もう、このまま明日まで寝てやろうか」
「おいおい。明日の朝、お前が腹のへりすぎてベッドで死んでるか思うと、折角の日曜が嫌に気分になるじゃないか」
「安心しろ。死ぬほど腹がへったら、あくびでも食うから。ふ、わわぁぁ、と……」
寮のエントランス広間には中央にどかっと置かれた大きなテレビがあり、その周囲をぐるっとソファーが取り囲むように配置されている。ソファーは見るからに安物で、あちこち年季を感じるシミやら汚れやらが付いているが、案外座り心地は悪くない。たった今のトオルは、そのソファーに思い切り深く腰を沈めて、背もたれに丸呑みされた気分を味わいながら大あくびをしていた。
「確かに。腹の膨れそうなあくびだ」
「だろ?」
カタコトの会話に少しづつ意思をのせることができるようになってから、一番最初にできた友人のフランクが笑って言った。トオルも同じように「にししっ」と笑って歯をみせる。
こんなふうにこの国で気楽に過ごすことができるようになったのも、すべてはあの二人のおかげなのだ。
トオルは二人に素直に感謝していた。
もうすでにチームの練習にはきっぱり出なくなっていたし、その意志はとっくにチームの関係者にも自分の口から伝えていた。
向こうにとったらトオルはお客の一人でしかない。料金は既に全額前払いだったから、払い戻しだなんだと揉めたり騒いだりしない彼は、さぞかし上品な客にでも映ったのだろう。おまけに面倒なヤツがひとり減ったぞ、と口ではさすがに言わないが、あの目の内はそんな感じだった。言語の違いはあっても、目が語る言葉のほうは万国共通なんだなと、その時は軽く思えるくらいにすでにサッカーから気持ちは離れていた。
寮の契約はあと二ヶ月弱残っていたから、親からの融資を食い潰せは期間いっぱいはここにいられた。しかしそれはそれでやっぱり心が痛く、一度、帰国も考えた。けれど今のトオルには、深刻な悩みを抱えれば打ちあけることもできたし、共有して一緒に悩んでくれる人がいた。真由子は、そんなトオルに自分の希望もわがままも全部包み隠さずに、真っ直ぐ答えてくれる女性だった。
トオルにとって真由子はすべての意味で初めての女性だ。これまで彼は他の女性と心も体も重ねた経験はない。
だからすべてを許してくれて、すべてを与えてくれる彼女が、トオルのする決断のすべての基準になるのは必然だった。
「一緒に、いたいよ……私」
「ああ、わかってる」
そう言われれば、そうするためにどうすればいいかを考えるだけだ。そして自分にとっての最高より、二人にとっての最良を見つけ出そうとする。二人で思案して捻り出した方法があれば、それが唯一無二の選択肢に思えた。疑うことも、躊躇うこともなかった。
ほどなくトオルは、真由子が日頃からよく利用する食堂でアルバイトを始めることにした。
親の金を食い潰すのが嫌なら、自分で稼ごうと。
トオルの持っていたビザが学生用のビザだったことと、スペイン国内の失業率が高く外国人労働者の雇用に厳しい時勢を考えれば、仕事に有りつけたのは彼女の口添えがあったからこそだった。その小さな事実がまた二人の絆を深くしているようで、トオルはちょっと嬉しかった。洗い物に買出し、雑用と掃除。日々の仕事はきつかったが、それでも心が折れないのは彼女の紹介してくれた仕事だったからだろう。
あくまで口に出しては言わないが。いくら年下でもその辺のプライドはあるのだ。
月日は流れ、やがて滞在する寮との契約が切れる時期が迫っていた――
「トオルッ、ちょっと来なさい!」
ある日、トオルの働く食堂のマンマが指で彼を呼んだ。それに気付いたトオルは手元の作業を素早く済まし、足早にそばへ歩み寄る。
「はいっ。なにか?」
「実はあんたに相談があるんだけどさ……」
そう言った彼女の顔は片目をやや細めて、まるでトオルを値踏みするように見ていた。これまでそんな表情をすることのない人だったから、なんだか急にトオルは落ち着かなくなる。条件反射で一番最近の失敗はなんだったかと思わず振り返ってしまう。
「い、一体、なんでしょう?」
ちょっと怯えたのが顔と声に出てしまったらしく、それを見付けたマンマがすかさず『びたーん』とトオルの左肩をはたいた。準備不足だったトオルの心臓が、激しく一回跳ねた。
