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Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 4

 冷かしだというわりによく食い、絶え間なくしゃべるわりによく飲む瑠璃の、今夜の話し相手はトオルではなく美純だ。さっきから二人はカウンター席だからこそ許される醍醐味の一つを存分に楽しんでいる。隣り合った席で顔を近づけ合い、たまに小さくほくそ笑む。

 時折チラチラとトオルの方を見るあたり、彼にだって自分が話題の種にはされてるのは薄々わかった。内緒話というやつは、している者同士には優越感を与えるが、傍ではされる者の胸をくさくさとさせるものである。

 ただ、だからといってどうしたいというわけではない。というより、どうにかできる状況ではなかった。

 なにしろ、こちらは伝票すら書いている暇もなかった。受けたオーダーは全部頭の中に記憶して、体の方はひたすらに慌ただしく動き回る。注文は前菜2品、パスタ2品に煮込み料理が1品の都合五皿。普通にやっていたら最後のひと皿が出来るのは30分以上あとになってしまう。だいぶ切迫した状況だ。

 当たりハズレがあるから水商売というのだと頭では十分わかっているつもりなのだが、こういう場面にぶつかってやっと痛感してしまうあたり、この先きっと何年やってもその性質は変わらないのだろう。出来ることならば今日の忙しさを、先日の平太が来た夜と足して割ってやりたいが、水商売の神様はバランスという言葉の意味を大きな解釈しかなさらない。またいつかびっくりするほど暇な一日を作って、今夜の分を労ってくれるのだろう。そう思うと、捻くれた気持ちでその日を楽しみにするほかない。

 今はともかく切っては焼いて、切っては焼いてを繰り返し、目の前の料理を仕上げるばかり。トオルはカウンター向こうの二人の様子など気にする余裕もなく、全身くまなく使って作業に臨んでいた。

 そうやって彼が一品一品を仕上げている間に、ほんのチラッとだけ見えてしまったのだ。

 急に驚いた瑠璃の横顔が――

 気にはなった。けれど今はトオルのほうにも目の前のこと以外に意識を割く余裕はない。トオルは敢えて彼女のことは視界に入れないように作業を淡々と進める。

 二種類のサラダを別々のボールを使い同時進行で仕上げていく。葉野菜だけのミックスサラダは出来るだけ野菜に刺激を与えないように優しく混ぜ、地ダコとアボガドで作るサラダのほうは逆にアボガドを崩すようしてドレッシングと馴染ませ、盛り付けた。牛バラ肉の赤ワイン煮込みを付け合わせの準備が整うまでの間、オーブンの中に鍋ごと放り込んでおき、それとは別にソースの頃合が良くなった順に形の異なる二種類のパスタをそれぞれ茹で始める。下準備が上手くいくと、仕上がりはあっという間だ。思い通りのタイミングで一品ずつが出来上がっていく。

 アツアツのローズマリーの香りがきいたじゃがいもローストを添えて、煮込み料理を盛る。湯気と共に舞い上がるワインの香りが食欲をそそる。これが一連の最後になる皿だけに、飾り付けにも力が入ってしまった。自画自賛したくなるような会心のひと皿は、テーブルに運ぶ前から歓声が聞こえてきそうだ。

 そしてようやく一段落だ。トオルは美純に出すコーヒーの準備を始めながら、自分は手元のグラスに入れてあったワインをちびりと唇を湿らす程度に口にした。

 フィルターの中、コーヒー豆の上に丁寧に湯を廻しかけ、余計な苦みを落とさないようコーヒーを抽出していく。慣れた手先にしたって、こればかりはいつもちょっと緊張する瞬間だ。『カーサ・エム』のオリジナルのブレンドは季節によって若干豆の種類を変えていた。夏に近づく今は苦みを抑えて酸味を加えるブレンド。味わいは素朴、香りは控えめ。立ち上るのはやや鋭角的なフレーバーだ。

 いれたてのコーヒーを手に美純の前に立つと、彼女は何かを言いたそうにして、しかしすぐにそれを呑み込んでしまった。

「……ありがと」

 次に出た言葉がそれだった。本当に言おうとしたのがそんな言葉ではないのは明白で、口元を尖らせ、息を吹きかけて冷ますコーヒーを見詰める彼女の表情は、なぜか悪戯の成功した子供のようなこそばゆい笑みをたたえている。

