Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 8
「ん。やっと笑ってくれたな」
「えっ?」
平太の言葉に、美純はちょっと不思議そうな顔をした。
「だって、女の子はやっぱり笑ってくれないとね」
「そ、そんなに固い顔してました、私?」
美純は今度はドギマギとして平太を見た。そしてすぐに視線をトオルに移すと、目顔で確認する。それにトオルは、わざと両方の人差し指で目尻を引っ張ってみせる。
「……こんなだった」
「う、うそっ?!」
美純は顔を赤くしてあたふたとした。平太がその様子をみて吹き出した。
「ははは、お前、悪い奴だなー」
そう言って彼は遠慮なくトオルの背中を平手で叩いた。トオルは「うっ」と息を詰まらせる。実際、結構な力で叩かれたのだ。
「ね。大丈夫だよ、そんな顔はしてないから」
「ほ、本当ですか? ……うううっ」
安心したのと同時に悔しいのが出てきたらしく、美純は恨めしそうな目でトオルを睨みつけた。トオルはニンマリとして彼女の視線を楽しむ。ところが突然、彼の視界の中から美純の姿が不自然な動きで飛び出していった。――というより、トオルの世界が大きく揺れて回り始めたのだ。見ると平太がトオルの頭をわしっと掴んで、ぐるぐると振り回していた。トオルは慌てて掴む腕を振り払おうとするが、彼はそれを物ともしない。そして平然と平太は美純との会話を続けた。
「いいかい、こんな奴の言うことを鵜呑みにしちゃダメだよ。こいつの性格は捻じ曲がってんだ。たまたま、360°ピッタリで一回転したから人の顔をして生きていられるだけで、中身はただの悪党さ」
「おい……あ、」
トオルが一言返そうとすると、平太の腕に力が入った。振り回されるトオルの頭が、回転数を上げた。世界がますます加速していく。
「ところで、君、名前は?」
「あ……、美純です。四方美純といいます」
「そう。俺は古沼平太、よろしくね」
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
美純は平太の紡ぎ出す会話と魅せる表情に、自分でも知らぬ間に緊張を解いていた。彼女の表情はいつのまにかほぐれ、次第にいつものような自然な笑顔もこぼれ出していた。
「ああ、そうだ」
急に思い出した素振りで、平太は動きを止めた。そしてぱっと掴んでいた手を放す。おかげで振り回されていたトオルの頭はようやく開放され、彼はともかく項垂れた。
「……お前、な」
今度はトオルが恨めしそうにした。が、平太は悪びれた様子もない。おまけに彼はちょっと意地悪そうな顔になると、トオルに向かって平然と尋ねた。
「ご注文はお決まりですか、お客様?」
「……決まるか。もういいよ、お前に任せる」
「ははは、了解」
面倒臭そうに答えるトオルに、平太はあっけらかんと笑う。そうして今度は視線だけを美純に移すと、彼女にも訊ねる。
「美純ちゃん、嫌いなモノはある?」
美純はそれに首を横に振って答えた。平太は口角を上げて了解のサインを出すと、「ゆっくりしてってくれよ」と一言残し、二人のテーブルから離れて行った。
美純の目はしばらく平太の後ろ姿を追っていた。横顔にさっきまでの笑顔の面影が残っている。トオルはそれをぼんやりと眺めていた。そして思った。そういえば、こんなふうに同じ目線の高さで彼女と過ごすのは、あの日以来かもしれない。
美純と出会った、あの日の夜以来――。
これまで、自分と美純の関係はカウンターを挟んだ上で始めて成立するものだと思っていた。彼がよく通うハンバーガーショップの店員と同じ、店の外で出会えば逆にギクシャクとしてしまうような関係。けれど、実際はそうでもなかった。確かに歳は離れているし、ちょっと違和感はあるが、かといって別に不自然というほどではない。奇妙な感じがした。うまく言葉にはできないが、彼女のことを許容するある種の感情がトオルの中にあるようなのだ。だが、その感情が何なのかは、彼自身もよくわからないでいた。
「ねぇ!」
急に声を掛けられた。それでトオルははたとして声のする方に視線を向ける。すぐ目の前で美純が自分の顔をのぞき込んでいた。彼女は何度か呼んでいたらしく、トオルがなかなか気付かないことにちょっと腹を立てていた。頬をふくらませてむくれていた。
「乾杯、……しないの?」
美純は自分のジュースのグラスをトオルの前に突き出してくる。トオルはそれを見て、我に返った。息を吐くとそれは思いのほか深かった。一緒に肩の力が自然と抜けていった。どうも体に力が入っていたらしい。
トオルはゆっくりと自分のグラスを上げた。
「乾杯!」
「乾杯……」
美純はさっきまでとは打って変わった満足そうな笑顔をみせた。グラスを傾けるとジュースを一口飲んで、またさらに笑顔をこぼした。
「どうかしたのか?」
トオルが問いかけると、美純は小さく首を振って「なんでもない……」と呟いた。その顔は随分と嬉しそうに見えた。
窓の外はもうほとんど夕闇の中に落ちていた。外の世界はライトの明かりに照らされた部分だけが、ポッカリと浮かび上がって見える。時折、その光の輪の中を横切る人がいる程度で、辺りは随分と静かだ。人口過多の交差点はここからわずか数百メートルくらいしか離れていない。ちょっと不思議な感じがした。
「ねぇ、トオル」
急に美純がトオルを呼んだ。彼女は俯いたまま、問いかけてきた。
