Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 2
珍しいことは案外続くものだ。
今夜はほかの来客がなかった。おかげで食べたり飲んだりするのが好きな三人チームは、祝いの建て前で好き勝手飲み食いした。別にトオルだってそれを止めるつもりはないが、度が過ぎるのは腹立たしい。仕舞いに平太は自分でボトルを抜栓して飲み、美純は普段の自分に出される食事との差に不満を言い始め、梨香にいたっては味付けの講釈をつけられた。三時間近くそんな感じで辟易し、とうとうトオルはラストオーダー前に店を閉めてしまった。
「いいのかよ、閉めちまって」
平太が悪びれもせずに言う。
「あのな。こんなに騒々しい客ばかりだったら、誰だって窓から覗いて帰るだろ」
「ちょっと、トオル。あたし達のこと貧乏神みたいにいってー」
「自覚はないのか、不良妊婦は。酒を飲むな」
「あらー、最近はそういう考えばかりじゃないのよ。歳食って、頭固くなったんじゃない?」
「ちっ……」
トオルは手際よくというよりざっくりと片付けを済ませると、早々に明かりを消し、面倒な客と共に『カーサ・エム』を出ることにした。
梨香と美純の二人は店を出たその足で帰路についた。残った平太とトオルが駅前の居酒屋で顔を突き合わせる。時刻は21:00過ぎ。店内は20代前半の客ばかりでほぼ満席になっていた。
「お疲れさん、乾杯っ」
「ああ、おかげでクタクタだ」
「くくく、そう言うなよ……」
苦笑いしながら傾けたジョッキがたったの一口で半分以上減った。時代の流れはエコロジーだというのにつくづく大量消費な奴だなと、トオルは嘆息する。自分だってそんなに弱い方ではないが、相手は既にワインをボトル2本開けているのに、だ。もう少しハンデを付けてから店を閉めるべきだったか、とほんのちょっとだけ後悔する。
「いいのか? カミさん、身重だろ。一緒に帰ったほうがよかっただろうに」
「バカ、あいつは世界一根性の座った妊婦だぞ。俺なんかより余程しっかりしているよ」
「ははは。まぁ、そうかもな」
トオルは思わず笑ってしまった。平太の梨香に対しての認識は、大方、彼女が平太にもつ認識と変わらないのだろう。お互いがしっかりと自立していて、だから互いが『あいつなら一人でもやっていける』と思っているようだ。二人はともかくよく似ていた。
「それに、さ。あいつの方がお前と飲んで来いって言ったんだぞ」
「ああ、そう。理解のある嫁さんだな」
目元の赤い顔で真剣にのぞき込まれても、真剣味に欠けるというものだ。一体どこまでが冗談でどこからが本気なのか、酔っぱらいと素面の会話は境界線が曖昧で飲んでない方はやりづらい。しかし今のはどうやら本気の方だったらしく、平太は不満そうに鼻を鳴らした。
「バカだなー、お前。そんなんじゃねーよ」
「ん……?」
「とぼけんな。お前さ、美純ちゃんと何かあったのか?」
平太の口から出た言葉。急に振られた展開にトオルはほんのちょっとだけ無言になってしまうが、不自然にならないくらいの間でなんとか言葉を返す。
「なんでだ? 別に何もない」
しかし平太の顔は疑ったままだった。
「あのな、俺達みたいな職業で鈍感っていうのは、飛ばない飛行機みたいに致命的だろうが。……それにお前は自分が思っているほど、ポーカーフェイスが得意じゃないんだよ」
テーブルに肘を置いてやや見上げるような角度から覗いてくる平太に、見下ろすような角度で及び腰のトオルはすぐに降参させられてしまう。付き合いが長いというのは、こういう時には圧倒的に不利な要素だ。トオルは抵抗するのも面倒くさくなって、くたりと項垂れた。
深々と椅子に腰を落とす。気が付いたら思いつめたみたいな深い息をついていた。
