Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 5
Let bygones be bygones. ―― 双城 真由子 ――
トオルが生まれて始めて海外の地を踏んだのは18歳のことだった。
西ヨーロッパの大国スペイン。その中でもマドリッドに次ぐ主要都市のバルセロナ。
偉大な建築家達の造った歴史的にも芸術的にも重要な建造物が多いこの地は、ヨーロッパの中でも有数の観光地であり、毎日世界中から多くの人々を呑み込む、まさに人種の坩堝のような場所だ。空港に降り立つ人が多ければ、観光に留まらずその『人の数』の分だけ思いや事情があるのは当然だろう。しかし、多くの人々がこの地を踏み出すその第一歩は、まだ見ぬ世界への期待や興奮でいっぱいであるのは間違いない。
対してトオルにとってのバルセロナ第一歩は。
ここがまるで世界の果てだとでもいうかのような、追い詰められた思いでの一歩だった。
人生最後のチャンス――彼は自分の中で、そう決めていた。
日本からはフランス経由で約15時間。
これだけ離れれば生半可な気持ちでは逃げ帰ることもできない。そうやって自分を追い詰めてこそ初めて、今まで出し切れなかった力が発揮されるような気がしていた。だから父親を必死に拝み倒して自分に大金を投じてもらった。言葉通りの意味で、トオルは背水の陣をひいてきたわけだ。
そんな決意での、第一歩。
彼はこの地にサッカーをしに来ていた。言葉にすると妙な感じだが、数百万円という大きな金額で開いた名門サッカーチームへの短期留学という扉をくぐることで、トオルは中学生の頃までの世代別日本代表に選抜されていた自分のような、『サッカーでの成功』をもう一度夢みていた。
もしも名門チームで日本人の選手が認められたとなれば、きっとマスコミや日本のプロチームだって自分をほっておけないはずだ。そのチャンスが自分には必ず訪れるはずだと、なぜか確信のようなものが彼にはあった。だから、この留学の話を耳にしたときに迷いはなかった。
高校の三年間は、正直いって鳴かず飛ばずだった自分。公式戦で出場した試合は一試合もなく、だからといって正キーパーを務めていたヤツがぐうの音も出ないくらいうまかったのかと問われれば、自分の目から見ればそれほど大差はなかったと思うのだ。でも、それがまた歯痒かった。『自分にも、チャンスさえあれば……』そんなふうに思ってしまうくらい、不完全燃焼のままに過ぎ去った三年間だった。
それまでのキャリアから、慢心もあったのは確かに自分でも認める。だが、こんなハズではない。これで自分のサッカー選手としてのキャリアが終わるはずは絶対にない。
環境さえ……トオルの才能を見抜いてくれる優れた指導者さえいてくれれば、まだまだ自分は上にいけると疑いもしなかった。自分に才能は、あるのだ。絶対にもっと上手くなれる。
そう、思っていた。
まるで支払った対価の分だけ、何かが確約されているかのように。
しかしトオルの心は、練習中の衝突によって彼の右手首の骨と一緒に本当に呆気なく折れてしまった。
いや、もしかすると心はケガよりも先にすでに折れてしまっていたのかもしれない。
言葉の壁は厚く高く、たった数ヶ月では乗り越えることは出来なかった。そのせいで練習中のチームメイトとのコミュ二ケーションはほとんど皆無。おまけに同世代の選手達はほとんどがトオルよりも体格にすぐれ、そして桁違いにうまかった。
それはそうなのだ。ヨーロッパでも有数のクラブ、たとえユースチームのレギュラーでなくとも所属する選手が冗談でも下手な訳がない。
『留学』なんて聞こえはいいが、実情はユースチームの隣の練習場を借りられるだけの散々な待遇だったのだ。けれどそれに文句を付ける気にもならないくらいに、どの選手をみても格上だ。トオルの技術では練習に参加したって足手纏にしかならない。もしかしたらサブチームの別ポジションの選手がレクリエーションでする、『お遊びキーパー』くらいにだったら勝てるかもしれない。けれど自分の実力を思い知らされることはあっても、チャンスなんて転がってもこないのは誰の目にも明らかだった。
