Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 10
それからしばらくは今日の事について話した。CDショップでのこと、平太の店で出た料理のこと。けれどさすがに一時間近く同じ空間にいるとだんだんと話題も尽きてくる。そのうちひとつ会話が終わると、次の話題が浮かぶまでなんとなく二人とも無言になるようになった。その間も電車はどんどんと走る。やがて美純の降りる駅が近付いてくる。
「本当にいいのか?」と訊くトオルに、美純は何度も首を振った。それでもトオルは簡単には納得できなかったから「やっぱり、降りるよ。俺にだって遅くなった責任はあるんだし」ともう一度説得を試みるのだが、変わらない。美純はまた首を振る。
「大丈夫。駅からだってそんなに遠くないんだし。心配しないで」
「そう、なのかもしれないが……」
立ち上がった美純がトオルの脇をくぐり抜け、そして彼の背中に回り込む。伸ばした両手でスッとその背中を押してきた。それは決して強い力ではないのだが、間違いなく彼女の口から出た言葉よりは固い拒絶だったので、トオルは押されるままに力なく膝を折られてしまうと、さっきまで美純のいたシートへと座らされてしまうのだった。腑に落ちない顔をしてみせるが、その表情をまじまじと見る美純に、最後の最後は笑顔の力で説き伏せられてしまう。
「ありがと、トオル」
音をたてて開くドアの方に後ろ足を一歩踏み出して、美純は言った。その顔に少しでも未練のようなモノを覗かせてくれたなら、多分トオルも立ち上がることが出来た。けれど美純の顔は曇りない。
「気を付けてな」
「もう、センセーみたいに言わないで。まだ九時だし、降りる人だってこんなにいるんだから」
「わかったよ。もう、言わない」
さすがにトオルもこれ以上の抵抗は出来なかった。顔の前で手のひらを振り、降参のサインのようにみせたると、それを見て美純は頷き、踵を返してドアに向かって歩き出した。
最後に一度振り返り、トオルに声をかける。
「今日は、嬉しかった。バイバイ」
そして美純は手を振って電車を降りていった。それっきり一度も振り返らない彼女を、トオルは扉が締まるまで見送った。
彼女の背中を追い越して電車がホームを抜けていく。それまで気にも止めなかった走行音がやけに耳に付いて、落ち着かない気持ちになる。トオルはずりっと腰をずらし、やや固い材質のシートに深く背中を沈めてみるが、彼の気が紛れるほどはシートは受け入れてはくれなかった。自身が降りる駅は美純が降りた駅とはたったのひとつしか違わないのに、何だか随分遠くに連れて去られて行く気がした。
不意にトオルは留利子の事を思い出して、もぞもぞと座り直した。そういえばすっかり彼女の存在を忘れていた。大事な常連さんなのにその扱いはあんまりな気がして、彼は苦笑いする。ちらっと横目で見ると隣の車両はだいぶ閑散としていて、その中で留利子と男が特に会話もない様子で座っていた。二人のそばには他の乗客は残っていないようだったから、その車両はまるで二人の貸切車両のようにも見えた。
他人のプライベートに兎や角口をはさむつもりはまったくないし、誰が誰と恋愛をしようとそれも自由だと思う。だけど何故かトオルには、今の彼女がそこにポツリと置き去りにされているように思えて胸が痛んだ。
視線を外して窓の外に目をやると、進行方向に少しずつ明かりの数が増えてきた。もうじき駅にたどり着くのが車窓に映る見慣れた景色でわかる。きっと、あの二人もこの駅で降りるはずだ。トオルは立ち上がると連結部分を渡ってもう一車両分彼らから離れる。扉が開いてからは足元に目を落としたまま改札を出た。他に用事もなく飲み直す気分にもならなかったので、それっきり彼は一度も振り返ることなく、早々に家路につくことにした。
◆
よくよく考えてみれば、今や音楽はインターネットで買う時代だ。あらためて気付くまでもなく、当然のことだ。例えばCDを買ってみても、実際にそれを聞くときは一度パソコンに取り込んでからさらにポータブル・ツールに転送したりするわけで、そうするとひと手間増える事も含めて『物体』の価値は随分と低いはずだ。
ようするにトオルが考えたのは『アレは本当に必要だったのだろうか?』ということだった。帰りの道すがら聴く音楽を選曲している美純、それはネットからのダウンロードでも済んでしまうことだったんじゃないだろうか、と思うわけだ。わざわざ遠くまで出かけていく理由はあったのか、などとはまぁ、今更言うことでもないのだろうが。
二人で出掛けたあの日から数日が経っていた。美純が耳にする音楽に『カーサ・エム』で普段よく流れる曲が幾つか加わったほかは、これといって何も変わらない日々が続いていた。
「ごちそうさまでした。今日も、……ありがと」