「毎度毎度、ウサギみたいな顔をしないでおくれ。捕って食おうなんて思ってないさ」
「は、ははは。すいません」
「まったく……こっちは、傷つくよ。私は肉食獣じゃないよ」
「…………」
トオルは思わず苦笑いを隠そうと俯いた。だっぷりとした腹とぬぼっと伸びた腕に、でれんと垂れてぴんとしたヒゲでも似合いそうな頬が特徴の、近所でも有名な『熊』みたいなおばちゃんなのだ。おかげさまで今となっては見慣れたが、出会った当時にそんなセリフを聞いたら絶句していたに違いない。
そう油断していたら、脛をつま先で蹴飛ばされた。
「イテッ!」
「小僧は女心がわかっちゃないね」
「いやっ、あの……スイマセン」
「馬鹿ね、そういうときは謝るんじゃないよ。いい男ってのは、時々黙るもんなのさ」
「はぁ……」
ニタッと貫禄のある笑みを浮かべたマンマは、トオルに近づくと無造作に彼の肩に腕を回してきた。さながらチームの監督が交代選手を送り出す際に指示を送るみたいに、肩組みのまま促されて二人は厨房の隅に移動した。二の腕がトオルの二倍くらい太い丸太のような腕だ。ずっしりと感じる重さに身動ぎもできない。そうでなくても蛇ならぬ『熊』に睨まれたカエルみたいな状況に、トオルは気が気じゃなかった。脈が自然と早くなってしまったのはそのせいで、背中に当たっていたのがマンマの腹だと思ったら胸だったのに気付いてしまったからではないと思いたい。
「なぁ、トオル。あんた、……今度コックをやってみる気はないかい?」
前置きもなく言われた言葉に、トオルは思わず「エッ?」と聞き返してしまう。
振り返ったら目と鼻の先にセントバーナードみたいな顔があってギョッとしたが、さすがにこの距離で顔色を変えるのはまずいと思い、心臓に力を込めてこらえる。あらゆる食材とたばこと口臭の混ざったような息が鼻先をかすめ通っていき、空気がないところより呼吸をするのがつらかった。
「コ、コックって、……コックですよね? えっ、いや、急にどうしたんですか」
「いやね、たまたまアルフォンソの奴が故郷に帰らなくちゃならなくなってね。急遽、新しいコックを探さなきゃならなくなったんだが、そうはいってもきっとすぐには見付からないだろう? だったら、って思ってさ」
「はぁ」
大抜擢といえば大抜擢だ。
ただ、トオルは別に料理に興味があってここで働いている訳ではなかった。旨いものを食べることに全く興味がないかといえばそんなことはないが、作るとなればだいぶ話は別だ。だからちょっと答えに戸惑った。
「あんた、この1ヶ月ちょっと、よく働いてくれたしね。みてると手先も器用だし、勘もいい。スジはあると思うよ」
そう言われると悪い気はしない。
確かに自分でも手先は器用だと思う。それに勘がいいのには自信があった。曲り形にもつい最近まではゴールキーパーで一流を目指していたくらいだ。
自分の自信のあるところを評価されるというのは、ちょっと嬉しいものである。
まぁ、新しいコックが見付かるまでのあいだくらいだったら、少しくらいはやってみなくもないかなと、トオルの気持ちがふらっと傾きかけたときに、すかさずマンマがとびきりの条件を提示してきた。
「ただ、ね。コックやるならやるで、短い間じゃ困るんだ。そう、最低でも1年くらいは居てくれないと困る。ビザはうまいことやるとして、……朝は早いし夜も遅いから、いっそのことココに住むってのはどうだい?」
なんとなく軽い気持ちで話を聞いていた頭が、急に氷でも落としたみたいに冷静になった。トオルは今耳に入った言葉が、たとえ話や冗談ではないことを問いたださずにはいられなかった。
「え? えっ? ココに……住んじゃっていいんですかっ?!」
「私と一つ屋根の下でちゃんと眠れる自信があるなら、一向に構わないよ」
「あります! あります! 大丈夫です!!」
思わず叫んでしまったら、またしてもマンマの平手で肩を叩かれてしまった。聞いたことのないくらい派手にびたんと音がしたが、別のことでいっぱいの頭には痛みの信号は届かなかったみたいだ。
「あんた、本当に失礼な奴だね。大丈夫って、どういう意味だい?」
「いや、いや、Si. Si. Si. やります、お願いします。ぜひ、やらせて下さい!」
「まったく……同居人としては最低の部類だね」