トオルはコーチから帰国して治療するよう勧められた。有り難いことに、そのやり取りを丁寧に通訳してくれる係はいた。
グラウンドでもそうしてくれたなら、或いはこんなことにはならなかったかもしれない。トオルはそいつを恨みたくなる気持ちでいっぱいだったが、今更もうどうでもいい気もして趣旨無言でいた。
帰るとも言わなかった。帰らないとも言わなかった。そうすることでなんとか自分の居場所をつなぎ止めようとしていた。結果、宙ぶらりんの自分が出来上がった。チームの練習には怪我で参加できない。かといって、行く宛もない。頼る相手もいない。あるのは日本から持ってきた荷物と、ただ生活するためにあてがわれた寮の一室……。
中身の空っぽになった彼に、この偉大な観光都市はとても冷たく。
100万人以上にもなる、たくさんの人間がこの地にはいるのに。
思いを言葉にして伝えることのできないたったひとりの少年に、誰ひとり声をかけてはくれない。
医者が言ってることなど、トオルには一切わかるはずもなかった。なにしろ彼は生活に必要なものを買うにも不自由する程度の言葉しか喋れないのだ。『海外に行くと医者と床屋で苦労する』と、誰かに言われた記憶が蘇る。目の前で行われている治療が、一体なんのためのどんな治療なのかも理解できないまま腕を突き出し、ただ言われた金額で会計する。
自分がそうすると決めたはずなのに今にも折れそうになるのは、こうなってしまった自分にたったの数日で心が耐えられなくなっている証拠だ。
クラブチームから紹介された病院で治療を終えたトオルが、くさくさした気持ちで寮へ向かって歩いている時だ。天気もいいのに道の端っこをトボトボと歩いてる暗い少年に、いつもだったら話しかけるような人間はいないから、面倒を避けるつもりであえてそうしていたトオルが、なぜか突然声をかけられた。
「ねぇ、ちょっとっ。あなた、日本人でしょ?」
普段、耳慣れない言葉を少しでも漏らさず聞こうとしているせいか、逆に理解できるものには頭がすぐに反応しない。呼び止められたのが自分だとも気付かず、ぼーっとしたままその場を通り過ぎようとしてしまう彼の右腕を、声の主が荒っぽく掴んで引き寄せる。
「何よ、シカトーぉ? ……舐めてんの」
びっくりしてトオルが振り向くと、背中に届くくらいの長い髪が目を引く日本人の女性が、彼の腕をむんずと掴んで立っていた。トオルと目が合うと、彼女は腹立たしそうにフンッと鼻を鳴らした。
見ればはっきりとした化粧栄えのする顔立ち。体のラインの目立つタイトな黄色のタンクトップ。アピールしたくなるのもうなずける圧巻の胸。振り向いてすぐに目に入ったのは、その三つだった。
「ねぇ、そうなの? 違うの? 私、別に暇じゃないのよ!」
異国の地にいるのに、突然母国語で捲し立てられるというのは、違和感のほうが強い。彼女の言葉にトオルはちょっとびっくりして身を固くしてしまった。
そんな時だ。石畳にカコカコとサンダルの踵を鳴らして近寄ってくる人影があった。肩までの黒髪に柔和な顔立ちの女性。みるからに華奢な体型と160cmそこそこの身長は、体格のよいスペイン人達とすれ違うたびに風に煽られたヨットのようにフラフラとする。その女性は、トオルの向かいに立つ女性に体ごと『ドンッ』と追突すると、申し訳なさそうな笑い顔で何かを口にしようとして、しかしすぐに言葉を引っ込めた。どうやらトオルとのやり取りに割って入ってしまったのに気付いたようだ。
目の前で起こる事態に驚いた表情のトオル。ここのところの無気力な日常を過ごす身には、ちょっとした出会いも小さな事件のように思えてしまった。そんな無言で立ち尽くす彼の姿を、どうやら女性は別の意味に勘違いしたらしい。
「ちょっと、瑠璃ー。また、いきなり日本語で話しかけたんでしょ」