「ああ、気を付けてな」
「うん。また明日」
そう言って『カーサ・エム』をあとにする美純の背中を横目で見送りながら、トオルは手元の皿を仕上げる。皮目をパリッと焼き上げたクロダイに、夏の清涼感のあるハーブのサラダを付け合わせたひと皿は、アボガドオイルのさっぱりとしたソースを垂らして出来上がりだ。
変わらない日々。
トオルのその毎日の一部に、気が付けばいつの間にか美純が入り込んでいた。彼女が『カーサ・エム」に来ない日はもう家族と過ごす日曜の夜と定休日くらいだ。驚くほどに自然に溶け込んで、それがトオルにとっても違和感なく感じられるようになるまで、そんなに時間は掛からなかった。自分の半分しか生きていない少女を得体のしれない生き物と考えていたちょっと前では、彼女のような年齢の娘と言葉を交わすことなど想像もつかない『偉業』のように感じていたが、実際そこにたどり着いてみるとそれはただの『昨日と変わらない今日』のように当たり前のものとなっていた。そして多分、明日も変わらないのだと思う。
カラカラと扉につけたベルが鳴って、いつもと同じように来客を迎える。
「いらっしゃいませっ」
「……こんばんわ」
その扉をくぐって入ってきたのは留利子だった。彼女もまた、変わらないリズムを自分のスタイルにする女性だ。ハイもローも作らず、平均点を少し越えた自分を維持することで社会に溶け込むタイプ。ただ、――今日に関してはちょっと事情が違うような気がした。何故なら、二週に一回のペースを守る自分へのご褒美に彼女が訪れた前回の来店は、確かつい先週のはずだったからだ。
「あれ、今回はあいだ、短かったですね」
「あ、……ああ。そうですね、前回来たのって先週でしたよね?」
表情と反応、留利子がみせるちょっとしたぎこちなさや違和感に、トオルは直感的に何かを感じ取って敢えて首を傾げるような素振りをみせた。肯定も否定もしない曖昧な返事で返す。カウンターを出て、彼女の持つ手荷物を預かろうと手を伸ばすと、渡されるのは紙袋ばかりが幾つかあって、普段であれば身軽に訪れる彼女にしてはそれもまた不自然だった。トオルは彼女にカウンターの席を促し、留利子は黙ってそれに従った。
「シャンパーニュで、よかったですか?」
「あっ……」
顔を上げた留利子は一瞬考えるような素振りをみせたのだが、すぐに「はい、お願いします」と答えを返してきた。トオルはワインセラーの上段の棚にしまってある留利子専用のハーフボトルを取り出して、栓を開けた。一旦そのままグラスに注ごうとして、ふと躊躇する。
「最初の一杯だけ、カクテルにしましょうか?」
「えっ? ……あ、はい。何でも」
掴みどころのない微妙な返事をした留利子から顔をそらして、トオルは冷蔵庫の中から黒ビールを取り出した。そしてグラスの半分まで注いだシャンパーニュに、もう半分、ゆっくりと注ぐ黒ビールで充たしていく。
「どうぞ。ブラック・ベルベットって名前のカクテルです」
注ぎきる様子をなんとなく見ていた留利子がポツリとこぼす。
「シャンパンとビールのカクテルなんですね。嬉しい。泡のお酒好きの私には、もってこいのチョイスかも」
「そう言っていただければ幸いです」
呟く言葉とは裏腹に、ちっともすっきりとしない表情の留利子をトオルは黙って見詰めながら、瓶に残った方の黒ビールを新しく出したタンブラーに注いでいく。
「あの……そちらのビールって、どうなるんですか?」
トオルの手元に目を取られながら何気なく訊ねてくる留利子に、注ぎきったトオルが答える。
「これは、僕のです。ちょっと留利子さんと乾杯しようと思って」
そう言ってトオルはグラスを彼女の前に差し出した。
「お疲れ様でした」
「あっ…………。ありがとう、ございます」
留利子はおずおずとグラスを差し出し、そしてトオルのグラスに重ね合わせた。しばらく眺めたグラスをゆっくりと傾け、最初の一口をじっくりと楽しむと、一息付いてから呟いた。
「すいません、私、変でした? なんだか気を遣わせちゃいましたよね」
トオルは肩をすくめて「いいえ」と軽く答えてみせる。ごくごくと喉を鳴らし、彼はたったのふた口でグラスの中身を飲み切ってしまった。そして満足そうな笑顔をすると、その顔のまま留利子に向いて訊ねた。
「お腹、空いてますよね? 何か食べますか?」
「あ……。ええ、美味しいもの、食べたい」
留利子はそう答え、そしてようやく笑顔のようなモノを顔に受かべることができた。トオルは腕をまくるような素振りをしてひとつ頷くと、目を細めて言う。
「それ、ぼくの得意料理です。よく言われるんですよ、『あなたの作るもの、何でも美味しいのね』って」
「ふふふ。いいんですか、期待しちゃいますよ?」
そう言って彼女は、今度はやっと笑って答えられた。