Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 12
やがて留利子の体を取り巻く温度がスッと二・三度低くなった気がした。笑っていた目元は静かになって、口は一本線みたいに結ばれた。顎の先のところにキュッと力が入って、彼女の口からもう出かかっている言葉を唇がせき止めている。
トオルのほうからは何も言わなかった。言わない代わりにグラスを何度も傾けた。ただ、その酒は酔うための物ではなかったので、喉に落ちていく量はほんの少しだ。グラスに残る赤いワインの輪郭は、何度傾けてもほとんど同じ高さで変わらない。
一息吐く。すると、開いた上と下の唇の間から言葉がゆっくりと押し出され、留利子が喋り出した。
「シェフの言う通り……私達、合わないかもって思い出してるんです」
「……お二人は、お付き合いされて何年くらいなんですか?」
「3年目、でしょうか」
「ああ、その頃って、ちょうど冷静になって相手を見ちゃう時期ですよね」
えっ? とはてなマークの目でトオルを見る留利子に、彼はちょっと自信のないメロディーで歌ってみせた。その曲は昔の歌謡曲で、男と女が互いに浮気の弁解をするみたいな曲だ。留利子は笑った。それが歌った内容に対してなのか、歌い手であるトオルに対してなのかは、彼女の笑顔からはうかがい知れない。
「確かに時期的なこともあると思うんです。一緒に住み出してからは2年、だんだん相手の悪いところも目に付くようになりましたし」
そう答えて、留利子は顎の周辺だけで微笑んだ。だか、目元に表情はない。
「でも……そういうのって、どんな相手とでも必ずあることですよね?」
「ええ。そうですね」
「『合わない』って思うのは仕方がないことなのかもしれないですけれど、『合わせる努力』をしないといけない時期なのかもしれないと……すいません、僕、随分と偉そうなコトを言ってますよね?」
「いいえ。シェフの言うこと、正しいと思いますよ」
留利子は今度は振り向いて一度目を細めた。ただ、瞼の奥は笑ってはいない。天井からの照明、グラスに跳ね返った光、それらを全部吸い込んでも彼女の瞳は鈍い光しか放っていない。
「でも、それが合わせる努力なんかでは解決できない……根本的に正反対で、お互いがまったく歩み寄ることのできない『違い』だったとしら……シェフならどうします?」
「たとえば?」
留利子は視線をカウンターの奥のキッチンの方に向け、何かを探すようにしながら「うーん……」と呟いた。ゆらゆらとさまよった視線は、冷蔵庫の扉の辺りに何かを発見してか、一度大きく瞬きする。
「食事は空腹を充たすためか、それ以上の満足を得るためか。二つの考え方の間にいくつも妥協点があれば歩み寄ることもできると思います。でも、そもそも二つがまったく別の――『善と悪』のような二者択一の関係だったら――歩み寄るとか、合わせる努力とかは可能でしょうか?」
「……あいだは、ないと?」
「これがただの事実と事実なら、きっとあると思います。でも人の価値観や思想、生き方になると……急にあいだはなくなっちゃうんだと思います。……私は、そうです」
そこまで言い切って、ふうっと留利子は息をついた。トオルはその横顔をのぞき込み、彼女の胸の奥にまだこびりついた苦衷の数々が一体どんなものか探り出そうとする。ただ如何せん留利子は口が硬い。月に一回は来店する彼女のプライベートを、その口から聞いたことはない。それは表情もかわりなく、ポーカーフェイスとはまた違った真意を探りづらい顔をする。
「失礼を承知で思い切って訊きます」
トオルは体勢を捻って座り直すと、留利子に向かって膝を揃えた。
「……どんなところが、相手の方と合わないと?」
「えー、……ううんと、」
最初の『えー』は気のない返事で、あとの『ううんと』に続けて留利子は両腕を頭の上で伸ばして、胸の内と肩の上に溜まった支えを追し出す素振りで、トオルの問いに答えた。
「ほとんどぉ、かな。彼の言う言葉、生活の習慣、価値観……一緒にいると目に付く全部が合わない」
「は、はあ……はい」
出てきた答えに返すべきフォローが見付からず、トオルは思わず口篭ってしまう。
「深刻、っていうより絶望的でしょ。私、振り返ってみると感じたんです。『私達、よくこんなんで今まで一緒にやってこれたな』って」
「それって、彼からの歩み寄りがないから……と?」
「彼、だけじゃないんです。私もそう。二人共、自分のスタンスを大事にするタイプだから、あんまり譲るとか受け入れるってことがないんです。例えば、さっきも言った食べ物のこと」
