Let bygones be bygones. ≪昔のことは昔のこと≫ 1
『カーサ・エム』にはその日、珍しいお客が訪れていた。
一人はあの古沼平太だった。自分の店の休みを利用して、彼はこの『カーサ・エム』へ食事に訪れていたのだ。彼の住まいは日比谷線の入谷駅周辺で、この『都会じゃない街』まで足を運ぶには電車を乗り継ぎ2時間弱は掛かるはずだ。仮に車を使えばもう少し短縮できるのだろうが、彼はそうしない。平太はアルコールのない食事は一切摂取しないと公言するほどの酒の好きな男だ。過去に自身の運転で食事に出かけた話など聞いたことがない。
そしてもう一人は徳倉梨香という女性。彼女は隣に座る平太の恋人で、二人は幼い頃からの知り合い――要するに幼馴染がそのまま恋愛に発展した関係をもう十数年続けている。梨香もまたトオル達と同じ業界の人間だったから、この世界特有の横のつながりから、トオルは平太と知り合ったのとほぼ同じ頃から梨香とも面識があった。
以前から二人は一緒に暮らしていると聞かされていたから、今日は梨香も平太と同じだけ長旅してまでトオルに会いに来たわけだ。わざわざ長い時間を掛けてここまで来た理由が、まさか先日トオルが平太の店に顔を出しに行ったことへの礼だとは、いくらなんでも考えられない。
それに平太達が纏う空気もまた、うまく言葉にしがたい妙なぎこちなさを感じさせた。
二人の恋人関係がちょっと特殊な事情の上でのつながりだということは、トオルも随分昔から知っていた。男女が十数年も一緒にいて一度もその話題に触れたことがなければ、どちらかが同性愛者か妻子持ちだと疑うべきだ。まぁ、当然、平太達にも過去に決断の時期はあったらしく、そしてその時に知った一つの事実と、その時にお互いがした二つの決心が、彼ら二人の今をしっかりとつなぎ止めている。
平太は家庭を築きたかった。親になりたかった。
そして梨香の方は非常に子供の出来づらい体質だった。
梨香の体のことを知った平太は、自分の理想を胸に仕舞い込もうとしたそうだ。が、妻になるはずの女にはそんな彼の決意などお見通しだった。なにしろ二人は子供の頃から一緒に育ってきたわけだ。誰よりも長く隣にいて、気付かないはずはない。そして梨香は自分がした一つの決意。
「子供ができたら、その時はあたしと結婚して欲しい……」
彼女は不妊治療を受けながら、敢えて未婚の母になる事を選んだ。
平太はそんな梨香の決意を二つ返事で受け止めたと言っていた。彼もまた、誰よりも長く彼女の隣にいたのだ。
「一度決めたら絶対首を横には振らない頑固さ、一度決めたら絶対に成し遂げてしまう強さ。梨香って女はそういうすごい奴なんだ」
トオルはそんな事を随分前に平太から聞かされたことがあった。
あれから多分、5年は経っただろうか――
「なぁ、二人でこうして来るなんて……」
トオルは自分のなかにある確信に近い答えを訊くために、平太達に訊ねる。その答えはやはり、思い描いた通りのものだった。
「ああ、出来たんだ。やっと、子供が。絶対にお前には二人で報告にこようと思ってさ」
「トオル、ありがとうね。それにいっぱい気を遣わせちゃって、ゴメン」
二人は、笑顔も涙も一緒くたにしたような表情でトオルに喜びを報告した。
トオルは胸にくるものがあった。彼は当事者でこそないが、一番深く当事者達と関わっていたうちの一人だった。大変だったこれまでの過去も知っている。理解のない人間からの無神経な言葉に苦しんでいたのも。トオルの胸を鈍くて熱い痛みのようなものが襲う。喉の奥からこみ上げてくる思いが溢れて落ちないように、トオルは一度天井を見上げる。
その喜びの輪に、横から別の人間が加わってきた。美純だった。
「ええっ、平太さん、赤ちゃんが出来たの? すごい、おめでとうっ! あれ、でも結婚してるなんてあの時言ってなかったような……」
「美純ッ!」
事情を知らない美純をともかく窘めようと、トオルはちょっと強い口調で言い放った。それを平太が割って入った。
「美純ちゃん、俺達結婚するんだよ。順番は逆だけどすごく幸せなんだ。だから、ありがとう」
平太は何事もないかのように言って、頭を下げた。美純は一瞬驚いたような顔をしたが、平太のみせる真っ直ぐな表情にすぐにいつもの笑顔を取り戻し、「いつ頃生まれるんですか?」とか「男の子と女の子、どっちがいいですか?」と、子供のできた夫婦に訊くお決まりの質問を始めた。平太と梨香も上機嫌でそれに答え、いつのまにか三人はまだ見ぬ赤ん坊の話で随分と盛り上がっていた。
