No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 2
ランチタイムが始まる頃になると、哲平はいつものように出かけてしまった。
トオルは彼が残していったタバコの痕跡を消すために、消臭スプレーを撒き散らし、ニンニクを焦がし、そして自分用のエスプレッソ・コーヒーを炊くポットを火に掛け、偽の香り付けをするのだ。
そうすると複数の香りが入り交じった、妙に落ち着かない臭いが出来上がる。
入口の扉を開放し、換気扇を“強”で回して、それで今朝の証拠の隠滅は完了する。
ポコポコと、コーヒーが沸く音が仕出した。
彼がエスプレッソ・コーヒーを入れるために使っているのは直火型のコーヒーポットで、大きく分けると三つのパーツに分かれた造りだ。下部のタンクのような部分に水を入れ、その上にフィルター状の部品がついた漏斗(じょうご)を取り付け、コーヒー豆を挽いたものをそこに入れる。上部にもう一つの部品を取り付け、ちょうど上下の部品で豆の入った漏斗をはさむようにセットする。そして火に掛ける。
上部のパーツは金属製の蓋の付いたマグカップのような作りで、カップの底部にあたる部分の中心から天井に向けて、ニョキっと柱のような部品が突き出している。下部の水が加熱され水蒸気となって、漏斗を、コーヒー豆の層を通り、最後は柱の中を登ってくる。柱の先端には幾つか小さな穴が空いていて、そこから吹き出してくる水蒸気が、焦げ茶色の香り立つエスプレッソ・コーヒーである。
軽快な音がするのは、その穴から水蒸気が吹き出す際にする音だった。
ポコポコ、ポコポコ、と割とコミカルな音だ。
ポット自体は機能重視の案外素っ気ないデザインなだけに、聞こえてくる音が尚更滑稽に思える。
そして出来上がりの合図。ポコポコ音が聞こえなくなって、シューっと空気の抜けるような音に変われば完成だ。
トオルは出来立てのコーヒーをカップに注ぎ、そして飲んだ。
習慣のように毎朝飲むこのコ-ヒーが、彼にとってのスタートラインになる。
ごく稀にだが、この神聖な儀式を邪魔する早起きの客がいて、そういう日はなんだか全部が上手くいかなくなってしまう。
まぁ、何にしろ最初が肝心ということらしい。
仕事も、遊びも、出会いも。きっとなんでもそうなんじゃないかと、トオルは思う。