カウンターに向いていた横顔が、体ごとトオルのほうに向き直ってきた。両膝のところに行儀良く両手を添えたその姿が、なんとなく自分の学生時代に習った音楽の教師によく似ているとトオルは思った。ピアノを引いた後に向き直り、『〇〇君、ここを一人で歌ってみて』なんて言っているときとそっくりだと。もしくは教師という職業の方々は、みな同じような空気を醸し出すのかもしれないが。
「空腹を充たすためか、満足を得るためか。うーん、でも、そんなにすれ違うほどになっちゃいますか?」
トオルが訊ねると、留利子は「それは例えで、そのまんまではないんですよ」と一言はさむ。
「以前、私がアレルギーの影響で食べる物に気を使っている、と申し上げましたよね? 私は『口に入れる素材は安心な物を選ぶこと』が人間の体にとってとても大事なことだと思っています。自分にとってだけでなく、みんなにとって重要な事だと。だけど、彼は違うんです。『体が健康になると、感性の鈍化が始まる』なんて言います。食べるものはファーストフード中心。それって、でも私には絶対に理解ができないんです。……ホント、意味、わっかんない。だから二人で出掛けると、どこで食べるかで大抵ケンカになるんですよ」
「ははは」と、トオルがなんと返答したらよいか苦い顔で困っていると、留利子はその『間』を自分の会話のターンがまだ続いているのだと勘違いしたらしく、捲し立てる勢いでまた更に喋り出した。
「この間の電車でお会いした時もそう。あの日はケンカして、結局何も食べずに帰る途中でした。機嫌の悪い彼に『教え子の前だから恥ずかしい態度はとらないで』ってお願いしたんですけれど、『上っ面だけ取り繕うような生き方を教えるのがお前にとっての教育なのか』って、逆に言い返されて。ああ、もうっ、色々思い出したら愚痴ばかり出てくる! シェフ、もうこうなったら、とことん付き合ってもらいますよぉ」
留利子の口は一度動き出せばあとは坂を転がる玉のように喋り続け、トオルの立場は今や完全に聞き手側にまわっていた。彼女の言葉の間隙を縫うことは困難だったが、そもそもそんなことをする必要もなく、訊きたいことは全部、そうでないこともどっさり、留利子の口からはまるで分別されていない大量のゴミみたいに山ほどの言葉が溢れ出してきた。彼女はそれから延々30分近く、自分と彼の相違点を並べ立てた。最初のうちは打っていた相槌も、終わり頃にはどうでもよくなっていて、トオルが自分のグラスに注いだワインは、もうとっくに空になっていた。
頷けるところはたくさんあったが、首を傾げる事も少なくはない。何より感じるのは、互いの主張を曲げようとしない二人の頑固な面。それを価値観と言えば聞こえはいいが、実際のところはわがままでしかないような気もする。
「いい歳して……」と、何度喉元まで上がってきたか。
トオルはグラスにワインを注ぎ足し、留利子のグラスにも減った分のシャンパーニュを注いでからちょっと考える。正直なところ、このままお引き取りいただけるならそのほうがありがたいのだが、今の留利子の様子ではきっとそうもいかないだろう。頭を捻る。
「あの、ですね」
トオルがそう言って切り出したのは、シャンパーニュの話だった。それはこの液体のちょっと変わったブレンドについて……。シャンパーニュというワインの多くが、普通はあまりやらない『赤い葡萄と白い葡萄のブレンド』で造るのだということ。それに『今年の液体と去年の液体』のように、異なる収穫年のワインを混ぜ合わせることも当たり前だということ。ようするに全然違う物同士が混ざり合って、あの優れたワインが出来上がっているのだということを。
「ただ同じような物同士を混ぜるだけなら、その二つは自然に溶け合っていくのかもしれません。けれど、まったく違うもの同士が上手く混ざったときにしかできない至福は、きっとある。それに……」
最後の一言と笑顔だけを残して、トオルは立ち上がった。キッチンにはまだやりっ放しの道具やら、今夜中に仕上げておくべき仕事が多々あった。彼がそれらに明け暮れるうちに、留利子だってきっと帰るはずだ。彼女には帰る家も、待つ人もいるのだ。
「……どうして、人間って自分に無いものを持っている人に惹かれるんでしょうね。でも、実はそれが生き物の本来の姿なのかな? 自分に足らないなにかで満たしてくれる、誰もがきっとそんな相手を自然と求めるのかもしれない。――正反対のもの同士は引き合う――これってむしろ当たり前なことなのかもしれないですよね。主義とか価値観とかは、人が人を好きであることとは別の『自己』を形成する基準なのかなって思います」
留利子はトオルのその言葉に何かを感じたのか、急にそわそわとしだして、グラスの中の残りをススッと飲み込んだ。
帰りがけに彼女が口にした言葉。
「彼を好きになった時、私はまるで落とし穴に落ちたみたいな感覚だったんです」
「落ちた……?」
