Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 6
トオルが二人に声をかけられたのは、彼にしてみれば案外どうでもよい理由だった。彼女達は、日本でのイベントに置き換えれば合コンのメンバーを探していたようなものだった。ただ留学生の多い場所では、皆がたくさんの国の友人を増やすために、参加者それぞれが同郷の異性を誘い合ってくることがノルマになっていることが多い。『女性は女性メンバーを揃えて』と決めてしまうと、他言語の友人が揃いづらくなってしまうからだ。若者なりの知恵である。
「それがね。瑠璃がいっつも酔っ払って家に帰れなくなっちゃうから、結局毎回送ってもらう羽目になっちゃうでしょ? そんなことが続くものだから、学校の男の子達にはみーんな断られちゃって」
「ねぇ、瑠璃ー」と相槌を求めるような真由子の言葉に、瑠璃はそっぽをむいて鼻を鳴らす。トオルにしたら、そういうことは判断をする前に言って欲しいと思うのだが、振り返った真由子の目が短く瞬いたのをみてすぐに理解した。この女性は、自分のしたたかさをちゃんと心得て使っているのだと。
「まぁ、大丈夫だよ。これだけ失敗を重ねれば、いくら瑠璃だって同じ失敗は繰り返さないでしょう?」
「ねぇ、瑠璃ー?」と今度は尋ねるように言うが、それには無言の一点張りだった。くすくすっと笑う真由子の目がもう一度短く瞬く。新しい表情には、ほんのちょっとの悪意がまじっているのに気付いた。
それでトオルは自分が新しい生贄として捕まったのだと自覚した。そしてこの生贄には逃げ出す勇気がないことを、真由子はきっと確信しているのだ。
トオルは二人に見付からないよう、小さく溜息をついた。自分は罠にはまった羊というわけか。
結局、その日は二人を送り届けることになり、トオルは見事に寮の門限を守れなかった。事情を説明したり詫びたりするのも面倒で、トオルは初めて一晩寮の門前で野宿をした。少し酒が入っていたこともあり、5月の夜は風さえよけられればなんてことはなかった。
ところが災厄はこれっきりではなかった。
その後もトオルは、たびたび二人に連れ回されるようになったのだ。
彼にしてもこの国に来て初めての同郷の仲間だったから、ちょっと嬉しくてアドレスを交換してしまったのが運の尽き。ほぼ毎日のように電話が掛かってきては、荷物持ちだのなんだのと呼び出される。骨折している右手のことを庇いながら両手いっぱいに荷物を抱えさせられて、優しさの欠片も感じさせない彼女達に辟易させられたと思えば、通っていた病院を『ヤブだ』といってわざわざ別の病院を紹介し、最初の数回は付き添って通訳もこなしてくれたりする優しさをみせられたりもする。
不思議な感じだった。悩んだり、考えさせられたりするのが嫌で内に篭っていた自分の生活が、たった二人の女性の登場でめちゃくちゃに振り回されるようになった。それまでの人生、サッカーばかりでまったく女性に免疫がなかったからというのもあるだろうが、ともかく自分の思い通りにことが運ばない。一日だって自由に過ごせない。
それなのに、悪い気はしないのだ。流されるのがむしろ心地よかった。
考えてみれば、通じない言葉が怖くて何もせず、毎日立ち止まっていただけかもしれない。前にも、後ろにも動けずにいたのだ。けれど今は、慌ただしく振り回されることで無意識で動き回っている。
トオルはなんだか今更になって、生活らしいことをしている気がした。
毎日、サッカーと寮の行き帰り。考えてみたら自分の生活は兵隊や囚人のようだった。自分はこの国にいただけで、この国で生活をしてはいなかった。それにようやく気が付いた。
「トオルは固いんだよ」
瑠璃は言う。
「この国じゃ、公務員だってそんなに固くないって。考え過ぎ。そんなんじゃ、息が詰まって死んじゃう」
「うるさいなぁ、こういう性分なんだよ。それにお前は軽すぎる」
何度か振り回されるうちに、トオルは一歳年上の二人と敬語で話すのを禁止されてしまった。ただ、それに馴染むのにはそれほど時間は掛からなかった。なにしろ、この二人が相手である。
「あー、始まった。事あるごとにそれ。なんか、真由子みたい」