「うん?」
「私達って、……どう見えるのかな?」
「あん? どうって何が、だ?」
聞き返すが、しばらく美純は答えない。続く微妙な空気と沈黙。トオルはちびりとシャンパーニュを飲みながら、美純が再び口を開くまでの時間を待った。
「…………」
「おい、美純?」
とうとうトオルは呼びかけた。それで美純は顔を上げ、ためらいがちに言う。
「その……私達って、さ。はたから見たら、お、親子みたいに見えるのかな?」
「はぁ?!」
美純の言葉はトオルをちょっと驚かせ、だいぶ落胆させた。思わず出てしまった大きな嘆息のあと、トオルはやや不機嫌に言う。
「あのな、確かに歳は離れているが……お前にとって、俺は親父扱いか。さすがにそこまで老けてないだろう?」
「ち、違うよっ! そういう意味じゃなくて!!」
美純は両手をぶんぶん振って、トオルの言葉を全面的に否定する。それでもトオルの表情はむすっとしたままだ。美純はちょっと困った顔になってしまう。
「私、そんなこと、思ってないのに」
その声はこころなしか悲しそうな音で響く。美純はポツリと呟き、顔を塞ぎ込んでしまった。それでトオルは大人気ない自分を反省する。
「美純、今のは俺が悪かった。ごめんな」
「ううん……」
美純は顔を上げ、首を振った。笑顔を作ろうとしたようだが、その表情は沈んだままだ。トオルはさっきよりも深く反省した。自分は何をそんなに不満に思ったのだろう? 相手はひと回り以上も歳下の少女で、言葉に悪意はないのだ。トオルはもう一度、「ごめん」と謝った。それで美純はようやく気を取り直したようだ。今度は口元をそっと微笑ませて、トオルの謝罪に答えた。
が、それからしばらくちょっと気まずい空気が続いた。自分の配慮のなさがそうさせたのだが、それをどうやって解消すればよいかとトオルは頭を悩ませてしまった。美純は一度笑ってみせたあとは、ずっと視線をテーブルの上に落としたままだった。じっと一点を見つめたまま。トオルはそんな彼女にかける言葉が見付からないでいる。居心地の悪い沈黙が続いた。トオルのグラスは、もうほとんど空になっていた。
ふと、美純の表情が固くなるのを感じた。肩に力が入るのが見てとれる。トオルの方からは見えなくても、その動く様子でなんとなくわかった。彼女が膝の上で拳を握り締めていた。美純は何かを言おうとしていた。唇が何度か開いては、躊躇して閉じるを繰り返した。そして随分とそうしたのちに、とうとう決意が言葉になって彼女の口をついて出た。
「ねぇ、……トオル」
「ん、なんだ?」
「…………」
「なんだよ、一体?」
トオルはもう一度躊躇した美純の背中を押すように促す。それで彼女は顔を上げ、言葉を続けた。
「あのさ、……平太さんって、昔からの知り合いってことは、トオルのことをよく知ってるんでしょ?」
「まぁ、10年ちょっとは交流があるしな」
「そう……」
「どうした?」
美純は大きく一つ、深呼吸をした。表情は一層固くなって、瞳は真剣そのものだった。実際、身を乗り出しているわけではないが、まるでそうされているような錯覚さえ覚える、一種独特な緊張感を彼女から感じた。つられてトオルも息を呑んだ。落ち着かなくなって、椅子の上の腰を少しずらした。
短い沈黙が、いつまでもずっと続くように感じた。トオルは膝を組み替える。視線を一度革靴のつま先に落とし、それからもう一度正面の少女に向けた。美純の視線はそのあいだ中ずっと、自分に向いていた。二人の視線が絡んだのを合図に、ようやく美純が口を割った。
「そんな、ね……トオルをよく知ってる人から見て、一体、私達ってどう見えてるのかなって思って。そういう人が見ても家庭教師とか、身内とか、……私達二人ってそんなふうにしか見えないのかなー、って」
「あのな、美純。違うぞ。家庭教師ってのは、あいつのくだらない冗だ……」
トオルの返す言葉を、ちょっと早口な美純の言葉が押し留める。
「……多分、」
彼女の目がトオルをじっと見つめてくる。ずっと深くを見つめてくる。
思わずトオルは唾を呑んだ。
そして――――
「きっと私達……『恋人同士』とかには、間違っても見えないんだろうなー、って……」
言うと、すぐに美純は俯いてしまった。
「…………は?」
思わず言葉を失ったのは、驚きよりも毒気を抜かれたからかもしれない。トオルの思考は、行き場を失って一旦停止した。
しかし、だ。トオルが彼女の口から出た言葉に唖然としていると、向かいに座る少女の肩がくっくっと揺れた。最初それは小さく控えめだったが、次第に小刻みな震えに変わる。俯いていた彼女の横顔がいたずらっぽい笑みをこぼした。そしてとうとう全部が我慢できなくなったのか、満面の笑みを浮かべてトオルの方を振り向いた。
「ねぇ、私達って、ぜーーっっったい、援交だと思われてるわよね?! 大丈夫よぅ、私はちゃーんと否定してあげるから、ね」
「なっ……?!」
トオルは再び絶句した。停止したままの思考が、彼女の言葉をうまく飲み込めずにあたふたとしている。美純はそんなトオルの表情に満足そうにニンマリとすると、もう一言。
「安心していいわよ、……パ~パ♪」
「……お前、いい度胸だな」
トオルは悦に入った顔の美純を斜めに見返した。テーブルに肘を付き、顔は仏頂面になる。次第にふつふつと腹立たしいのが湧いてきた。こんな小娘に、自分は一杯食わされたわけだ。傾けたグラスが空なのが、ますますもって悔しい。