「あんなタイプの人を好きになったこともないし、絶対好きになんかならないと思ってました。でも、好きになっちゃった。……足元が突然陥没して、真っ逆さまに落ちていくみたいに」
片手で垂直に落ちる仕草をしてみせた留利子が、そしてとうとう小さな笑顔をみせた。目の奥がちょっとだけ潤んでいるみたいな、そんな思いが覗く笑顔だった。
「恋は、落ちるモノなんです。だって私のこの恋はそうだった。そして気が付けば穴の底。もがいても、もがいても、私はきっとずーっと穴の底から出ることはできないのかもしれませんね」
そう言う留利子に、トオルは小首を傾げる素振りで言葉を返した。
「多分……彼もそうなんだと思いますよ。お二人って、実は案外似ているのかもしれませんね」
トオルの言葉に留利子は首を縦にも横にも振らず、ただクスクスと笑っていた。
◆
その日は、いつもと同じような天気だった。
晴れてはいるが、時折日差しを雲が遮っていく。店の外は春の残りと夏の出来損ないが入り交じったような空気。朝のニュースは取り分けて大きな事件もない代わりに、この国の景気が先行き不安だと嘆く。デジタル放送に進化してからやたらと目立つようになった女子アナの小皺とコメンテイターの多汗が、日本じゅうの人々にとっては目下一番気になるテーマで、『カーサ・エム』のランチタイムは暇とも言えず、かといって忙しかったとも誇れるほどでもなく。ディナータイムの用意はとっくに準備万端、なのに今夜の予約は一件もナシ、だ。
そんな、今日。
いつもとたった一つだけ見付けた『違い』といったら、ディーナータイムのオープン前に美純が店を訪れたことくらいか。普段なら、オープンの17:30を少し回ったくらいに来る彼女は、他の予定がなかったのか今日はいつもより随分と来店が早かった。
「珍しいな。どうした?」
トオルの問いになんだか答えにならないような微妙な返事を返して、美純は今や自分の専用になったカウンターの席の前に立つ。
「なんだ、突っ立ってないで座ればいいのに。もうちょっと待ってくれれば、メシの準備だって出来るからさ」
「…………」
美純は答えなかった。それに座りもしなかった。トオルは最初は食事の準備のために冷蔵庫やらオーブンやらを弄っていたのだが、そのうち彼女の様子にいつもと違う空気を感じて声をかける。
「美純?」
彼女の目はじっとトオルを見ていた。多分、後ろを向いたり屈んだりしたときも、美純はじっと自分の事を見ていたんだろうと感じさせるくらいに、彼女の視線はトオルのところに固定されていた。それがなんだか妙な緊張感があって、トオルは背筋をもぞもぞっとする。
「…………」
トオルは作業をしていた手を止めて自分も美純の目を見るようにした。彼女の視線には、なんだかとても硬い『芯』のような部分があって、それがカラダのあちこちに刺さるみたいでどうにも気になる。だからといって、やめろとも見るなとも言えない。正直、居心地が悪い。
「おーい、美純さん。どうした、また学校でなんかあったのか?」
トオルは何時になく窮屈になった空気を追い払おうと、茶化すつもりで美純に訪ねてみた。それに彼女は答えずに、ただ一度深呼吸をした。
「それとも腹減ったのか? なんなら、今日は特別にリクエスト……」
「――トオル、あのね」
その日はいつもと大して変わらない、普通の一日だった筈だ。
朝の占いも、天気予報も、彼にはなんの警告も送らなかった。Facebookの友達だって、大して『いいね』な内容は書いていなかったはずだ。100点満点の55点、いうなればそんな一日――
「私、トオルのことが…………。いっぱい悩んで、こんなの絶対に辛いだけだって自分に言い聞かせようとして……諦めようとして……。歳だってすごく離れてるのに、こんな気持ちになんて絶対ならないって自分の中では思ってたつもりだったのに。……でも、ダメなの。もう自分でもごまかせないくらいに、気持ちが大きくなってるの」
美純が再びしたその深呼吸は、吸い込んだ空気を全身に駆け巡らせ、そして彼女の身体のなかにある想いの欠片を一つ残らず集めてきたに違いない。でなければ17歳の少女の言葉にそれほどの重さがあるはずはないのだ。
――34歳の男が一言も返すことができずに、ただその想いに圧倒されるだけのはずは。
困惑も動揺も、それはずっとあとから押し寄せる津波のように、今の彼には縁遠い。この瞬間がまるで時間だけ止まったまま、空気や湿度や部屋に内包されている物質が全部、彼に想いの圧力をかけて身動きできなくしているみたいだ。
「私、……好きなの……どうしてもトオルが好き。ねぇ、どうしたらいい?」
目に見えない落とし穴に落ちた少女が一人。
それ以外はいつもと大して変わらない――そんな一日。
――――Opposites attract.