 対して、隣の瑠璃の表情は驚きを精一杯に押し込めた笑顔だった。その顔は、トオルと目があう瞬間に笑みを完成させられるようにと、口角が身構えていたのが痛々しいほどにわかる。元来、思ったことが口にも顔にもすぐに出る女の作り笑いに、見ているトオルはせめて笑いを堪えることにする。

「なぁ、もう一杯、飲むか?」

「え、ええっと……じゃあ、それがいい、かなっ」

 そう言って彼女が指さしたのはカウンターの奥の酒瓶の辺りで、漠然としたその言葉では一体彼女が何を選んだのかはわからない。トオルは体を瓶が並べられた棚のほうに向けて、瑠璃が指し示した瓶を探すフリをした。そうしてから、視線だけでちらりと彼女の様子を探ってみた。

 瑠璃は、自分に向けられていたトオルの目がそれた瞬間、俯いていた。

 肩だけが大きく一回上下する。

 トオルは置いてあるバーボン・ウィスキーの中で一番メジャーな銘柄を取ると、ロックグラスに氷を詰め、注いだ。多分、酒の中身はなんでもいいのだ。

 何かあったはずだ。美純との会話が原因だとは推測できるが、鼻っ柱の強さが自慢の瑠璃を憤慨も呻吟もなく消沈させる言葉というのは一体どんな内容なのだろうかと、トオルは考えをめぐらす。グラスの中のウィスキーをゆっくりとステアーし、氷とガラスがあたるカラカラと軽快な音を奏でても、同じように軽く答えがでるわけではなくて、トオルは結局それ以上推測するのを諦めた。

 新しい酒をみたしたグラスを瑠璃の手元に差し出す。そのガラス底とカウンターの板とがあたる小さな一音に、まるでびっくりしたように顔を上げた瑠璃と偶然目があった。

 ――あってしまった。

 その瞳の中にあるものをトオルがなんとなく察してしまったのに、勘のいい瑠璃がすぐに気付く。

 急に眉間に皺を寄せた彼女は、おそらく本人が意識してそうしたわけではないだろう舌打ちを打っていた。そのまま唇を噛もうとして、その前にほんの一言だけ言葉が溢れ出た。

「こんな可愛い子に好かれて、自分はちゃっかり幸せに……」

 それは明らかに無意識で呟いた一言だった。なにしろ口にした瑠璃自身がしばらくその言葉を自分の発したものだと認識出来ていなかったくらいだ。だが、そのことに気付いた瑠璃は慌ててトオルの顔を仰ぎ見る。

「……?!」

 その瞬間、トオルの目から失われた物に、今度は瑠璃の方が気付いた。まるで重力によって真下に落ちてしまったかのようなトオルの無表情、その鼻と額の間にポッカリと二つの穴が空いていた。瑠璃のほうは自分のしてしまったことに動揺を隠せない。それが顔にびったりと貼り付いたまま、弱々しく首を横に振った。

「……ご、ごめん、トオル。違うのよ、そんなんじゃなくて……あれっ、あたし、何でこんな事言っちゃったんだろう? 本当……ごめん」

 美純が驚いて瑠璃の方を向いた。トオルと瑠璃、二人の間にそれまで会話なんてほとんどなかったから、美純からすれば突然瑠璃が謝罪したように思えたのだ。そのくらい瑠璃は体裁もなく必死に弁解じみた言葉を言った。どの言葉も、おおよそ彼女の口から出るには似つかわしくない言葉だった。

「……たとえ冗談だったとしても、お前からそんな事言われたくなかったよ」

「思ってない……全然そんな事、考えてないの。ごめん、本当……違うのよ……」

 どこを見てるのかもわからないくらいに狼狽し、支離滅裂に喋る瑠璃と、まるで地面に転がる小石にでも話しかけるように冷たく言い放つトオル。横で見ている美純まで落ち着かなくなるくらい、二人の間には不穏な空気が流れていた。それは奥のテーブルから追加のオーダーの声が掛からなければいつまで続いていたかわからないくらい、ジリジリと重く長い時間だった。

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