「なぁ、別に相談にのってやるなんて大層な事は言ってないから安心しろよ?」
「なんだよ、のっちゃくれないのか」
「お節介はタダでも、親切は別売りなんだよ」
「クックッ……人の良さそうな顔してるくせに、えげつない奴だな」
「知らなかったのか?」
トオルはヒラヒラと手を振った。平太は歯をみせて笑っている。くだらない会話で話題の切り替えを狙ったトオルの意図は、しかしすぐに真剣な顔に戻る平太によって思い通りにはいかない。
「それはそうと、のらなきゃならないような相談があるって口振りじゃないか」
「蒸し返すなぁ。ないって、そんなもの」
面倒臭そうに答えるトオルを、平太の言葉が黙らせる。相変わらず、この旧友は腹立たしいくらいに鋭い。
「そうか? 俺はてっきり美純ちゃんに告白でもされたと思ってたんだが……」
「…………」
先程の失敗は活かされない。さっきよりも少し長めにできた沈黙を隠すように、トオルはワザと吹き出してみせる。
「ははは、お前なぁ。一体、俺とあいつと幾つ違うと思ってるんだよ?」
「けど、……否定もしないんだな」
自分よりも上手な相手にトオルは舌を打つのだ。合わせていた目から何かを盗まれそうで、彼は慌てて俯いた。
「なぁ、俺達みたいな職業で鈍感っていうのは、本当に致命傷なんだって。それにお前は自分が考えている以上に嘘や隠し事が下手だ」
「…………」
「言えよ。別に俺とお前、この業界で長く他人の酸いも甘いも噛み分けてきたら、今更自分のことで隠すようなこともないだろう? 世の中には俺達よりもよっぽど不真っ当な悩みを肴に、5ケタの酒を空けるような輩がウジャウジャいる」
平太が上手い具合に口元をほころばせる。その表情は安心感に近いような甘さがある。こいつにだったら腹を割ってもいいと、初対面の相手にですら思わせる――この男にはそういう風格みたいなものがあるのだ。
「ちっ……」
トオルはそれでも言葉を濁した。実際、こんなことをわざわざ平太に話す必要もないと感じたからだ。そんなトオルの様子に平太は、椅子の背もたれに掛けた片腕に顎をのせて、ゆらりと表情を動かすのだ。
「まぁ、それはいいさ。でも、お前みたいな性格してると、はっきりYESともNOとも答えてないんじゃないか?」
憎たらしいくらいそのとおりの推測に、もう返事もできない。多分、自分が首を振ろうが振るまいが、平太は確信を持って会話を進めるはずだ。さすがのトオルも気力が失せる。言い逃れのために軽く舌を湿らせるビールをあおると、差し替えるように次の一杯が運ばれてきた。酒を切らせば会話も切れる。そうさせないための平太の配慮に、彼はジョッキの底の5cmを飲み干さなければならなかった。おかげさまでほどよく舌は潤った。
「……ああ、確かに答えてないよ」
「んんー、美純ちゃん、かわいそうにな。きっと精一杯の勇気でもって告白したんだぜ。まったく、モテる男くんは女の扱いが優しくないんだよ」
「こんなのは恋って言わないだろ。ただの憧れか勘違いの延長だ。大体、あいつと俺と幾つ違うと思ってるんだ」
「ははは、お前らしい意見だが……そんなのはお前の意見だ。あの子は違うってことだろう?」
「いいや、違わない」
トオルは首を振った。
「美純はまだ、ちゃんとした初恋だって経験してないんだと思う。こんなふうなのはダメだ。傷付くだけだ」
「なんで、そう思うんだ?」
「なんで、って……上手くいきっこないじゃないか、あいつと俺じゃ」
「なんで、上手くいかないんだ?」
平太がニヤリと笑ったのがわかった。トオルは歯噛みする。たぶん今、自分は彼の思い通りに喋っているのだ。だが、動き出した口が止まらない。舌打ちする代わりにまた次の言葉が出てしまう。
「そりゃ……色々と合わないところがあるだろう。歳だって違う」