彼女はそういって相手の二の腕を小突き、口を突き出した顔でぶぅとする。
どうやら、この二人は友人同士のようだ。
瑠璃と呼ばれた長い髪の女性が「えー」と迷惑そうな声で返事をした。連れの女性の方がトオルの視線を一度気にしてから、瑠璃に向かって小声でたしなめるように言う。
「この前みたいに、この子、チーノ(中国人)なんじゃないの? 多分言葉、通じてないよ……」
「ウソッ?! あれぇ、間違いないって思ったんだけどなぁ」
瑠璃は振り返ったために額に落ちた長い前髪を右手でかき上げながら、先に驚いた顔になり、それから苦い顔をして目を細めた。連れの女性と目が合ってしまうとそこに自分への非難の色を見つけたらしく、なんとなくバツが悪そうに視線を逸らせる。既にトオルの存在には興味もなさそうで、連れの女性が真っ直ぐに向けてくる視線を受け流すのに忙しい。
連れの女性はしばらくじっと瑠璃のことを見据えていたのだが、そのうち首を横に振って「これ以上何を言っても仕方ない」と閉口してしまった。多分、普段から同じような失敗を繰り返しているのだろう。
晒されていた視線から開放されてホッとしたのか、おかげでようやく瑠璃の手から力が抜けて、トオルは開放されることになった。
なのに、だ。
そのまま黙ってやり過ごさなかったのが何故かは、実はトオルにもよくわからなかった。ただ、なんとなく口が動いてしまったのは、もしかしたら久しぶりに出会ったなんでもない日本語の会話に、心がホッとしてしまったからかもしれない。
「あ、あの……」
彼がそう言ったのに二人の女性が思わず飛び退いたのが、トオルは妙におかしかった。
そして「真由子ぉ、あんたの方が勘違いしてるじゃない! 日本人よ、この子」と見事に自分の事は棚に上げる瑠璃という女性を、ふざけたヤツだとも思えた。
なによりキョロキョロと言い訳を探す目が、トオルの興味をひいた。顔のつくりはそれほど美人とはいえないが、茶色の大きな瞳がくるくるとしているのが小さな子供の目のようで可愛らしかった。
「ええっと、ね……ははは、話の途中から入るものじゃないね。一つ、学びましたぁ」
「なによ、それ」
「でも、ほらっ。目的は達成でしょ?」
「……まあ、そうだけど」
女性二人の間でのみ、会話がどんどん進行していく。トオルはよくわからないままに、そのやり取りを隣で傍観しているだけだった。しかし、友人同士の会話をまったくの他人が聞いているのもなんとなく悪い気がしてきたので、居心地の悪いその場をあとにしようかとした時、ふと彼の存在を思い出した女性に横顔でニッコリと笑いかけられてしまったのだ。
その屈託の無い表情に、トオルは思わずドキッとしてしまった。
「うるさくて、ゴメンね。それと、初めまして。私、双城真由子。よろしくね」
そういって真由子は歯をみせた。
「あ、ああっ……廣瀬トオルです。よろしく」
トオルがおずおずと答えると、真由子はそれだけで満足そうに破顔した。たかが名前を名乗っただけなのに、驚くほど目をキラキラさせてくるのだ。今まで、初対面の相手へそんな表情をみせる人間にトオルは会ったことがない。それにこの国へ来てからは親しい者など一人もいなかったから、笑顔というのはコミュニケーションを円滑に進めるためのツールくらいにしか考えられなくなっていた。
それなのに、である。
挨拶程度に違いない、それで会話は終わるのだろうと思っていたトオルに、真由子はもう一歩近寄ってきた。
「廣瀬君は、日本から? 出身は、どこ?」
「えっ、ええっと……」
その後しばらく続いた真由子の質問攻めには、ちょっと面食らった。ただ、不承不承トオルが答えれば、必ず彼女も同じ質問を自分でも答えるようにしてくれたから、気が付くと彼女の出身地が九州だということも、年齢が自分より一つ上だということも、トオルは知ることになった。
ほんのちょっと話しただけで、トオルは真由子のことを随分と理解していた。そしてそれが、トオルがこの国に来て初めてした『本当の意味』での自己紹介らしい自己紹介だったのだ。