Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 9
帰りの電車は帰宅ラッシュの少し後になった。座ることこそ出来なかったが乗るのもやっとというわけでもなく、トオルと美純はドアのそばに向かい合って立った。窓の外の景色は工場地帯に入ったらしく、月明かりの下をシルエットの建物が流れ、過ぎていく。その様子を美純は横目でぼんやりと眺めていた。
トオルはちらりと腕の時計を見る。針は既に八時を回っていた。
さすがにちょっと食べてすぐ帰るというわけにもいかないとは思っていたが、ここまで遅くなるつもりはなかった。トオルは、なかなか帰そうとしない平太のスペシャルデザート攻勢に見事に釣られた美純を、ほんのちょっとだけ憎らしく思ったりもする。サービスで出された何種類ものケーキが盛られた皿に、少女は満面の笑みで舌鼓を打っていた。あれで足止めされた。
けれど多かれ少なかれ、自分だって悪いのだ。実際、帰るつもりだったらいくらだって早く済ますことはできたはずなのだ。それこそ美純を理由にしたっていい。だが、そうしなかったのは自分だ。
本当はまだ、話したいことはたくさんあった。それを思い切って店を出た。実際、自分にだって帰る気があったかどうか、あやしい。美純はそれを察していたのだろうか? 自分から出ようとは言わなかった。
トオルは窓ガラスに映る彼女の横顔を盗み見る。美純は瞳を柔らかくして、闇に落ちた夜の風景に自分も沈んでいくみたいな表情をしている。
もし、彼女が自分に気を遣ってくれていたのだとしたら――それはちょっと嬉しかった。
「ん?」
ガラス越しの視線に気付いた美純がトオルの方に顔を向けてくる。トオルはすぐに言葉が出てこなかったから、代わりに笑顔で返した。美純も同じように笑顔で応えた。それからしばらく二人の間には会話らしい会話は出てこなかったが、トオルは別に気にならなかった。沈黙の間に流れる空気が、思いがけず釣り合った天秤のバランスみたいにピタリとして自然だったからだ。むしろ口を開くほうが違和感がある気がした。
『まもなく、……駅』
車内にアナウンスが響いて、次の駅が近づいたのを知らせる。しばらくすると電車は速度を落とし始め、やがて駅のホームへと滑り込んで行った。今度は別のアナウンスが、二人のいる側のドアが開くのを告げた。スーツ姿の男性が立ち上がって、ドアに向かって歩いてくる。トオルは乗降客の邪魔にならないよう気を遣って、ほんの数歩だけ美純の側に寄った。
「あっ……」と美純が呟いたその一言で、途端に二人の間のバランスが崩れた気がした。
「どうかしたか?」
「う、ううん。なんでもない」
「そうか……」
それっきり美純は何も言わなくなってしまった。さっきまでの空気がまるで嘘みたいにギクシャクとした。彼女の視線が何かを探すようにあちこちを向いて落ち着かなくなった。その様子につられてトオルも何だか黙りこくってしまう。
扉が締まるのを待って体を離そうと、トオルは一歩後退った。その時急に誰かに声を掛けられた。
「あら、こんばんわ! こんなところでお会いするのは、初めてですね」
それほど大きくはないが、なのによく通る声。それに覚えのある声だ。振り返るとそこには、留利子が立っていた。彼女はグレーのスーツにラベンダーカラーのブラウス姿だった。
「えっ、……あ、ああ。こんばんわ、今、帰りですか?」
トオルが咄嗟の返事で訊ねると「ええ、そんなところです」と、彼女はちょっと濁すように答えた。
もう一言二言、言葉を交わすつもりでトオルは留利子の方に体を向けた。そのせいでさっきまでは彼の影に隠れ、留利子からは見えていなかった美純の顔が覗いてしまった。
「あっ」
「エッ? あ、ああっ?!」
美純と留利子、二人が同時に驚きの声を上げた。それでトオルは『しまった』と思った。時刻は夜の九時近く。つい先日、同じような理由で留利子に釘を刺されたばかりだった。おまけに今日はうまい言い訳も思い付かなかった。これは正直に詫びるしかないな、とトオルは小さく嘆息した。