ふと気付くと、こちらに向けた平太の視線がトオルを見付けて満足そうに微笑んでいた。その顔を見てトオルは思うのだ。彼はもう、何を言われても大丈夫なのかもしれない、と。父は誰より強いから。
トオルはそのまましばらく、幸せそうな二人とそれを羨む一人の様子を眺めた。三人の心からあふれ出た笑顔と笑顔が弾け合う。友人達のこんな満たされた笑顔は随分久しく見ていなかったから、トオルも嬉しかった。油断すると笑顔の合間から涙をこぼす梨香と、幸せと感謝の合わさったクリーム色で彼女を包む平太。戸籍上はそうでなくったって、二人はずっと昔から夫婦みたいなものだ。そんなこと頭では分かっていたくせに、トオルは胸がくしゅっとした。
――そしてもう一人の笑顔に目がいく。
たった今見せるにこやかな表情を、彼女はあの日以来トオルの前では一度も浮かべてはいない。本人は普段通りを装っているつもりなのだろうが、17歳の少女に出来るのは精々いつのも自分を真似るくらいだ。顔を合わせても、笑顔そのものを忘れてしまったかのようにぎこちない表情。そんなのはトオルだってどうしたらいいのかわからない。
彼は未だ美純の告白に答えを出してはいない。
トオルは考えたのだ。
歳上の異性への憧れなんて誰にだって一度は経験するものだ。けれど大概、想いは一過性のものでしかない。なぜならそれは『恋』ではなく、ただの『熱』みたいなものだからだ。流行りの病のように突然かかって、そしていつの間にか完治している……つまりは、恋よりずっと冷めやすいものだ。
美純の心の熱が冷めるまで、トオルは答えを先延ばしにするつもりだ。彼女が今一度考え直せば、きっと答えは変わる、そう思っていた。美純もあの日以降、直接その話題に触れることはない。だから彼女には悪いとは思うが、この件は時間と共にうやむやにしてしまうつもりだった。恋愛最盛期の彼女に対しては不満の残る結末だろうが、大人には大人なりの決着方法もあるのだから。
「そんなの、ダメだよ。絶対にダメ!!」
急に大きな声が耳に飛び込んできたのに驚いて、トオルは見ているようで焦点の合っていなかった目を再び三人に向けた。瞼の両端にピリピリッと突っ張るような刺激が走り、大急ぎでピントが合う。視線の先にはさっきまで和気あいあいだった三人が、いつの間にか二人と一人に別れて立っていた。
「おい、美純。なにやってんだ?!」
声を掛けたトオルに対して、何かを言い返そうとした口元が一度引きつって躊躇し、次に尖る。振り返る前は平太に不満色の表情だったのが、トオルと目が合ってからは恨めしそうにする。
「…………別に」
「別にって、お前、そんなに声を荒げといて、それはないんじゃ……」
「トオル、ちょっと待ってくれ」
トオルの美純、二人のやり合いに進展しそうだったところに、すっと平太が割り込んだ。
「美純ちゃん、君が梨香の事を思ってそう言ってくれるの、俺は嬉しいよ。だけど、どうしたって上手くいかないこともあるって、君にだってわかるだろう?」
平太は諭すように静かに言うのだが、美純は何度も首を横に振った。
「『やっても無理だろうから、諦める』そんな理由で納得できない! 私だったら諦めらんないよ、絶対。だって、自分のためだけじゃないもん。……梨香さんのため、みんなのためでもあるんだよ、平太さん」
「確かに、そうだが……」
「二人にとって大事なことだと、私、思うよ。諦めないでやってほしい……」
事態を飲み込めず呆然としているトオルを横目に、美純は一回りも上の人間に向かって説教でもするかのような勢いだ。平太と梨香が目をパチパチと瞬かせ、17歳の少女の顔を見た。そこには自分の発言に一寸の疑いも持たない少女がいる。――やがて梨香が先に表情を緩めた。
「平太、ゴメン。――やっぱりやりたいな、あたし。だって、美純ちゃんに背中押されて勇気出ちゃったよ。ねぇ、お義父さんと、ちゃんと話そう」
「梨香……」
平太は彼女の言葉に最初は神妙な顔をしていたのだが、それでもじっと見つめる眼の奥の決意の光に最後は観念するのだった。
「わかったよ。……確かに、俺も美純ちゃんの言うとおりだとは思うしな」
そう言って平太は、美純の顔をじっと見つめた。