「歳、歳、って年齢ばかり気にして、ジジイかお前は? 第一、そんなになんでもかんでも合ってる相手は、逆に上手くはいかないもんだ」
「なんでもかんでも似通ってる家の旦那に言われたくないよ」
「ウチは特別だ……なんならあやかってみるか?」
平太がぐびっとビールを飲みきって言った。空になったジョッキを店員に見せて『もう一杯』のサインを送る。それから視線でトオルにも追加の有無を確認した。
「ノーサンキューだ。これっぽっちも羨ましくない」
トオルに言われて、平太はわざとらしく口角を下げてみせる。
それからしばらくの間、二人は無言で飲んだ。言葉数が減ると喉に落ちる酒の量も急に減った。傾けても傾けても、一向にジョッキは空かないのだ。それでもしゃべる気にはならないから、代わりに空っぽの口内へ酒を詰め込む。こうなってくると断ち切ったはずの悪癖が顔を出す。煙草がほしい。
平太を見ると、彼はぼんやりと入口の自動ドアの外を眺めていた。時計の針は進み、次第に入ってくるよりも出ていくほうが多くなっていた。店内は二人が飲み始めた頃よりも随分静かだ。トオルの後ろの席の客も立ち上がり、残っているのは奥の座敷に座る送別会らしきサラリーマンの団体とカウンターのカップル、テーブル席にひと組みだけになる。
開いた自動ドアが会計の終わった客を吐き出すと、そっけなく閉まる。
見送った平太がポツリと一言、呟いた。
「なぁ……。お前、まだ真由子さんのコト、気にしてるのか」
「…………」
彼の口から唐突に出たその名前に、トオルは今日何度目かの無言になる。だが、今度は平太も無言だ。続く言葉がないから、また二人してビールを口にすることにした。ジョッキの底に溜まった最後の数滴を、砂漠で見付けた最後の水みたいに飲んだ。
やがて口を開いたのはまた平太の方だった。静かにゆっくりとした口調で彼は話し出した。
「俺はさ、美純ちゃんがどうとか、本当はどうでもいいと思ってるんだ。でも、やっぱりお前の方は気になる」
「うん……」
「人間はさ、体より先に心が死ぬ唯一の生き物なんだよ。でも体が死なない限り誰も弔っちゃくれない」
言ってから、平太は深く息を吐いた。
トオルは普段だったら鼻で笑ってやるようなセリフを言う友人をじっと見詰めていた。ただ今は何も言う気にはならない。それに多分平太が言いたいのは別のことだ。おかしなセリフも、遠まわしな言い草も、直接傷に触れないようにする彼の優しさなのを、トオルは知っている。
「生きている奴が幸せになろうとするのは罪じゃないと、俺は思うよ。でもその逆はダメだろう? 幸せになろうとしないのは罪だ」
そう言ってくれた平太に、トオルは頷けずにいた。
気が付くとそばには店員が来ていて、間もなくラストオーダーの時間であることを告げていった。それ以上会話も酒も続くことはなく、トオルは平太と店の前で別れて帰ることにした。手を振って駅に向かう友人の背中を見送りながら、彼はほんのちょっとだけ昔を思い出してみる。
けれど、上手く記憶が掘り起こされない。
自分の人生を大きく変えた人物のことも、一緒に過ごした時間の記憶も、時と共に少しずつ頭のどこかに埋もれていってしまう。忘れようとして忘れられることではないから、絶対に埋没しているだけなのだ。
それでも――――もし忘れてしまったのだとしたら……
それこそが罪だとトオルは思った。
この『傷』を『傷』だと認識し続けること。それが自分にとっての正義だなどと言ったら、平太にはきっと笑われるだろうなと思う。だが、トオルは未だそうすることでしか自分を生き続けさせることが出来なかったのだ。もしもその傷が癒えてしまうなら、トオルはきっとその場所をえぐるだろう。彼は、この先もずっと、彼自身を許すつもりはないのだから。