「ちょっと、何、それ。私が悪いみたいじゃない」
カウンターの瑠璃を挟んだ向こう側から、真由子が首を伸ばして文句を言っている。
「私は瑠璃のことを思って言ってるんじゃない。そんなふうだと、いつか変な男に襲われちゃうわよ」
「そうされたいの! でも、お呼びが掛からないの! 一体どうして世の男共は、あたしの魅力に気付かないのよ?」
カウンターの上にだらしなく上半身を投げ出す瑠璃。ぶつかって倒しそうになる彼女のジュースのグラスを、トオルはひょいっと取り上げて救出する。一瞬遅れて、同じ動きをしようとした真由子の手が伸び、なにもなくなったカウンターの上の空を掴んだ。さっきまで瑠璃の体が遮っていた空間で、二人して苦笑する。
「瑠璃ー。多分、それよ」
真由子がたしなめるように言った。
「なに、それって」
目だけで真由子の顔を覗き込む瑠璃が、ぼそっと呟いた。口元を二の腕に寄せた、寝転んだ姿での声はくぐもって響く。
「わかってて言ってるでしょ? それにわかっても絶対に直さないし」
「ううー、そんことより早くスペイン人の男に抱かれたい。それで出来ちゃった結婚して、この国に永住したいよぉ」
「邪悪なオーラが漂ってるんだよ。だから、男が寄り付かない」
トオルが言うと、今度はガバッと勢いよく体を起こした瑠璃が、遠慮なく睨んできた。
「あんたの働きが悪いのよ! ちゃんとあたしにいい男を献上しなさいよ」
それにトオルは溜息まじりに答えてやった。
「無理だ。俺がいいと思えないものを、人には勧められない」
「あ、あっ、あんたねぇぇー、ふっざけんじゃないわよっ!!」
本気で掴みかかってくる瑠璃を押しのけながら、トオルと真由子は大笑いした。
二人のおかげで次第にトオルのスペイン語も上達していった。生活ではまず困ることはなくなった。わからない言葉があれば、その意味を自然に訊ねることができるようになり、おかげで自分から積極的にコミュニケーションを取りにいけるようになった。まったく参加しなくなったチームには立場上、顔も出せなくなってしまったが、代わりにこの国での生活は概ね順調だった。
そんなある日のことだ。いつものクラブでちょっと酒によった時、トオルの随分柔らかくなった心が、それまで押さえ込んでいた本音を真由子に、呟いてしまった。
「もう、サッカーは出来ないと思うんだ。……『諦めた』っていうのとはちょっと違うけど、囚われるのはもうやめようかと思う。頑張れば、プロになることは出来るかもしれないけれど、それも違うような気がしてきた」
「うん……」
相変わらずのハイペースで飲みきり、眠ってしまった瑠璃をソファーに寝かし付けて、トオルと真由子はカウンターで隣り合って話していた。
「あんなに好きだったんだけどなー。自分では全然気付いてなかったけれど、いつからか苦しくなってたんだと思う。俺はプロでやっていけるほど、心がタフじゃない……」
そんな弱気なことをもしも瑠璃が言っていれば、真由子は決まってたしなめた。しかし、その時の彼女は一つも苦言を言おうとしなかった。ゆっくりと優しく頷くだけだ。
「わかるよ……。好きって気持ちだけじゃ上手くいかないことって、いっぱいある」
そして真由子もこの時初めて、自分の胸の奥にしまっていた悩みをトオルだけに吐露した。
留学先の大学で出会った、同級生の瑠璃。彼女には誰がみても納得してしまうほどの芸術センスがあった。元来の勝気な性格もこの国ではうまく順応して、ここに来てからの短い間で芸術関係者にも自然に顔が売れている。自分もその世界を目指したくてこの地に来たのに、ここで得られたのは本当に実力のある者との違いをまざまざと自覚させられたことだけだ、と。
真由子は瑠璃に嫉妬していた。
「こんな事、瑠璃には言えない。別にあの子を恨むつもりはないけれど、恨むなっていわれたらイラっとするかな。だって、……私の方が、絶対、……真剣、なの、に……」
同じような悩みを持つ者同士が、異国の地で出会う。行き着く先は大体一緒だ。
トオルはこの日、真由子と関係を持った。
それが最初は互いを慰め合う行為でも、そこから生まれてくる恋もあるものだ。