「いや、俺っ、頑張りますよ」
「迷惑だよ。頼むから仕事以外で気張らないでおくれ」
「はい!」
マンマの表情がぶしゅぅっとなった。
その時のトオルの頭の中を描くなら、多分、ダムで塞き止めていた水色の絵の具か風船のなかにいっぱいにした赤の絵の具を派手にぶちまけた時くらいに、シンプルで、爆発だった。くすぶっていた難問が世界じゅうの誰も知らない公式で、いとも簡単に解決されてしまったみたいな気分であった。
「やった! ……いや、そうじゃないないっ。頑張ろう、頑張らなきゃ」
自分に言い聞かせる呪文を唱えるみたいに単語を口走り、そんな独り言すらスペイン語で喋るようになっていた自分にはまったく気が付かない。隣でマンマがくつくつと笑っているのも目に入らず、ともかく冷静になろうと努めるが、目下の大問題がなくなったことで感情の奔流が止まらない。
そんな彼を諌めるように、マンマの平手がぺしっとトオルの後ろ頭を叩いたのだ。普段だったらありえないくらい、軽くて優しいおしおきだった。
「しごくよ。覚悟しときなさい」
「は、はいっ。ガンバリマス! ……いぃやぁっ、正直どうしようか悩んでたんですよー。どうやってこの国にとどまろうかなぁ、って。はぁ、本当、ありがとうございます」
安堵した口から思わず本音が溢れる。
まだくつくつと笑うマンマがトオルの肩から腕を下ろした。これで話はおしまい、とその背中がいっているような気がした。トオルはもう一回だけ喜びを噛み締めてから仕事に戻ろうと、顔の筋肉を緩めたようとした。そこへ何故か、再びマンマから声をかけられたので飛び上がってしまった。
振り返ると、もう腹も立たないといった顔をした彼女がいて、トオルは申し訳ない気持ちになってしまう。そんな胸中が顔に出たのか、今度はマンマは苦笑いになる。
「ねぇ、トオル。あんた、ひとり合点するきらいがあるから、先に言っとくんだけれどね」
「は、はいっ」
ふっと、そのマンマの顔から笑みが落ちた。真剣、というより冷静に近い表情をしてトオルを見つめてくる。
「……真由子のことよ。別に、あの子の口からそういう言葉が出てきたわけじゃないんだけれど、あんたの滞在期間が残り少ないって悩んでるの、悪いけど訊かなくたってわかっちゃうからね」
「…………、はい」
「だからちゃんと初めに言っておくよ」
そんなふうに切り出されてしまってトオルが神妙な顔をすると、マンマは逆に笑顔を作ってみせてきた。大事な話だけれど深刻にはならないでほしいという意思表示に思えて、トオルは心を柔らかくしようと努力して、彼女の次の言葉を待った。
「たまたま一人辞めた。たまたまあんたが私のお眼鏡にかなった。別に部屋はたくさんあったし、じゃあ、それであの子が幸せならって思っても、悪くはないだろう? 確かにそういう気持ちはあるけれど、だからって見込みのない奴を欲しいと思うほど、私は善人じゃないわ」
トオルは黙って頷いた。
その表情を確認したマンマは、それでももう一度念を押すように、ちょっと口調を強くして言ってくる。
「いい? あの子の口からこうして欲しいなんて、絶対に言われてない。……信じてくれるかい」
「はい。……ありがとうございます」
「パーフェクト。いい返事だよ。やればできるじゃないか」
そう言うと、今度こそおしまいとばかりに、マンマは高らかに笑い声をあげてのしのしと歩いていった。その後ろ姿はとても温かく、包容力を感じさせ、やっぱりでかかった。
これからもし毎朝、あの熊みたいな背中を起こしに行かなければいけないのだとしたら、結構な勇気がいるなと思いながら、トオルは概ね順調になったここでの生活を喜ばずにはいられなかった。
そしてこの喜びを、真由子と共有し合いたい。胸が高鳴った。
その日、トオルが事の次第を真由子に報告すると、彼女は満面の笑顔で歓声を上げた。もう丸一日たっぷりと、二人して蜜のように夢のように過ごし、抱き合った。
しかし……
トオルは真由子の笑顔をたくさん知っている。心からの笑顔だって何度も目にしてるから、本当はわかってしまったのだ。
多分、彼女は知っていた。こうなることを。
それでもトオルが何も言わないのは、マンマのあの大きな背中への畏怖と二人への感謝の気持ちがあるからだった。