くっ、とシャツの袖を引っ張られて、彼は視線を落とす。そこには美純の顔が困ったような諦めたような不思議な表情をしてトオルを見ていた。その様子を見て『そうだ』、とトオルは思い直す。たとえ自分がこの場をうまく解決したとして自分はそれでいいかもしれない、けれど美純はその後も学校で留利子と顔を合わせなければならないのだ。少しでも居心地の悪い思いを残させないようにするのが、彼女を連れ出した者としての責任のような気がした。トオルは美純に「大丈夫だ」と声をかける代わりに、ちょっと口元を上げてみせた。この場をやり過ごすだけでなく、この場で解決する。留利子にはきちんと納得してもらわないと、とトオルは留利子の正面に立つように体を向けた。
が――逆に留利子はトオルと向き合おうとはしなかった。顔は笑顔だが、その奥には戸惑いのような色が覗いた。「それじゃあ、……」とはぐらかすように彼女は立ち去ろうとする。トオルは不思議な感じがした。いつもの彼女とは様子が違った……それはよく見ると身に付けるモノにしてもそうだった。主張のはっきりとしたピアスやネックレス、それに指輪の数も『カーサ・エム』を訪れる時よりも多い気がする。
その疑問を解決する声が、留利子の後ろから聞こえた。
「おいっ、座るぞ」
「あ。う、うん」
留利子の後ろに立った男が彼女に声をかけた。それにちょっと固い表情で笑顔を作って答えた留利子は、その表情のまま振り返りトオル達に軽く手を振って離れていった。そして三人掛けのシートに男と二人で腰掛ける。大股で体をやや投げ出し気味の男が1.5、そして留利子が0.7。二人掛けにはちょっと収まらない微妙なサイズだ。まぁ、確かに周りにはトオル達以外、チラホラとしか立っている乗客はいないのだが。
留利子は時折男と会話を交わす以外、顔を上げない。じっと手元を見て、ちらりと男をほうを向く、を何度か繰り返しただけ。意識してトオル達の方には顔を向けないようにするぎこちなさを感じた。トオルは軽く美純の肩を押して言った。
「行こう……」
「えっ? ま、まだ、着かないよ」
「いや、そうじゃない」
トオルは彼女の背中を押し、隣の車両の端に移動していった。美純は最初は怪訝な顔をしていたが、すぐに素直に従った。一つ見付けた空席に彼女を座らせると、トオルは吊革に掴まって黙り込む。美純がしばらく顔を覗いてきているのがわかっていたが、何も言わなかった。
代わりに美純が口を割った。
「噂で訊いたことがあったんだけど、センセー、彼氏がバンドやってる人なんだって。ドラムの人。インディーズらしいんだけれど、この辺ではちょっと売れてるらしくってメジャーの声が掛かったこともあるとか、ないとか」
「ふーん、そうなんだ」
「でも……」
美純が急にムッとした顔をした。トオルは目顔でその理由を訊ねた。
「〇〇ってバンド。私は知らない、聞いたこともない」
ぶぅとした顔で隣の車両に目を向ける美純に、トオルは思わず吹き出してしまった。
「この辺じゃ、有名なんだろ? 知らなきゃダメじゃないか」
「だ、だって……きょ、興味ないもん……、ロックとか」
「お前らの歳でそんな事言ってたら、友達と話しが合わないんじゃないのか? 『美純ちゃん、ちょっと変わってるよね……』なんて、クラスで噂になってたりな」
「そ、そんな事ッ!! あっ……」
車内にいることを忘れて一瞬大声で反論してしまった美純は、反応して顔を上げたすぐ隣りや正面の乗客の視線を浴びて、しゅんとなってと小さくなってしまった。しばらくモジモジとしていた彼女だったが、周りがしんとなってほとぼりが冷めた頃、恨めしそうな目を向けてトオルにもう一度不服を申し立ててきた。
「……そんな事、ないもん。……トオルのバカ」
さっきの二十分の一くらいの小声が精一杯抵抗をしてきた様子に、トオルはあまりに可愛らしく思えて、ついクスクスと笑ってしまうのだった。もちろん目の前ではさらに不服そうな顔になる少女が、鼻の頭に皺を寄せて異論を唱えるのだが。